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極西文学論 Westway to the World

仲俣暁生・著 晶文社刊 240p ISBN:4-7949-6645-8 \1,600(税別) 

装丁:アジール・デザイン 写真:ウォルフガング・ティルマンス

「極西」文学。それはテクノロジーと戦争の時代が生んだ新しい小説の姿だ。

舞城王太郎、吉田修一、阿部和重、保坂和志、星野智幸。 村上春樹がかつて切り開いたポップ文学のハイウェイを駆け抜ける五人の現代文学作家を軸に、ポスト9・11の 時代における「小説の可能性」を探る、最新型の文学論。

引用文献一覧


この本への著者の自注を読む→《陸這記》 crawling on the ground

〈目次〉
1ー出発
 

2ー転回点 

3ー路上と森 

4ー東京 

5ー世界の涯て 

epilogueーさらに「西」へ

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第2回 「世界の終わりでダンスダンスダンス!?」 ゲスト:西島大介さん

http://www.book1st.net/sound_even.html

■会場:ブックファースト渋谷店 ■日時;3月12日土曜日 午後3時00分〜
■定員:40名(ブックファースト渋谷店2階カウンターで整理券を先着順に配布) 
■問い合わせ ブックファースト渋谷店 tel 03-3770-1023

出版社のページへ→晶文社ワンダーランド

店頭用ポップ「極西くん」テンプレート(イラスト by 西島大介) JPEG版 PDF版 
※より解像度の高いイラストレータのファイルが必要な方はメールでご連絡ください。


■この本への書評より

・「偽日記」(2004/12/18) 古谷利裕さん http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html 

 この本は何かを掘り下げて論じるというような本ではなく、ある「地域」の存在を指し示し、人々にそこへ訪れることを誘い、そのなかを訪れた各人がそれぞれの関心に従って歩き回り、あるい立ち止まってその場所を掘り下げることが出来るようにするための、地図でありガイドブックのようなものだろう。しかしこのガイドブックは、既に存在している「地域」をたんに示す(解説する)のではなく、潜在的なものとしてある空間を、地図を書くという行為によって可視的な「地域」として浮かび上がらせるという効果をもつ。

・「無事の記」(2004/12/25) 杉田俊介さん http://www5c.biglobe.ne.jp/~sugita/nikki.htm

 ぼくは『極西文学論』の内容は「空間的」「地図的」な本ではない、と感じた。少なくとも、ムカシ流行した記号論的な都市論などとは、全然違うと思う。そんな安定した空間感覚はこの本にはない。だから、場所名や歴史の出来事の名前がふんだんに鏤められていても、そのことが逆に、空間感覚の喪失感を露出していく。「では、私たちは本当に、どこにいるのだろう?」。
 しかし、その感覚的な混乱を整理しコントロールするために、その場その場で地図を作成し自分の居場所を確認する、新しい道を切り拓いて行く、という意味では――「地図的」ではなく――「地図作成的」な本だと思う。

・「東京新聞」(2004/12/26)「2004 私の三冊」〜小熊英二さん 

 「アメリカの極西としての日本」という視点から、現代という新しい戦争の時代における日本文学を論じる。現実と文芸批評を切り結ばせようとする意欲がみなぎる。

・Amazon.co.jpのカスタマーレビュー「監視と、眼差される恐怖を軸に語られる反グローバリゼーション文学論」(2005/1/5)〜モワノンプリュさん

 この本の批評の道具立てでより本質的なのは、視線と恐怖という対概念だろう。視線とは権力の視線であり、恐怖とはなすすべなく権力によって眼差される恐怖だ。たとえば爆撃機から地上を見下ろす視線と、燃え盛る地上を逃げ惑う恐怖。GPS衛星から地上のすべてを誤差数センチ以下で捕捉する視線や、街頭の監視カメラの視線と、「いま・ここ」の主体性を剥奪される私たちの存在論的恐怖。
 著者が現代日本の文学作品に探るのは、こうした権力関係に対する抵抗のあり方だ。比喩的に言えば、眼差し返すこと。ただし上空から見下ろし返すことで権力関係を再生産するのではなく、見下ろす視線と見上げる視線、そして水平的な視線の交錯の様態、つまり権力関係そのものを見返すこと。「極西」といういかがわしい用語は、サイード的オリエンタリズムの視線の反転という意味で、この眼差し返しを暗示する言葉でもあるのだろう。

・内田樹さんのブログ「内田樹研究室」(2005/1/6) http://blog.tatsuru.com/archives/000656.php

 ポスト村上春樹世代を代表する舞城王太郎、吉田修一、阿部和重、保坂和志、星野智幸の五人の作家を論じたもの。 私はこの五人の小説をまるで読んでないが(いちど書評を頼まれて、その中の一冊だけ読んだことがある)、日本の現代文学をロックやビートニク文学やドイツ映画などとリンクさせて、その世界史的なポジションを浮かび上がらせるという構想は「教養」主義的で好きである。
 ただ、「ポスト村上」という枠組みの意味が私にはよくわからない。
 前にも書いたけれど、私は歴史の審判力というものを信じていないので、「ポストなんとか」という枠組みでものを考える習慣がない。 人文科学に関して言えば、後から来たものは、たいていの場合、たまたま後から来ただけであって、原理的に先行者よりも優れているということはない。
 百年前の作品であろうと昨日の作物であろうと、いいものはいいし、ジャンクはジャンクである。
 どんな歴史的制約があっても、時代の枠組みを超える人は超えるし、超えない人は超えない。

・「ミュージックマガジン」2005年2月号random access欄〜山本伸さん

 じつに緻密な「読みもの」である。本人は文藝評論ではないとするこの文学論に登場するポスト村上作家たちの、いずれも「計算された書き方」に勝るとも劣らない筆致だ。

・「文藝春秋」2005年2月号 「今月買った本」欄〜斎藤環さん

 本書ではまさに日本の「ポップ文学」である舞城王太郎、吉田修一、阿部和重、保坂和志、星野智幸らが取り上げられ、ライブ感覚に溢れた「作品」となっている。仲俣も自ら「サントラ」つきの「ドキュメンタリー」と述べている。「J文学」という商標が曖昧化してしまった文学に潜むダイナミズムを、「極西文学」という新しい言葉で掬いとろうとする身振りは新鮮だ。

・「新潮」2005年3月号 「本」欄 『西方へのロード・クリティックは何を選び、何を捨てたか』〜池田雄一さん

 この本の表紙には、写真家ウォルフガング・ティルマンスの写真が使われている。(中略)この写真は、恐ろしいもののようにもみえるし、またなにかセンチメンタルな気持ちを駆り立てるもののようにもみえる。この写真には、映像の時代における歴史の問題が見え隠れするようだ。
 おそらくこの写真を、表紙に選定したことには、この本にとってつよい意味があると思われる。本書において仲俣氏が採用した方法は、批評あるいは単純に作品を読むという作業を、歴史を語るという行為に接続させる、というものだからだ。

・共同通信系:地方紙各紙書評欄 2005年2月6日 「ことばの力」を問う〜栗坪良樹さん

 自閉しながら恐怖を恐怖している〈私〉は何者なのか。錯覚と見分けのつかないイメージを幻視しながら、次第になまくらになっていく〈ことばの力〉に、それでもすがって生きているのが人間というものなのか。一体全体どう魔がさして、〈私〉はこんな場所に存在しているのだろうか。
 本書から発してくる問いかけは、察するに余りあるほど現代的課題をはらんでいる。取り出された諸問題は枚挙にいとまなしの感がある。

・「バァフアウト」2005年3月号書評欄〜江口研一さん

 <GO WEST>が新しい世界を求めたゲイ運動を象徴していることに気づいた人はそれなりに少ないと思うが、西洋から一般的に捉えられる極東ではなく、西部、そして更に西へと進んだアメリカの運動の先にある国として、あえて極西と定義づけるところから始まる仲俣氏の現代日本文学論は、(略)J文学の更に先の道を突き進む作家たちの文学世界が織りなす上下左右への豊かな"運動"にも注目しながら、これからの小説世界に要求される新しい文学感覚を探求する。

・はてなダイアリーでの評判(キーワードンク)


 

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