僕たちよ、「熊の場所」へ戻れ

●今月とりあげた本  

舞城王太郎『熊の場所』(講談社)
村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社)
法月綸太郎『ノーカット版 密閉教室』(講談社)


 村上春樹『海辺のカフカ』を、いまの若い人はどんな風に読むのだろう。舞城王太郎『熊の場所』を読み終えてから、そのことばかり考えている。というのも、メフィスト賞出身の新進ミステリ作家が文芸誌「群像」に場所を移して発表した短編3作をあつめたこの作品集は、『海辺のカフカ』という作品に対する、あらかじめ書かれた「返答」になっていると思うからだ。

 前回の三島賞候補作でもある表題作「熊の場所」はこんなふうに始まる。
 「僕がまー君の猫殺しに気づいたのは僕とまー君が二人とも十一の時、つまり同じ保育所に通っていた僕たちが一緒に西暁小学校に上がり、同じ教室で勉強し始めて五年目の頃だった。」
 「まー君」と「僕」とはこの後、奇妙な友情を結ぶようになる。でもこれを友情と言えるのか? 猫殺し、さらには犬殺しを疑われるようになった「まー君」を、「僕」はずっと見張り続ける。この話は「僕」が「まー君」に象徴される内なる恐怖を乗り越えていくプロセスが、一種の少年小説=通過儀礼劇として描かれているのだが、その幕間に「僕」の父親の象徴的なエピソードが挟まれる。
 「僕」の父親は若い頃、カナダの山中で仲間とともに熊に襲われる。もう逃げられない、と悟った瞬間に、先を逃げていた仲間が転倒し、熊がそちらを狙う間に逃げおおせた父は、その後、熊のいた場所にわざわざとって返す。なぜか。
 「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない」
 熊のいた場所に父が戻ったのは、仲間を助けるためではない。一生このまま、熊に対して感じた恐怖を抱えたまま生きていくのが嫌だったから、父親は「その場所」に戻った。そして恐怖を克服した。
 その話を思い出し、「僕」はこう自らに問いかける。
 「恐怖とは一体なんだろう。恐怖とは、一体何に対して生じる感情なんだろう」

 『熊の場所』の「まー君」は、ただちに神戸で首切り殺人事件を起こした少年を連想させる。と同時に、村上春樹の「カラスと呼ばれた少年」、そしてその原型である「鼠」をも思い起こさせる。「僕/鼠」、「田村カフカ/カラスと呼ばれた少年」、「僕/まー君」はすべて、同じ構造をもっている。したがって、「まー君」は最後、(きわめて村上春樹的なメタファーである)「井戸」の中で死を迎えることになる。
 でも、15歳にしてはひどく鈍感な精神をもった田村カフカは、自分の内なる恐怖がなんなのか、まだよくわかっていない。予言を「呪い」と考えてしまうところに、彼の精神的幼さがある。逃げていることに気づかず、「冒険」だと考えてしまう幼さ。物語の最後でようやくカフカは中野に戻ることを決意するが、この物語は本来なら、恐怖から逃げ出す話ではなく、それに立ち向かう話として、高松から中野へ向かう逆のベクトルで始まるべきだったんじゃないのか?
 それに、なぜ高松なのか。たぶん『羊をめぐる冒険』の舞台が北海道だったのと同じ理由で、本州ではない島、かつて「連絡船」で繋がっていた場所であることが重要なのだ。それに高松は村上春樹の精神的故郷である神戸の対岸だ。切り離されているようで、繋がっている場所。自立しないまま、甘えた関係を「本土」と切り結べるセイフティゾーンが、村上春樹にとっての高松なのだろう。それはまさに、母親と「ヘソの緒」でつながった胎児を思わせる。デビューから20年以上も書き続けて、村上春樹はいまだに同じところをグルグル回っている。何かを「めぐる」冒険ばかりで、結局は本質的な部分まで踏み込んでいない。肝心なところを「森」という言葉でごまかすのは、大江健三郎だけにしておけばいいのだ。

 子が親を乗り越えられないまま、スランプになってしまったという点では、舞城と村上春樹の中間の世代、「新本格」作家たちも同様だ。法月綸太郎のデビュー作『密閉教室』が、初期バージョンのままノーカット版でリイシューされたが、これは新本格ブームの生みの「親」である宇山日出臣氏からの法月ら悩める「新本格」世代へのメッセージでもあると同時に、宇山氏自身のミステリ=青春小説観のあらわれでもある。以前も書いたことがあるが、名探偵・法月綸太郎は自分の父親・法月警視をいつまでたっても乗り越えられない。でも、作家・法月綸太郎は、村上春樹をライバルと見なすことで書き始めたのではなかったか。『ノーカット版 密閉教室』の主人公「僕」が随所でもらす村上春樹的なアフォリズムは、そのことを物語っている。
 1987年にデビューした法月のこの話の舞台が1982年であることも意味深長だ。この年は村上春樹が初期の代表作『羊をめぐる冒険』を発表した年であり、法月がこの本から受けた衝撃は相当大きかったはずだ。法月は「この場所」から、もう一度やりなおしたほうがいいと思う。名探偵・法月が登場する二作目以降は、家庭崩壊劇としてのアメリカン・ハードボイルド・ミステリを、村上春樹とはべつのかたちで再解釈しようという一連の試みだった。でも家庭崩壊の描かれ方は、舞城らの台頭によってすっかり変わってしまった。悩める名探偵・法月綸太郎はもういらないのだ。

 舞城王太郎は、あきらかに父の世代である村上春樹を乗り越えることをスタートラインとして書きはじめた作家だ。舞城の作品では家族というテーマが、なんども繰り返し描かれる。80年代以降に山ほど描かれた、単純な家庭崩壊劇はもうたくさんだ、俺は家族を崩壊させないままで、暴力に満ちたリアルな世界を生き抜くための倫理を描く、という彼の叫びが聞えてくる。そのためには、子どもはまず、みずからの内なる恐怖心を乗り越えなくてはならない。そうすることが、親を乗り越えることなのだ。
 親を乗り越えたその先にだって、もっとめんどくさい人生がまっている。「熊の場所」に続く、「バット男」「ピコーン!」、そして「群像」にその後発表された「鼻クソご飯」で、舞城は村上春樹がまだいちども描き得ていない「恐怖とは、一体何に対して生じる感情なんだろう」という問いへの答えを、さらに模索しつづけている。
 「熊の場所へ戻れ」。本格ミステリによくある「読者への挑戦状」ではないが、この言葉は、親を乗り越えられないすべての戦後世代=「僕」たちへ向けた舞城王太郎からの挑戦状であり、同士への呼びかけの言葉なんだと思う。


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