スーパーフラットな戦場で僕らが生き延びること
●今月とりあげた本
港千尋『予兆としての写真―映像原論―』(岩波書店)
切通理作・丸田祥三『日本風景論』(春秋社)
椹木野衣『平坦な戦場で僕らが生き延びること』(筑摩書房)
植田正治・鷲田清一『まなざしの記憶―だれかの傍らで』(TBSブリタニカ)
東浩紀『不過視なものの世界』(朝日新聞社)『不過視なものの世界 Appendix CD-ROMs』(自費出版)
映像とはなんだろう。というより、人は映像に接するとき、本当はなにを見ているのだろうか。いま僕らが生きているのは、あきらかにコトバよりも映像が力をもっている時代、より正確に言えば、コトバも満ちあふれてはいるがコトバなしでも生きていける時代、なのだ。しかし僕らは映像=イメージなしには生きてゆけない。古典的な写真や映画から、マンガ、アニメーション、さらにはコンピュータ・ディスプレイ上のグラフィックスまで、僕らをとりまく映像は、さまざまに姿を変えている。ところが、いま起きているこの地滑り的な映像の変質に対して、トータルに考えるための足がかりはひどく少ない。それを、いろんなかたちで語ろうとしている本が最近、増えてきているように思える。
たとえば、港千尋による最近のいくつかの仕事のなかから『予兆としての写真』をとりあげて見よう。これは単なる「写真」論ではなく、コンピュータ・ディスプレイ上のイメージまでを射程に入れたトータルな映像論への序説といえるものだ。その上であえて港は――彼自身が写真家であるから当然だが――写真というものをポジティブに位置づけようとする。これまで過去の「記憶」にかかわるメディアとされてきた写真を、未来に向けて伸びるものとして逆転させようとしているのだ。いま見えるものではなくむしろそこには「写っていない」ものを見いだすための契機、過去の記憶を呼び起こすのではなくそこから「予兆」として何かが立ち上がる契機として、写真を救い出そうという港の試みは、スーパーフラット化する現代的な映像に対する強烈なレジスタンスに思える。
鷲田清一が文章を書き、植田正治という写真家の作品を差し挟んだエッセイ集『まなざしの記憶』は、タイトルにこそ「まなざし」とあるが、視覚的というよりむしろ皮膚感覚にかかわるようなものとしての「記憶」について書かれた本だ。ここでは写真は、人間ひとりひとりがもつ皮膚感覚によって喚起される身体的な記憶へのトリガーとしてとらえられている。優しい読後感を与える本だが、これも僕らをとりまく危機的な状況に対する、体を根拠にしたレジスタンスの書として読むべきだろう。
斉藤環や山形浩生、村上隆らとの対談集『不過視なものの世界』で示唆されていた東浩紀の「デカイ話」の総体は、自費出版で最近出された『不過視なものの世界 Appendix CD-ROMs』に納められた講演や対談のおかげでもう少しクリアになってきた。東は、近代的な世界モデルを映画(ひろくいえば写真も含まれる)に喩え、スクリーンに「投影」されるイメージの裏に映写機としての「主体」が近代においては想定されてきた、とする。しかし1970年代以降の時代の世界モデルは、データベースから引き出されてコンピュータのディスプレイ上に構成される「インターフェイス」であり、そのフラットな画面こそが、いま僕らが感じとる世界イメージなのだということを、P.K.ディックやアニメ絵へのキャラ萌えなどをもとに論じている。最終的な判断は次作での理論化を待ちたいが、もはや状況はこうなのだ、という東の断定は実にスッキリしている。ただ、これはあくまで、「もはや状況はこうなのだ」というだけで、それはイヤだ、認めないという立場の人間までは説得できないかもしれない。
それにしても東の先行世代への不満は相当なものなようで、それも仕方ないと思わせるのが、まさにその世代の切通理作と丸田祥三による『日本風景論』だ。ここで展開されているのは、ごくストレートな失われた風景への憧憬でしかない。東京のランドスケープを一変させたバブル経済期の乱開発への批評的なまなざしはあるにせよ、僕らがいま置かれている映像論的な危機状況に対してあまりにも感度が鈍い。それを示すのが乱発される廃墟のイメージだ。廃墟のイメージこそ、いまもっとも反動的なかたちで消費され、利用される危険が高い「ノスタルジー商品」なのだ。目にみえない廃墟を映し出すことからしか、それに対抗する批評は生まれないはずなのに。
椹木野衣『平坦な戦場で僕らが生き延びること』は、その作業を辛うじてできているように思える。本格的なマンガ論ではなく、いずれ書かれるべき(?)本格的な岡崎京子論へのささやかなスケッチでしかないが、この中で書かれている「記憶」への言及はとても重要だ。岡崎自身が書いた文章から椹木は、以下の一節を抜き出す。
「つまりこういうこと。風景や歴史や世界のほうが、ぼくらよりずっと忘れっぽいということ。(略)僕たちは世界に忘れ去られているんだ。それって納得できる?」
椹木自身は、このあとで記憶を「風景」に関わるものとして言及し、それらが失われることで僕らの「記憶」もまた失われる、というようなやや危うい観点を持ち出すのだが、あらかじめ岡崎京子の作品がノスタルジーへ流れることを封殺しているため、本全体としては失われた八〇年代への乾いた葬送曲のように読める。椹木がこの本のタイトルに岡崎の最高傑作『リヴァーズ・エッジ』に引用されたウィリアム・ギブソンの文章の一節を選んだのは正しい。記憶をなくした「平坦(スーパーフラット)な戦場」。それは、まさしくいま僕らをとりまく世界の別名なのだから。
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