ミャンマー2004 60年後のビルマ
はじめに
 ついにミャンマーへ行って参りました。
 1944年秋から1947年春にかけて勝三郎はビルマ(今のミャンマー)にいました。第二次大戦の末期、戦友達と苦労をともにし、そのうちの大勢をなくしました。日本が降伏した後も、なお2年近くにわたる収容所生活がありました。戦争中もそのあとも、国籍を問わず、大勢の方々にお世話になりました。  大勢の戦友がねむる地へ、そして自分は不思議にも生かされて、多くのひとびとの暖かさにふれた地へ、今一度帰りたいとずっと願っておりました。
  このたび2004年12月、多くの方々に支えられて、ついに60年ぶりのビルマ再訪がかないました その旅行の記録を、新しい写真の他、これまでに描いた思い出のスケッチや、当時のスケッチブックの絵などもあわせて掲載しました。
 写真左上はポパ、マウンテンリゾートよりタウンカラ方面を見る勝三郎。 右は60年前ポパに到着したときの図
 本当は、多くの戦友が亡くなった敗走の道筋をたどりたかったのですが、とても道などあるようなところではなく、現在の交通事情やこちらの体力を考えて今回のスケジュールになりました。
  写真右:12/23 関西空港を出発する。
 もとの陣営であり、敗走の出発点でもあるポパは第一の目的地でした。敗走後2日目の宿営地で、襲撃を受けたサンズへは無理かもしれないと思いましたが、幸運にも行くことができました。
 あとは敗走の終点であるシュエレーと、そこから始まる収容所のあった5か所(シュエレー、パヤジー、35マイル地点、メイミョー、マンダレー)を訪れました。さらに、帰国前少しだけ滞在したアーロンも最後の日に車で通過し、期せずして全部の収容所のあった土地へ行くことができました。
 そんなわけで、このホームページはビルマでの敗走の記憶をたどる追悼の旅行記であり、また、2年近くにわたる収容所生活の思い出の記にもなっています。 (2005年2月)
 写真左上:その夜ヤンゴンに着き、ホテルでスルーガイドのピュピュシュエさんと打ち合わせをする。 行き先についてはあらかじめ旅行社を通じて細かく希望を伝えてあり、ガイドさんは既にコースをそらんじるほど研究して待っていてくれた。あらためて持参の地図や覚え書きを渡してこちらの意向を伝え、確認をする。今見ているのはシュエレー村の記憶の見取り図。
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