ギャルゲー関連の雑文 しょの1

11/05

高橋直樹氏のコラム。 今木さんの日記とか、 それに同意してるうっちーさんとか

現実の日常がどうしようもなく空虚で、それに対してあがくことも出来ない あるいはあがいても上手くいかない自分自身に対する苛立ち焦り、 とにかく「ああ俺って駄目だ」と自覚する絶望的な気分。 そんなものからの救いが僕らにとっての「お話」で、お話の世界を女の子という快楽とか欲望なもので描いたのがギャルゲーだったりするわけでさあ。 ならばこそ、それは僕等を救ってくれるようなものであってもいいじゃないか。 現実の世界に居場所が見つからない(と信じこんでいる)人間にとって、「ここにいてもいいよ」と肯定されることは、 もうそれだけで泣きたくなってくる。そこにいたいんです。 現実では誰もそんなこと言ってはくれない、自分の居場所なんて自分で切り開くしかないし、 しかもそこが自分のいたい場所であるとは限らない。

誰かを好きでいたい、誰かに僕を好きでいてもらいたい。
あるいは、誰かが誰かを好きでいるその瞬間を見つめていたい。

AIRで、廃止された駅のベンチで遠野さんが座っている。その横にはみちるがいる。 みちるがストローを吹いてシャボン玉を作ろうとするけど、それは飛ぶ前に壊れてしまう。 遠野さんがそれを見て微笑んでいる。空は赤く染まり蝉の声がきこえてくる。 そんな日常だっていいじゃないか。それがつまんなくて退屈だとかそんなことはどうでもよくて、 遠野とみちるが2人でただ一緒に遊んでいるというその光景を見るだけで僕は微笑んでしまう。 そんな2人のことを絆だとか日常の幸せだとかで読んでしまうことのどこがいけないんだろう。 そしてそういう日常はリアルじゃないから媚びているから駄目なんじゃなくて、 お話だからこそそんな幸せがあっていい。

あ、いや、そうじゃなくて、それが失われるからこそ美しいとかそういう言質に対しての言葉なのかしらん?。よく、わかんないや。 今木さんやその他の知的レベルの高い人の感想や考察を読むにつけ、この人達ホントにわしと同じもの読んでるんかいなという気になってくるですよ。 自分の感じ方は僕が今まで経験してきた実感の中で形成されていくものだから、 僕にとってはそれが正しいんだけど、それでも今木さんのような「視える」人にそういうことを書かれると不安になる。

お話の中でくらい日常を賞賛したっていいじゃないか。毎日がキラキラ輝いていたら楽しいじゃないか。 朝起きてごはん食べて学校行って、女の子とたわいもない会話をしたりからかったりする一日。 遠野とみちると国崎往人の3人が一緒にいて、遠野はお弁当を作ってくるし、 みちるは往人に蹴りをいれて、往人はみちるを殴って弁当を食べる。 そんな3人に「家族」とか「絆」とかの言葉を当てはめて、そこに優しさや幸せを見る。

因果とか描写とか作者の意図とか、あと状況設定とかそんなものひっくるめて、 好き嫌いの感覚で作品をとらえるしか能のない僕らにとって「絆」とか「日常」とかは お話を受け取るためのとっかかりとして見えやすいものであるから、どうしても行き付く先はそこになる。 「あほか」というのは言われてみるとすごくよくわかるけど、何の振りもなしにあの作品を評して「あほか」という言葉を吐き出せるほどの才能は僕にはない。


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11/06

にょわ〜、本人から反応気味っぽいものが。 見に来てる人もなんだかいっぱいいるですよ。うう、どうしよう。ゆうかいされちゃうよぉ。 はっ、きあいでまけたらだめだ。う〜〜(威嚇)

そっかー「大切に思うこと」かー。
誰かと一緒にいても自分が独りだと思う瞬間。誰もそばにいなくても誰かが一緒にいると思える瞬間。 一緒にいるというそれ自体が(客観的に)大切なんじゃなくて、 重要なのは「一緒にいると思うこと」あるいは「一緒にいたいと思うこと」 みたいなもんか。 あり? ちょっと違うかな?

僕にとっての「日常」ってのは、昨日から続く今日、明日へと続く今日、 いつもと変わらないただ過ぎて行く一日という感じでとらえられていて、 それは読み手の側から客観的に見て日常であるというだけのこと。 お話の中の彼ら彼女らはそれが日常なんて意識してない、 幸せだとかつまらないとか彼らの主観の差はあれど、ただ今日のような一日が明日も続くということを漠然と信じていて、 であるからこそ自然体に過ごしている。

つい先日やっていた「終末の過ごし方」なんかはすでに終わることが決定されている世界という時点で、それはもう日常じゃない。 ただ他に方法がないから、彼らは「かつての日常」にしがみついているだけで、 学校ゴッコなんて本編で言わせてるように、それは日常ゴッコで日常のフリをした非日常だ。 「かつての日常が案外幸せだったんじゃないかと、ふと大切に思ってしまう瞬間」 をまさに描いてるんじゃないかと思うがどうか。でも、終末では、そんな日常の残滓にしがみついてるよりも、 終わる前に好きな人と一緒に…なんて踏み出したりする。 そのへんの、一日中 2人で手握って最終日を過ごしてるんじゃないかとか想像させるとこが印象良かった。 あれ? なんかまたずれてますかね。

求められ方として「ここにいてほしい」は気持ちとしてかなり強い。 そこまで好きになってくれなくても必要としてくれなくてもいい。 ただ「ここにいてもいい」って、僕が君の側にいることを許してくれるだけで僕は幸せ ってのは弱いかなあ? その先に「ここにいてほしい」と言われるような関係になれれば嬉しい。 まずはスタートラインみたいな。了承とか肯定とかの意味も勿論あるけれど。

ま、とりあえず今木さんみたいな視える人がわざわざ反応気味ついでに色々書いてくれたわけだから、 きちんと読んで何かの糧にしとかないと罰が当たるわい。 じゃあ、とりあえず物語の全肯定から。 …実感としてそれは無理だろう(^^;;←おい。
僕の感性はわりといい加減なものなので、お話であれば大体どんなものにも何らかの楽しみを見出してしまう。 他の人が平凡でつまらんと言っているものだって、平凡でも面白いじゃんとか思ってしまえるわけで、 そういうのはお話の読み手としては幸せだとも言えるんだけど、一般的な批評眼があるかどうかどうも怪しい。 だから、お話を否定しようってことは実はそんなになくて、「物語の全肯定」ってのはそれなりにわかりまふ。 そう言いきれるくらいになれたらいいなあ。

それにしても、ここ2日の日記読み返してて、なんでこう人目にさらされるようなときに僕は自分語りばっかりしてますか。 あんな恥さらしが見知らぬ人に読まれてるかと思うとなんだか笑ってしまうのですが。 とほほー(/_;)


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11/27

Seraphimで「萌え」についてどーのこーのあったようです。
ようですとか他人事のように言ってますけど、「萌え」定義についてギロンを戦わせていた(ガメラと)張本人の1人は僕だったり。 ただ、どうも「キャラ萌え」と「要素萌え」を頭の中で混同していたようで、 自分でも論点を見失っておりまして。
うっちーさんとかあずまさんがちょろっとまとめてるようなのでそこを参照してくれい(^^;;;(逃げ)

まあ、「架空キャラに対し」「"かわいい"とかの感覚を抱く」こと=『萌え』といって間違いはなかろーと思います。 2ちゃんねる文化の流れなのか、単純に好ましいこと全般に対し「萌え」を使用する風潮には、 僕はいまいち馴染めないですが。 あと、現実に存在する何者かに対して「萌え」と使うのは、その対象が本人に直接には何らの影響を及ぼさないのであるならば、それも有りかなーと。 具体的には芸能人に対して「萌え」とか言ってる場合。 僕のようなヲタクさんが二次元キャラに「ぐはあ、めっちゃかわいい」とか叫んでるのと あまり違わないように思うからだす。(少なくとも二次元萌えサイドにいる僕からすれば、ね)

2年ほど前の後藤理沙ブーム(僕の中で)も、今のみちるブームや三條美凪ブームも、 僕の内面における有り方はほとんど同じなんですなー。


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12/02

「薔薇姫さま」をところどころ再読しながら、必死に笑いをこらえて、 こんな面白い作品に出会えれば日々シアワセなんだけどなーと、(のりぽんさんの中での)日常の幸せにひたっておる世紀末でごぜーます。

僕が愛読しておるサイト「魔法の笛と銀の鈴」のしのぶさんが「AIR」を始められたようで、 日記とか読んでたっす。てひひ。 観鈴は強くなんかない、というあたりになんかどどーんと感銘を受けまちた。読みながらヘッドバンキングで。 僕も似たようなことを書いてなかったかなと思ったのだけど、読み返したら全然説得力のある書き方出来てないですな。がっくし。

「AIR」の2回目をやりたいなーとか思いながらも、他のゲームに走ったり、 本読んだり、お仕事に埋没してるうちに、もう年末ですよ。

やっぱねー、のりぽんさんって人は飽食消費型オタクちゃんなんですよ。 どんなに感銘を受けても1つの作品には留まっていられないというか。 例えどれほど素晴らしい感動的な作品であったとしても、それは享受した瞬間に結末を迎えてしまう。

花火みたいなものなのかも。

どーんと上がってばーんと広がって
すごく綺麗で大きくて腹の底に響いてくるような音が聞こえて
でも、花火は一瞬で消えちゃう。

同じ玉の花火を打ち上げれば、また見られるのかもしれないけど、 それは最初に見たやつとまったく同じものではない。 たとえ最初に見たときと次に見たときの花火は同じでも、見たときに自分が感じることってのは同じじゃない。

そういう、目に焼きついた花火のすごさとかそういうのをどうにかして書き留めておきたいというのが、 僕の書いてるこの日記とか、余所様の感想文なんだろう。

で、花火ってのは次々に打ち上げられるわけですよ。 夜空だけじゃなくて足元には線香花火とかねずみ花火だって落ちてる。 いつまでも「大きな花火」だけにこだわってその残滓を夢想してるより、 僕は大きくなくてもすごくなくてもいいからいろんな花火が見たい。
まあ、次々に作品を消費する姿勢を非難する人もいるだろうけど、1つのものをひたすら愛でるのは他の皆様にお任せしたいというか、 僕にゃーこうして新しいものに次から次へと浮気しまくってる方がお似合いな気がするのでち。

ということで今は「薔薇姫さま」ですよ。誰か僕と薔薇姫さまの素晴らしさについて語り合いましょー。


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12/08

ドクターヒルルクはチョッパーのことを「おれの息子だ」と言った。

血の繋がりなんかどうだっていいんですよ。生物的な種の差だって何の問題にもならない。 損得とかそういうの抜きでただ「こいつのことは大事」だと思えるならば、 それは家族だと言っていいんじゃなかろうか。 ずっと一緒に暮らしてなくてもいい。 ほんの少しでも同じ空気を共有しあえて、お互いのことを思いあえたなら

槙原愛さんは言いました。

「どんな風に出会っても
   いつか別れる日が来ても
     一緒に暮らした時間があるなら
       わたし達は、家族だもの」
友達とか恋人とか、そんな言い方では頼りないと思えるくらい、 もっともっと大切な人たち、ずっとつきあっていきたい人たち。 共同体の象徴として家族というイメージを抱いて。例えそれはただの幻想であったとしても。
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