俳 句 の 歴 史

10人の俳人とその作品

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第11章
永田耕衣(1900〜1997)
ながた こうい

正岡子規による松尾芭蕉批判以後も、俳句界では芭蕉に
対する尊敬の念が衰えることはなかった。俳句界にとど
まらず、広く社会の中で芭蕉の名声はいよいよ高まり、
国際的にも、芭蕉は最も人気のある日本人の一人となっ
ていった。

だがこうした芭蕉人気が、彼の俳句の本質を真に理解し
た上でのものであったかどうかは、いささか疑問である
ように思われる。その証拠に、大正・昭和時代には芭蕉
のような諧謔味あふれた演劇的な俳句は下火となり、高
浜虚子が主導した、視覚による対象把握を重視する傍観的な俳句の方が主流を
占めていた。

芭蕉人気は、芭蕉の俳句手法に対する関心よりも、むしろ彼に対する大衆の倫
理的な共感に支えられていたのではないかのではないかと思われる。芭蕉が名
声や蓄財を嫌い清貧に暮したこと、定住に拘泥せず人生を旅の連続として把握
したこと、古典に対して深い造詣を有し、先人に深い敬意を払ったこと...こう
した芭蕉の人生観が、日本人には親しみやすいものとして映ったのである。

芭蕉の方法論を改めて見直し、芭蕉的な立場からホトトギス派の俳句観に根本
的な疑問を提示したのが、永田耕衣であった。耕衣はホトトギス俳句の、簡潔
さを重視してことばを惜しみ、読者の想像力に多くを委ねる方法を、非常に退
廃的な態度であるとして攻撃した。

高浜虚子にとって、「運命随順」は人生の指針であった。与えられた運命に積
極的に抵抗することなく、自分の運命を冷静に観察し続けることが、俳人に与
えられた使命であると考えた。耕衣もまた運命というものの偉大さには敬意を
払い、新興俳句のように個人の知性を武器として運命と闘おうとする態度は好
まなかった。だが従うべき運命とはどのようなものであるか、一応運命に抵抗
してみなければそれすらわからないではないかと耕衣は語る。

芭蕉は俳句の中で、自分をピエロに仕立ててさまざまなコメディを演じてみせ
た。人間の行為の馬鹿馬鹿しさを強調することによって、人間の非力さと運命
の偉大さを読者に知らしめようとした。耕衣もまた、俳句の中で事物の滑稽な
側面を強調して描くことにより、世界の本質について読者に瞑想させようと試
みるのである。

高浜虚子の率いたホトトギス俳句は豊かな成果を残してきたが、その方法はあ
まりに洗練されているがゆえに、「現代」という激しく変動する社会に生きる
人間の混迷した精神を受けとめる器とはなりにくくなっていった。永田耕衣は
人を驚かせるような奇抜で諧謔味のあふれた表現を多用することによって、人
間の精神を激しくゆさぶった。耕衣の俳句を読む者は、人生を傍観するのでは
なく、人生について耕衣とともに思考することを求められる。

耕衣の思想と方法は、停滞した俳句に新たな可能性をもたらすものとして、一
部の若い俳人や詩人や舞踏家たちから熱烈な支持を受けている。


 田にあればさくらの芯がみな見ゆる

 かたつむりつるめば肉の食い入るや

 蛇の野に垣して着物縫ひゐたり

 鯰笑ふや他の池の鯰のことも思ひ

 後ろにも髪脱け落つる山河かな

 死螢に照らしをかける螢かな

 紅梅や筥を出て行く空気の珠

 舐めにくる野火舐め返す童かな

 撫子に虎の時間の飛び来たる

 落蝉や誰かが先に落ちている


執 筆  四 ッ 谷  龍


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