千田好夫の書評勝手

100年目の開化

アメリカの人たちと交流(エクスチェンジ)していると、普段は考えたこともない日本文化のあり方が気にかかる。ADAもあるけれど、それ以上にダンスやスポーツといったごく普通の人間の楽しみに、いかに彼らが「のり」がよくて、我々がおくてであることか。わかりやすく言うと、たとえば乗馬が一般の人の楽しみであるとすると、障害者もまたそれをする権利があると考えるのだ。なんだそんなことかと言うかもしれないが、よく考えれば、ここには一本どころか二本以上の溝があるのである。

まず、乗馬という事に挑戦しようということなど、日本では思いもつかない。近頃やっているところもあるが、ほぼ例外なく欧米の影響によってできたものである。中には、麗々しく「障害者の機能回復のために」を掲げているところさえあって、「権利としてのスポーツ」からはほど遠い。こうなるのは、日本では一般の人のスポーツとして乗馬が普及してないからである。乗馬どころか、野球や相撲を除けば、国民の半数以上がルールを知っているスポーツがない。それはスポーツに限らず、文芸や美術、演劇、クラシック音楽に至るまで同じような状況だ。一般の人がやっていないことに障害者の「権利」などありえないのは、悲しいことだが当たり前のことなのかもしれない。

それでは、エクスチェンジはアメリカの人たちにはどんな意味があったのだろうか。そこで思い出すのが、夏目漱石がロンドンから正岡子規におくった手紙「倫敦消息」である。

夏目漱石は1900年から1902年にかけて国費留学生としてロンドンにいた。国費留学といっても、文部省は月150円送金するだけで、どこで何をしようと自由だ。当時の150円は手紙から察するに今日の25万円ぐらいである。月10万ほどの下宿住まいで残りの15万を研究費につぎ込む、爪に火をともすような倹約生活であった。従って、下宿屋も場末の安宿を渡り歩いた。渡り歩いたのは、下宿屋の経営者たちの複雑な家庭の事情にいたたまれなかったからだが、それによって、幸か不幸か当時の先進国であるイギリスの一般社会のあり方にふれることになった。文学者としては貴重な体験をしたものである。

それだからか、漱石は愛国者にも西洋崇拝者にもならなかった。手紙の中で次のような感想を書いている。「この国の文学美術がいかに国民の品性に感化を及ぼしつつあるか、この国の物質的開化がどのくらい進歩してその進歩の裏面にはいかなる潮流が横たわりつつあるか、……いかに一般の人間が鷹揚で勤勉であるか、いろいろ目につくと同時にいろいろ癪に障ることが持ち上がってくる」

漱石は一般の人々に混じり、美術館や博物館、水族館に行ったり、乏しい財布をはたいてサーカスやシェイクスピア劇を見に行った。芝居小屋は最上階の桟敷までいっぱいであった。映画やテレビのない時代だからではない。連れだって芝居やコンサートなどに行くのは今でも庶民のささやかな楽しみであるらしい。日本では行く人は行くが、決して一般的ではないし安い料金でもない。イギリスの人たちは身なりもよい。「この国では衣服では人の高下がわからない。牛肉配達などが日曜になるとシルクハットでフロックコートなどを着て澄ましている」また、マナーもとてもよい。別の手紙で漱石は、列車の中で職工風の人たちでさえ席を譲り合うことに感心している。日本では、紳士然とした人が二人分占拠して涼しい顔をしているというのに。また、「さすがロンドンは世界の観光場だからあまり珍しそうに外国人を玩弄しない」ところが、このように文化が進んでいるように見えるイギリス社会だが、一皮むけば「……たいていの人間は非常に忙しい。頭の中が金の事で充満しているから日本人などを冷やかしている暇がない」さらに血も涙もない解雇、夜逃げ、訴訟沙汰、不倫……ぎすぎすした人間関係。エゴイズムの横行。

そんなわけで、「時にはイギリスがいやになって早く日本へ帰りたくなる。……するとまた日本の社会の有様が目に浮かんでたのもしくない情けないような心持ちになる」公平に見て日本は遅れた社会である。しかし、文明開化の手本たる欧米社会も決してバラ色ではない。漱石の苦虫をかみつぶしたような写真の裏には、そのような文明批判があったのだ。

そう言えば、今回のエクスチェンジのまとめでロビン(聴覚障害)が言っていた。「私たちがここに集まっている理由は明かです。差別がなければ決して皆さんとお知り合いになれなかったでしょう」とのことであった。ADAという明確な差別禁止法があり「のり」のいいアメリカの障害者、その彼らのかかえる「深淵」をかいま見た思いがした。日本におけるエクスチェンジが彼らにも大きな意味を持っていたことを確認した一瞬であった。