千田好夫の書評勝手

「原則統合」ってなんだ?

この半年ほど、全国連絡会で「原則統合」という考え方が論議されている。これをめぐって論争がなされているので、私(千田)の考えていることを書いてみたい。

問題の発端は、弁護士の大谷恭子さんが、「(障害児に関する現在の教育制度は)原則的には分離・特殊教育であるが、親本人が分離を拒否あるいは普通学級を選択すれば、例外的に統合・普通教育になりうる(にすぎない)」と提起したことにある。

これだけなら、それほど注目はされなかっただろうが、大谷さんは続けて「(これまでの入学・入級を目指す運動による)“ともに”の社会的認知の結果か、確かに法制度上は例外としか位置付けられない障害児の普通学級での統合教育も、数字的には増えているのかもしれない。これは統合への一歩前進なのであろうか。きっと、避けて通れない一歩であったことは間違いない。特に学校教育法が原則的に分離教育を前提としている以上、例外の拡大しか統合への道はない。しかし、私が危惧するのは、この例外的・部分的統合は、何ら教育の内実を変えていかないばかりか障害児にとっては、より陰湿で残酷な差別を生んでいないかということである」と付け加え、これまでの運動の見直しを提案したのだ。

なぜかというと、「分離を原則とする制度がある以上、これに個別に抵抗するには本人の意思と親の選択しかない。しかし、このこと自体では教育現場を変える力とはなり得ないのであり、結果、親には過重な負担、本人には残酷な差別が課せられてきてしまったのである」なるほど、相も変わらず親に学校での介助を要求する事例などが全国であとを絶たない。だから「原則分離教育から原則統合教育に制度的に転換することを求める時期にきている(大谷)」つまり、「“学校保健法第五条と学校教育法施行令第22条の3表を廃止しよう”と呼びかけ(られ)たことがないけれど、これを実現しないでも“共生・共学”は可能でしょうか(パンフ)」ということになる。

これに対して、これまでの運動はいっさい無駄だったのか、それに「例外統合」とは一体何なんだ? という疑問がわく。私も初めはそう思ったし、そのように批判している人は多い。「知能公害」が出されてからほぼ30年(私もそれに触発された一人だ)、その30年間にやってきたことの総括がこれではあまりに寂しい。「原則統合」の主張が、唐突な感じで路線転換を主張しているようにも受け取れ、議論以前だという反発は当然起きてくる。

でも、自分の中の感情をつらつら考えてみると、それは感情論なのかなとも思う。まず、現在の教育制度の中で、学校教育法施行令の表に該当する障害をもつ子は、特殊教育諸学校へ「適切に措置」されることになっているのだから、それをはねのけて普通学級に入った子は、教育委員会側からすれば「例外統合」には違いない。これは現状認識であって、原則統合論がそう主張しているわけではないのは確かだ。

次に、これまでの運動が無駄だったとは主張されていない。原則統合論が言っているのは、法制度改革を分離教育制度批判の一項目に加えていなかったという指摘であって、いままでの運動に代えて「法制度改革要求運動」をしようということではない、と私は理解する。とりあえずは、現場の先生、教育委員会の職員に「あなたは『子どもの権利条約』を知っていますか? 知っていて分離するのですか?」という問いかけを、我々の武器の一つに加えるのに躊躇する必要はない、ということだ。批准された条約は法律であって、法律を「遵守」する義務が彼らにはあるのだから。

とは言っても、制度を変えれば何かできるのではないかという考え方は、人々の間に制度をいじくると何かできるのではないかという「幻想」を植え付けてしまうのではないか。具体的に言えば、なにもしないで「棚ぼた」式に普通学級に入れると当該が思ってしまわないか、という危惧があるかもしれない。たとえば、現在の福祉制度は我々の諸先輩がそれこそ血のにじむ思いで勝ち取ったものだ。それを今時の障害者の中に一部遊興費にあてている者もいるのは実にけしからん、という反発を私自身も感じる。

しかし、「棚ぼた」で何が悪いのだろうか。障害者が年金や手当をパチンコですってしまっても、それはその人の主体性の問題であって、年金や手当を受けるのが悪いとは言えない。また「棚ぼた」なら必ず腐敗するというのも決めつけにすぎない。たとえば、アメリカのADAは差別禁止法だから、障害者が闘う必要がないかといえばそんなことはない。確かに、当面闘う必要が無い場面では、のんびりしている障害者が増えたと聞く。では、障害者はのんびりとしてはいけないのか? しかし、社会生活をともにするということは、不断に問題が生じることであって、いつまでものほほんとはしていられない。法律とか権利とかは、社会的諸関係の一側面にすぎないから、ADAだっていつでも骨抜きにされる。日米障害者交換プログラムでアメリカの障害者たちは、「話し合って解決できないことには、実力行使もありうる」と明言していた。仮に、いまの日本で法律だけ変えたって問題がすぐに解決するなんて事は、絶対にあり得ない。棚からぼた餅が落ちてきても、次には水や石が降ってくるかもしれないのだ。

だから、「原則統合論」がなにか運動を後退させるように受け取ることはないというのが、私の考えだ。ただし、いままでの運動を「法制度改革要求運動」に置き換えるようなことはよくない。法律がどうあろうと、差別を許さず突きつけていく運動は絶対に必要だ。「法制度改革要求」もそれらがなければ勝ち取れないのは明らかだ。

また、仙台の石川さんが会報で言っていたように、「原則統合」は「例外分離」を予想させる。大谷さんは法律家として厳密な表現をしたのだろうが、「例外」をあらかじめ想定することは我々の望むところではない。ネーミングはもっと考えたいところだ。