千田好夫の書評勝手

そのままの私

「若いのにかわいそうだねぇ!」

「えっ、私のことですか?」

突然、見知らぬおばあさんに声をかけられた。かわいそうなのは、あなたの方です。しわくちゃで、腰が曲がってて。でも、そんなことを言い返しても、なんかさもしい気がする。

「ありがとう。でも、かわいそうではありません」

と返事すると、松葉杖の人間がしゃべるとは思わなかったらしく、おばあさんはばつが悪そうだ。こっちも「若い」ってのはありがたくちょうだいしてるので、きまりが悪い。

狭い地域社会や職場では、私(の障害)を知らない人にあまり出会わないのか、人の視線が気になることはそれほどない。幼児やお年寄りでもないかぎり、「じろじろ」は見ないからだ。しかし、私の障害の状況が意識下におさまるまでは、誰でもいくらか心の葛藤があるに違いない。その小さな葛藤を経たうえで、私に対しているのだ。もちろん、私の方も気にならないようにしているのだろう。そういう意味では私もその他の人もそう変わらない。

だからこういう「掟破り」が不意にあると、いかに自分が鈍感になりすましているかを思い知らされる。ところがその次の瞬間には、にこにこしながら、その思いをまたも意識下におしこんでしまう。それを、詩人は私のおくの/なんて醜いことあるいは、別のところで、正直に答えれば/やはり 私は 弱虫だと、表現している。

ここでとどまるならば、平凡で情けない話だ。詩人も、ついそこで「自分は詩を書いていて、たまに新聞に載ることだってあるんだぞ」って言いたくなる。いいたくなる自分をこらえて、ニンマリ笑う。さらに、それを「ひわいだ」と自分を批判的に観察している。そういえば、「弁護士やってるのに、女の子が寄ってこない」ってぼやいていた車椅子使いの男の人を思い出す。そうか、やっぱり、むっつりスケベなんだ。

でも、二本足でも松葉杖でも車椅子でも、恋はするし、うまいものも食いたい。ルンペンだって、詩人だって、大学教授だって同じだ。とはいえ、やっぱり世の中は、ただの車椅子使いよりは、大学教授の車椅子使いを珍重するに違いない。もし、車椅子使いが自ら珍重されることを望むならば、「ただもの」である自分におびえるしかなくなる。

その限りない自己否定の淵から、自分を取り戻すのは難しい。さもなければ、また再び無意識下のグレーゾーンに落ち込むかだ。しかし、詩人は違う。人々の視線を「ビタミン」に変えてしまう。

障害を持つ体を/好きになった日

と、詩人は書き出す。本書のタイトルになった詩だ。

女性であることをうれしく思った/子宮を持つことを誰からも侵されず

大切にできる今がうれしかった

人として/女性として/誇りをだきしめて

あなたの前を/そのままの私が/通り過ぎる

そのままの私こそ、私にも、あなたにも、かけがえのないものであるべきなのだ。