千田好夫の書評勝手

「出あるき人間」の怪

東京に出てきたばかりの日々を思い出すと、私は何でもできるような気がして、ウキウキして過ごしていた。政治学の研究者を目ざして、「参加と民主主義」という当時はやりのテーマに障害者を組みいれるつもりであった。しかし実際は、食事を作って食べて寝る、それで一日が終わる日々であった。

もし、この当時に携帯とパソコンがあったなら、そういう生活もあるいは可能だったかもしれない、なんてふと考える。いながらにして資料を集められ、それで手に入らないものもある程度どうすればいいか見当をつけられる。ちょっとした思いつきやアイデアを事前にさらして、それとなく反応を見るなんてことも可能にちがいない。

まあ、そんなに都合のいいことばかりではないだろう。携帯やパソコンのいいところも悪いところも「コピペ」つまり、考える手間を省くところにある。しかもそれが、ネットでつながっている。これが、研究対象だけならまだしも、人間関係そのものも手間を省いてしまいかねない。

それを警告しているのが、本書で言う「出あるき人間」だ。著者はサル学の研究者で、チンパンジーの生態から観察したものを人間に応用した。チンパンジーは、数頭の群れ(パーティ)で離合集散を繰り返しながら、遊動・採食する。それで全体が「社会」として安定を保っている。

著者は、近年の日本にこれと類似した「出あるき人間」が出現しているとする。「出あるき人間」は従来の家出や「引きこもり」と違って、しょっちゅう外をほっつき歩く。ふらっと家を出て友達と合流し、友達の家や24時間営業の店などを泊まり歩く。暖かいときは野宿もじさない。そして2、3日あるいは数週間後に何事もなかったように家に戻る。寅さんと違うのは、多くは若者で、とんでもない遠くには行かず、渋谷などよく知っているなじみの所「縄張り」の中で動いていることと、携帯という必須のグッズがあることだ。家人は心配しないのかというと、「ケータイがあるから」と達観している。「出あるき人間」の方もそういう安心感を崩さないように注意し、「大丈夫、バカはしないから」とリップサービスも忘れない。家族という「うざい」関係から脱し、もっと気ままなつながりを見つけたということなのだろう。これを可能にしているのが携帯メールで、安価に瞬時に複数の人間と連絡が取れる。家に戻っても「出あるき人間」は自分の部屋でメールに余念がない。

これだけなら、思い当たることは多くの人にあるだろう。多くの若者が大なり小なりこのような行動をとっていることは事実で、その数も増えつつあるのかもしれない。しかしこれをもって「ヒトのサル化」というのはどうか。チンパンジーに迷惑ではないのか。

今まで、様々な世代論が浮かんでは消えた。かつての「新左翼」も「暴走族」もその多くが「いずれこんなことはそのうち止める」と本人も周りもタカをくくっていて、実際彼らは見事に「転向」して現代日本を支えてきた。くわえて「出あるき人間」には「ケータイ」という鈴をつけられているかつての若者たちが社会に大きなインパクトを与えたようなとも考えられない。つまり「ヒトのサル化」を示すような指標には成り得ないと思う。

「出あるき人間」は筆者のサル学からの脱線だ。それよりも、携帯メールが音声化を抜きにした絵のごとき通信であることがもたらす弊害を、筆者が指摘していることの方に注目すべきだと思う。人間は言葉で他人とコミュニケートするだけでなく、心の中で自問自答する。つまり言葉によって考える力を進化させてきた。そのいつも耳に頼っている人間が、小さな画面の中に並んだ絵文字や顔文字やヘタ字で埋め尽くされたコミュニケーションに頼るということが何をもたらすのか。それは、短絡思考つまり「キレる」状況だと筆者は警告している。これは年齢に関係ない。文字面とコピペに代表されるメモリー機能を満載させたIT機器は人間性を退化させる、というのが筆者の主張である。これからすると、まっさきに「退化」するのは、もはやIT機器から逃れようもない筆者ら研究者ではないのかという気がする。(研究者になら【れ】なくて良かったのか悪かったのか…)それに比べれば、「出あるき人間」の多くは、これまでの若者と同様「いずれこんなことはそのうち止める」と、賢明なのではなかろうか。