千田好夫の書評勝手

「ぷちナショナリズム」と差別

サッカー・ワールドカップが近い。また、あの「愛国」的熱狂の渦が巻き起こるのかと思うと気が重い。中学校や高校のときに中体連や高体連の応援にかり出されて自校のチームを応援させられたとき以来、私は集団的熱狂の渦の中に入りきれない。分離された障害者競技以外に絶対に競技場に出る可能性のない私が、どうして同じ学校だからといって親身に応援しなければならないのか。

また、あの日の丸。全国の神社何とか協議会が用意したということもさることながら、何万枚という日の丸の小旗が打ち振られる様子にはぞっとする。文科省が音楽の教科書に写真として喜んで載せているように、ナチスや北朝鮮、戦前の日本の映像と重なってしまう。私は、四つの島を中心とする風土に親しみはあるが、「共同体的国家」ましてや「政府機構としての国家」には熱狂するものを感じたことがない。

そして、君が代の合唱。むかし、君が代とは相撲の歌なり、と言われたものだが、今や様変わりで、教育委員会による「国旗国歌」の強制と並行しての、国際的競技の場での涙ながらの合唱には辟易する。何とも無神経な。アジアの人々も自分の国の国旗国歌には「熱狂」するだろうが、日本人が日の丸君が代に「熱狂」するのとでは意味が違う。何しろ、日本は欧米と肩を並べる「大国」で、アジア諸国とは断じて同列ではない、という自負心に裏打ちされているからである。こう言うと、「そんなことないよ、あそこで日の丸君が代に熱狂している若者たちには、大国意識や侵略的野望はなく、単純に同じ日本のチームだから思い入れしているだけなんだ。第一、スポーツの試合なんてどちらかに肩入れするからおもしろいんだ」という反論が、立場を越えてなされると思う。

もちろん、サッカー観戦時の一時的な解放感というものはあるだろうが、この本によれば、どうもそうとばかりも言えない状況が透けてくる。著者は大学で教えていて、若者と日常的に接している。アンケートもとったりしていて、若者たちの「屈託のない」愛国意識「ぷちナショナリズム」にふれて、「日本はいい国」「好きな国」「アメリカから自立してがんばってほしい国」といった肯定的イメージが学生の多数派であることを報告している。

なぜそうなるのか。著者は、鷲田清一の「たがいたがいに複製であるような〈分身〉たちの共同体」という議論を引用して、愛国心や金儲けが今の時代の主流ならば、「そうなっているんなら仕方ない」とりあえずそれでいこう、となることを説明している。このようになるのは、のり越えるべき頑固な父親や強大な権威といった強圧的存在がなくなったためでなく、それを強圧として感じさせない心理的メカニズムが働いているからなのだという。ちょっとした葛藤や面倒を避け、都合の悪い局面にいる自分は本来の自分とは違うと切り捨て、今だけを楽しむのだ。

このような価値判断抜きの感じ方は、それがどういう意味を持つのか、どんな結果が予想されるのか、つまり「ほかの生き方もあったのではないのか」という反省や、「金儲け主義が耐震強度偽装マンションをつくりだしたのではないか」という後悔とも無縁なのだ。それは、グローバリゼーションといわれる現代の現実主義、成果主義ともマッチしている。

こう考えると、若者たちの「ぷちナショナリズム」は、底が浅いどころか根無し草のようなものとも言えるだろう。しかし、それが靖国問題ともからんで諸外国に及ぼす影響は無視できないし、右翼的心情とも切れ目なく続いている可能性があり、それが判明するまでに「残されている時間は、そう多くはない」のだ。加えてこの本ではふれられてはいないが、「〈分身〉たちの共同体」からはじかれる障害者を初めとするマイノリティに対して、新たな無自覚的な差別が、静かに広がる恐れがあることを指摘しておきたい。