千田好夫の書評勝手

圭角をためながらこっそり生きる

1月末のある日のこと、不思議な映画を見た。内容は、祖母と暮らす障害のある若い女性、ジョゼと、障害のない学生、恒夫の恋愛物語だ。早朝、坂道を暴走する乳母車。それを追いかける祖母と、祖母の叫びを聞いて駆けつける恒夫(妻夫木聡)。恒夫が必死に乳母車を止めると中から包丁で身構えたジョゼ(池脇千鶴)が現れる。こんなシーンで映画は始まる。

ジョゼは上半身には障害はないが両足がたたず、原因不明ながら脳性マヒと診断されている。祖母は障害を恥じ、深夜や早朝といった人影の少ないときにしか外に連れ出さない。だが、この事故が縁で恒夫はジョゼの家に出入りするようになる。実家が地方の農家である恒夫には野菜の仕送りがあり、それを自分では料理などしたことのない恒夫が持ち込んでつくってもらうといった設定だ。

しかし、若い二人の接近を危惧した祖母が恒夫を出入り禁止にする。ほどなく就職した恒夫は、祖母が死んだと風の噂に聞き、ジョゼの身を案じて訪ねる。そこから二人の共棲み(同棲)が始まる。題名の由来となったレンタカーによる旅行での見聞が印象的なシーンとして描かれるのはこの後だ。

原作の田辺聖子の小説では、二人の関係の破綻は「そばにいる限りは幸福で、それでいい」と暗示されているだけだ。ところが、映画では二人の関係を親に言えずに恒夫の腰が引けることで終わっている。

映画を見るまで原作を知らなかったが、両方の違いは興味深い。冒頭の乳母車は原作にはなく、「魚たち」の水族館は、原作では海底水族館として開館している。映画では地上の水族館だが「でも、閉まってた」となっている。

だが、あらすじは維持されている。田辺聖子の小説の解釈として脚本を書いた渡辺あやの解釈が間違っているとは思えない。それならば原著者が映画化を許すはずがない。祖母の死後訪ねてきた恒夫を引き止めるジョゼの「早よ帰り。早よ帰りんかいな。二度と来ていらん!」という求愛の言葉はそのまま維持されている。ジョゼに引きずられる形で共棲みしながら親には言えない、気が弱くて優しい恒夫もそのままだ。だから映画では関係が破綻する。原作では破綻していないが「死んだモン」という表現になっている。非常にありがちだ。実際にこのような状況で、そもそも関係が成り立たないか破綻してしまう例は多いと思われる。わたしもそうだった。親の壁は、気にするものにはとても大きい。いまどき親なんてと軽視するのはまちがいだ。

観たものが考えればいいことなのだろうけれど、物語をこのまま終わらせていいのだろうか? わたしが映画を見たときは、入れ替えのたびに大勢の若者が並んでいた。あの若者たちはこれをどう感じたのだろうか。あるいは妻夫木聡や池脇千鶴のファンというだけで並んでいたのかもしれない。また、ネット上の投稿をいくつか見たところでは、このへんにからんだものはなく、美しい映画のひとつとして見られていることがわかる。意味がわからなくても楽しめる外国語の歌とは違うはずなのだけれど…。

もっとも、こういう疑問を感じるわたしみたいなものは、原作でいうところの「差別闘争意識が強く、日常でもおのずと人間性に圭角が多くなってゆく」障害者なのだろう。(圭角とは言動に角があること。)他方、ジョゼは「ひっそり、こっそり」生きるタイプなのだという。だが、このように分けられるとは思えない。むしろ、両面を備えて生きているのが、障害者だけでなく人間一般なのではないのか。命令口調でなければしゃべれないジョゼこそ、わたしから見ればりっぱに圭角をためて生きている障害者だ。「差別闘争意識」だけが圭角の現れというのは、原作者の偏見である。圭角をためながらこっそり生きていることを見事に表現しているのが、ジョゼの魅力なのだ。