千田好夫の書評勝手

あれは過誤だったのか

この本を読み返して、障害者たちが1965年6月1日から3日にかけて厚生省の廊下を占拠した日々の想いを、思い返してみた。

日本が高度経済成長に入って、世の中の経済的大きさが拡大しつつあった。しかし、それとは対照的に、あまりに貧困な障害者施策は遅々として出口の見えない状況であった。そこで、障害者たちの一筋の光明に見えたのは、国立身体障害者センターの「和田方式」という障害軽減手術であった。この手術は、一度も立ったことのない人が歩けるようになるなどの「成果」をあげており、その中心である和田医務課長は「障害者の神様」といわれていた。しかし、センター当局そして厚生省が生産活動に寄与する見込みのない障害者の手術を強引に制限したため、障害者たちの不満が爆発したのだった。

闘争の始まりと高揚と挫折、そのダイナミズムと緊迫感は、読む者をぐいぐいとひきこんでいく。是非、直接読んでほしい。静かな語り口で述べられているからこそなお、障害者たちのささやかな願いを強圧的に踏みにじった厚生省当局への時間を超えた怒りがわき上がってくる。

しかし、わたしがここで考えたいのは、権利の追求、つまり社会のあり方を問うのではなく、自らの体を切り刻んで社会のあり方に合わせることを障害者が望んだことである。そういう時代だったといえばそれまでだが、そういう時代があったことを忘れないでおきたいのだ。そうでなければ、いつでも同じような時がやってくる。

障害の見方には、二つの考え方がある。医療的観点と社会的観点である。この二つは、障害の二つの要素であって、実生活ではからまり合っている。たとえば、この十年ほどわたしの移動手段は徐々に松葉杖から車いすに比重が移っている。加齢と体重が増えたことによって、小児マヒの後遺症のある足が負担に耐えられなくなり、整形外科の診断を受けて電動車いすを使うようになった。これは医療的観点からの障害への対処である。次に、わたしが電動に乗って電車に乗りこむ場合には、駅までどう行くのか、駅の中の階段をどう行くのか、ホームと電車の隙間と段差をどう乗り越えるのか、これらには社会的対応が不可欠で、エレベーターなどの設備の充実はもちろん、駅員・他の乗客・わたしという三者の連携と協力、マナーが確立されている必要がある。そして重要なのは、後者の社会的体制(文化といってもいい)がなければ、前者の工夫はあまり意味がないということなのだ。

こう整理すると「なんだそんなことか」と思われるかもしれないが、「そんなこと」が未整理で発展途上であるのが21世紀初頭の日本の現実である。1965年当時にいたってはほとんど何もなかったといっても言い過ぎではない。筆者の二日市さんは1958年に国立身体障害者センター(新宿戸山町、現在は戸山サンライズのある所)に入所する前は、大分県で座敷牢同然の生活を送っていた。今日の視点から見ていかに多くの問題があろうと、障害者が社会生活できるように学科と訓練そして医療を行うセンターは、かなり魅力的であった。このようなセンターは当時全国でただ一つであり、全国各地から障害者が続々と送られてきていたのだ。「長く暗い在宅時代に比べると、それはきわめて強烈な色彩感を伴った密度の濃い日々だった」と、筆者はセンターでの日々を回想している。

そのセンターで行われていた手術は、考えてみれば遅れた社会のあり方に無理矢理障害者を適合させるやり方で、危険かつ非人道的側面があった。本書にはふれられていないが、おそらく「失敗」もたくさんあったはずで、わたしのいた地方ではそういう例を多く見かけている。それを「神様」あつかいした社会の貧しさと悲しさを感じざるをえない。

もちろん、インフォームドコンセントを十分にとった上で、本人の生活上どうしても必要な医療的手だてはあるべきである。しかし、社会的には医療的手だてを先に立てるべきではなく、まずあるがままの姿を受け入れる文化がなければ、医療は際限なく障害者や病人をさいなむものになってしまう。筆者が「和田方式による外科治療は、唯一絶対のものではなく、むしろ過誤であるかもしれない」と「あとがき」でいっていることを、わたしとしては重く受けとめたい。