千田好夫の書評勝手

わたしが火星人「だった」頃

おかしなタイトルだ。わたしは今でも火星人なのだ。だが、わたしは長いこと地球に住んで、火星人であることをあからさまにしなくなった。とくに、地球人には不意打ちは禁物だ。

地球の首都のひとつ、トーキョというところに住み始めたとき、風呂のない部屋しか借りられなかったので、銭湯に行っていた。ある日わたしがすっ裸になり、地球の重力によろよろとなりながら湯ぶねに向かうと、先に入っていた人がわたしの裸を見てほんとに目をまん丸くし、そそくさと出ていってしまった。おかしなことに逃げ出しながら、そのおじさんは自分の一物をタオルできっちり隠していた。わたしは何も隠していないので(実は隠せないのだが)、おじさんはしっかりわたしの身体を見たはずなのに失礼な話だ。

このおじさんが必死に隠していたソチンはなにか特別なものだったのだろうか。しかも、このような行為は実はほとんどの地球人に共通の行為なのだ。何かあるのかと思って、何人か仲良しになった地球人の身体をすみからすみまで見せてもらったが、顔の違いと同じような違いはあるにしても、別に変わったようすはなかった。

また、わたしは長く地球に住んでいるが地球の重力に慣れるということがない。だから、立ったり座ったりでは地球人の友人の手を借りねばならない。軽々と動く彼らの動きを見ていると、つい彼らが何でもできるんだと思い込んでしまう。だから、電動車いすを持ち上げようとして、駅員の人が腰をぬかしたのにはびっくりした。それ以来、お互いに驚かないために、地球人の身体感覚はどんなものか知っておく必要があると思い始めた。

しかし、なかなか適当な本がない。地球人には当たり前すぎることは、誰も本にしないのだろうと諦めかけていたときに偶然この本を見つけた。鷲田さんは「臨床哲学」の先生だそうで、様々なファッション、制服と非制服の時代による思いの違いが実にわかりやすく説明されている。こんな話も紹介されていた。イタリアのある修道院では、トイレにドアもしきりもないが、入り口につけてある仮面をつけて用をすますという。自分と特定されなければ、見られてもいいのである。そうか、あのおじさんはソチンのかわりに顔を隠しても良かったのだ。なぜ、そうしなかったのだろう。その意味で、身体には隠さなければならないところは何一つないという。

隠さねばならないのは何か。地球人は自分で自分の身体を見ることが難しい。「じぶんで見るじぶんのからだ、手を伸ばして触れた腿の裏、内部から微細な音や振動を伝えてくる内臓部、ずきずき痛むこめかみ、他人の視線を感じる背中…。僕らの身体感覚はいつも断片のように散らばっている。それらの断片を縫うようにして、想像力が『わたしの像』を一つの全体像として描きだす。ぼくらの存在はその意味で一種のつぎはぎ細工だ。想像力がたよりなのだ。想像力が衰弱すると、かろうじて服がそれを支えてくれる」

あのおじさんは火星人のわたしの身体に驚いて想像力を失った。駅員さんは自分の非力さを制服の下に隠していたのかもしれないが、わたしの電動車いすがそれを暴露したので彼のショックは大きかったろう。心身に二重にダメージを与え、気の毒なことをした。

火星人は地球の重力に耐えるためにギブスをつける。しかし、地球人は自分の根元的な貧しさを隠すために「ゴージャスとエレガント」(それが茶髪でもだぶだぶの服でもいい)を競い、化粧と衣服という「ギブス」あるいは「義歯や義眼」をつける、と本書はいうのだ。そこからふりかえると、かつてわたしが火星人「だった」頃、わたしの想像力は今よりずっと貧しかった。わたしの松葉杖や車いすは、それを隠すという機能もあるということになる。地球人と火星人の距離は微妙に近いというべきである。