千田好夫の書評勝手

お月様ん油さし

悪態は口論の主役だ。その悪態には広い意味では差別語も含まれる。だから、名誉毀損や差別にいたらない悪態がつけなければ、むき出しの暴力に道を開いてしまう。問題が生じて口論となったときに、上手に悪態をつき溜飲を下げながら、関係改善にいたらぬまでも破局は避ける。はたしてそんなことが可能なのか?

そこで本書を読んでみた。著者の川崎さんは詩人。悪態は他人への悪口とともに自分の腹もさらけ出すわけで、著者は「その分親しさも増す。お互いユーモアのセンスを磨き、悪態能力を高めよう!」と呼びかけている。本書では・落語・芝居、映画・文学・方言、そして・現代日本の大学キャンパスで話されている学生言葉から様々な悪態を採集している。ちょっと紹介すると、

裏表のはっきりしねえ顔だね/馬が紙くずかごをくわえて、シルクハットをかぶったようだ/満場の悪漢ども/ちんけいとうめェ/豚の軽業だ/おいなり様の鳥居にしょんべんひっかけやしないか?/どぶ板野郎の、だれ味噌野郎の、出しがら野郎の/ちょろっか/小さく固まって、おさまりかえった猿のような、狐のような、ももんがあのような、だぼはぜのような、めだかのような、鬼瓦のような、茶碗のかけらのような日本人(高村光太郎)/ずるしゃも(北海道)/ほでなす(宮城県)/ごちゃっぺ(茨城県)/大猿の屁こいたごとある(福岡県)/お月様ん油さし(大分県)/自己ちゅう/ウマヘタ/シャネラー/グッチャー/ブルーはいってる/大学デビュー

おなじみのも、初めてのもある。初めてでも何となくわかるから不思議だ。特に、アメリカ・フランス・イギリスで生活して帰ったばかりの高村光太郎の印象には同感する。大分県ののっぽさんへの悪態には、サン・テグジュペリを思わせる美しさがある。(宮城県の方言では「のっつぉ」も見出しにいれてほしかった!)なるほど、当意即妙にこれらのような悪態がつければおもしろい。言われた方も鳩が豆鉄砲くらったような顔をするに違いない。

もちろん、実際にはこれらだけが最悪の事態を避けうる手段ではない。私がある日の昼下がり、交通トラブルを目撃したときのことだ。信号直前で車が左車線から右車線に進入、そのまま右折した。すぐ後ろにいたバイクがブレーキをかけさせられ頭にきて、「何しやがんでーっ、バカヤロー!」と大声で叫び、警笛を鳴らしながら車を追跡した。車はすぐに止まり口論となった。二人とも屈強な男で五十代後半と見えた。

「やかましいっ! こっちは道に迷ってんだ。進路変更の合図もしたぞっ」

「てやんでー、直前に合図してもあぶねーだろっ」

「バカヤローって怒鳴ることないじゃないか」

「ルール違反はそっちじゃねーか。バカっていわれてトーゼンだろ」

この「ルール違反」というのが決め手になったらしく車の運転手が引き下がった。「わかった。俺が悪かった」「あったりめーだ。ガキじゃあるまいし」そのまま二台ともいなくなった。数分間の出来事だった。

交差点でのトラブルは事故の元だ。それが怒鳴りあいだけで喧嘩にならずに済んだのは幸いだった。この二人の口論は理性を保っていたように思う。声をあらげて言いたいことはいって、納得したらほこをおさめる。悪態としては、「バカヤロー」「ガキじゃあるまいし」の二語だけで工夫(?)がないが、「進路変更の合図」「ルール違反」といった共通規範に基づいて争点がしぼられている。

考えてみれば「あつく」怒鳴りあうこと自体が近頃では珍しい。障害者の存在を無視するかのように清潔さやかわいらしさに重きを置く社会の中では、表だった口論、喧嘩が影を潜め、その代わり卑怯で陰惨な闇討ちが多くなったように思う。一家全員皆殺しで犯人もあがらないという事件も続いた。(もっとも、そんな事件だけが目立つような世論操作の可能性もあるけれど)

議論や口論がおおっぴらにできるようになれば、清潔志向の裏返しである陰鬱で差別的な社会状況が少しは晴れるかもしれない。議論の方は、ディベートなんてことが一時もてはやされた。どうもそれは清潔志向にも結びついていて、結局身についていないような気がする。お行儀の良い議論の前に、まず悪態をものにし、争点をしぼった口論に慣れておかねばならないのではないか。