千田好夫の書評勝手

冷静な観察、奇妙な違和感

イラク戦争が「終結」して2ヶ月あまり。この戦争はアメリカの覇権を再確認しただけではなく、対話を拒否し暴力に訴えるスタイルが、またもやまかり通ったことの意味が大きい。つまり、ブッシュ大統領やネオコンのやり方は、「問答無用! 撃てっ」と犬養首相を射殺した5・15テロ事件の青年将校と同じく、自分が正しいと思えば実力行使や感情的行動も許されるという風潮を世界中に広めたと思う。アメリカの覇権云々よりも、その影響の方がよほど深刻だ。

さて、一度でもアメリカを訪れた経験のある人はほとんどといっていいほど、まずアメリカ人のフレンドリーさと人権感覚に驚き、日本に帰ってくると逆カルチャーショックに戸惑う。日本人はなんでマナーが悪くて文化程度が低いんだろうと本当に思ってしまう。永住したいという障害者が何人もいる。もちろん、これは一時的な旅行者の感慨に過ぎず、数ヶ月、数年と滞在すればアメリカ人の英語偏重や自国第一主義、非白人系に対する差別観に気づくようになる。ミサイルでも一番だが、人権でも一番でいたい心境が同居している。いったいどうしてそうなのか。

そこで上記の本を読んでみた。筆者の冷泉彰彦さんはニューヨークにほど近いニュージャージー州に仕事で93年から住んでいる作家。9・11の現場にこそいなかったが、地理的な近さからこの日を境とするアメリカの変化に立ち会うことになった。筆者によると、アメリカ人は、9・11その日の恐ろしい衝撃にあわてたけれども、敵味方という単純な「20世紀的な二分法」ではなく、「全く新しい危機に直面し、何を守れば良いのかという根底的な部分を誠実に悩んでいる」ように見えた。まだアメリカ人の「ポジティブ・シンキング」が感じとれた。

しかし、服喪期間があけ10月になるとベトナム以来のシニシズム(冷笑主義…あるいは厭戦気分か、千田)が終わったように感じられはじめた。折り悪しくも炭疽菌事件が発生し、あとで国内アメリカ人の単独犯行とわかるが、まじめに9・11との関連が取りざたされる中、アフガニスタンへの空爆が開始され、一般のアメリカ人も追いつめられた気分になっていった。「報復」攻撃や治安維持のためのプライバシー制限に賛成する人が激増し、議会ではそのための法案がほとんど満場一致で可決された。ただ筆者によれば、日本人のように大勢に迎合するのではなく、「栄光ある民主主義を守るためにオレたちの積極的な意志で決める」と本気で決めているそうで、その分「一旦走り始めると勢いがつく」のだろうと推測している。反対派はもちろん存在するが、その「正論」はこの勢いを止められない。亀裂が見えてきた。マッカーシズムもかくやと思わせられる、という。

本書が冷静で臨場感あふれるレポートであることには感心する。特に日本人は忘れている炭疽菌事件が、アメリカの変化をぐっと後押ししたものであることに気づかされる。しかし、この本自体にある種の違和感が存在する。実は、すべてが筆者の観察のみによる思考の過程である。英語が堪能でニュースや講演を聴き新聞を読んでいながら、筆者と意見を交換するアメリカ人が登場しないのだ。

その奇妙さは「おわりに」のなかに次のような文章となって現れる。「アメリカの人々は、飽きてしまっていたのです。ハイテクとバイオの描く、余りにも素晴らしい未来図に。女性や少数民族の人権が無制限に拡大し、本当に平等な世界が来てしまうことに」つまり民主党政治に飽きた、というのだ。

そうだろうか? 筆者は、おそらくニューヨークの街中で何度もすれ違ったであろう、車いすに乗った人や盲導犬と一緒に歩く人々が目に入らなかったのに違いない。一般のアメリカ人の対応があまりに自然なので気がつかなかったのかもしれない。障害者差別を禁止したADAは、共和党ブッシュ親父大統領が認めたものなのだ。そういう意味で、確かにアメリカは、「人権」を覇権の道具として使える次元の高い軍国主義国家なのだ。

それを簡単にアメリカが手放すとは思えない。だが、アメリカ現政権の問答無用的人権感覚は、いずれ国内のマイノリティにも適用されるに違いない。その時にこそアメリカは国論が二分し、日本並の普通の国になるのかもしれない。