千田好夫の書評勝手

医療過誤裁判にいどむ

医療の問題は、私たち自身の心身のことであるにもかかわらず、まるでわからないことが多い。何十年も使っていない健康保険の保険料だって、今年はいくらになるのか、年収の変動もあって通知がくるまでわからない。医療過誤にいたっては、まるで見当もつかない。見当がつかないどころか、まさに「まな板の上の鯉」状態だ。インフォームドコンセントのかいもなく、医者が間違いを犯しても、当の医者が認めるか他の医者が指摘するかしなければ、まるでわからない。こちらに疑問があったとしても、手も足も出ない。医者の善意に依存するしかなく、その善意で「安楽死」さえやられかねない。なんとも不安な状況だ。

私の母は舌癌で亡くなった。舌にできたポッチが何年も消えず、不安に思った母がいくつかの病院で時期を変えて診察してもらった。しかし、どこも癌であるとは言わなかった。痛みが出てから診察したら癌であった。入院してからの処置も疑わしい。父は医療過誤の疑いを持ち、弁護士を通じてカルテを抑え、友人も含めて何人かの医者に見てもらったが、疑わしいところはなかった。

今から思えば、舌を切り落としリハビリまでしたことが痛々しい。もし、母が生き残っておれば、自ら医者に対してどんな文句を言ったであろうか。この本の筆者の東道武志さんは、埋伏智歯(まいふくちし)という特殊な親不知を抜くことを勧められ、医者のミスで神経を切られ舌の感覚を失った。執刀した医者はそれを筆者に知らせず、筆者が別の病院で診察してもらい発覚するまで伏せていた。露見してからは、一時的にミスを認めたが、損害賠償の話になると、保険会社の弁護士を通じて因果関係を否定し、行方までくらました。

調停が成立せず、法律扶助協会の弁護士を頼んだ。しかし、その弁護士は相手方の弁護士の後輩で訴訟に持ち込むのを押さえられ、いたずらに調停に時間をつぶしていた。それを知った筆者は、弁護士に頼らず自分で訴訟することを決意する。相手方が訴訟を嫌っていることに気づき、そこに勝機を見いだした。まさに、プロの営業マンとしてのカンであった。必死に法律を勉強し、訴状を自分で書き、ついに三千万円の賠償金を支払えという勝訴判決を勝ち取った。相手方は控訴したが、筆者は付帯控訴に甘んぜず、逆に賠償額を二億円に引き上げる。意表をつかれた相手方は和解を求め、一審の判決に沿って筆者の勝利が確定する。筆者の大変な思い、歯科医師・弁護士の悪辣さがよく伝わってきて、筆者の怒り、悲しみがわがことのように感じられる。医療過誤 に対して、泣き寝入りせず、あくまで闘ったのはすごい。

しかし、せっかく勝利した素人訴訟がテーマなのに、その経過がくわしくないのが残念だ。小説という形態をとっているにしても、マニュアルにも使えるくらいに、ノンフィクションドキュメントとしての迫真性があれば、読者もマスコミも本書にもっと注目したのでははないか。筆者自身が当事者なので大変だったろうが、編集者がそういう配慮をするべきだったのではないか。裁判や法律など考えたこともない読者が圧倒的なのだから、「いつのまにか」筆者が勝利して「よかったね」ということしか残らず、パンチの少ない仕上がりになってしまっている。

つまり、筆者が法律条文の解釈や訴状などの作成に苦闘したこと、相手方の文書も必要箇所をのせて、同じようなことをしようとする人の手引きになるくらいにすべきだ。そうでないと、読者は、何が肝心なのか、何で筆者が勝ったのか、小説としての醍醐味がどこにあるのかを感じることは難しいと思う。もちろんある程度は書かれてはいるのだが、分量が薄い。コンパクトにまとめるのではなく、無骨に荒削りのままの方がむしろよかったのではと惜しまれる。