千田好夫の書評勝手

初めてのおんもで轢かれし恋の猫

友人に猫アレルギーの人がいる。おそらく、まだ人間が大型肉食動物と覇を競っていた頃、最大の敵は猫の仲間の虎やライオンであった。それらが近づいただけでも、異常を察知することができたアレルギーは、人類が勝ち残るのに役にたったのかもしれない。

もちろん、同じことは猫側にも言えるはずだ。でも、それを察知できるほどにはこちらが賢くない。野生動植物の絶滅が懸念されて久しいが、すぐ近くの隣の猫とどうすれば共に生きていけるのか。そこから考えたい。

人間と猫の関係を考えてみると、猫は、文学作品によく登場する。国民的小説である「我が輩は猫である」をはじめ、仁木悦子の作品を思い浮かべる人もいるだろう。しかし、俳句ではどうか。インターネットで「猫 俳句」と検索をかけると、三つしか出ない。思ったより少ない。そこで「ねこ ネコ 俳句」と、かなにしてみると300件ぐらい出てきたが、めぼしいものがない。やはり、これは新しい分野に違いない。

そうしているうちに、幸いにも上記の本のゲラを見ることができた。刊行前だが紹介しておきたい。これは四季いろいろ、猫の観察記のような句集で、平易に、しかもまるで絵を見るように光景を描き出す。著者は、新橋で「酒房いそむら」をやっているマスターとママ。大きなお宅なのか、猫九匹と同居中の由、うらやましい限りだ。

顔上げて猫の嗅ぎゐる春の風

そうだ。猫はじっとすわって鼻を動かしていることがある。それもいつのまにか隣にいて、こちらにはなにくわぬ顔をしている。ちょっとなでたりすると迷惑そうにちろりと見て向こうへ行ってしまう。無粋なのはこちらの方である。

五月晴れ猫大仰に顔洗ふ

行った先で身だしなみ。それから、猫は出かけて行く。春は恋の季節である。

恋猫の両耳冷えて戻りけり

苦闘の後か、呼吸も荒く戻ってくる抱き上げてみると意外にも耳は冷たい。まだ肌寒さの残る頃か(この句は光生さんの前作「花扇」【bk1/Amazon】にも出ている)。しかし、ここは大都会の中。外は危険がいっぱい。

初めてのおんもで轢かれし恋の猫

戻って来られない特攻隊のような痛ましい事件。車にやられて死ぬ猫は多い。人間の都合しか考えられていない街の造り。しかし、その人間も健常な若者を中心にしている。車いすで路上を行くあの恐怖を思え!

さて、いったい猫というものは、春と秋が似合う。冬は寒がりで、夏はぐうたら。

仔猫らの伸び切って寝る夏座敷

なんであんなに身体が伸びるのだろう。腹を上にしているのもいる。おっと、一匹だけこちらを見ている。そろそろおやつの時間かな。

ニューヨーク猫物語」にもあったが、猫は友情というものを考えさせる不思議な生き物である。

病む我に寄り添ふ猫や夜の秋

人間から餌をもらっているには違いないが、決してへりくだらず、いばりもしない。あくまで対等であり、友情の表現も押しつけがましくない。実にうまいタイミングで離れていく。

コスモスを過(よ)ぎりて猫のしなやかに

やがて冬がやってくる。冬は猫には厳しい季節である。特にのら猫には。

霜柱崩しつつ掘る猫の墓

そして、また春がやってくる。そろそろ、梅のつぼみが見頃だ。自分のお弁当は持たずとも、友達へのおみやげは忘れない。特に春先は食べるものがないのだ。

ポケットに猫の罐詰探梅行

「エサをやらないで下さい」と、あちこちに張り紙がある。ではどうするべきなのか。著者は、一方で多くの猫の避妊手術をしている。しかし、人間は全ての資源を独占し、ゴミまでも焼却してしまう。それでいいのか。猫を友達として遇するべきではないのか。

猫の方はというと、なかなか食べものにありつけなくとも、その仕草は優雅である。

顔埋め眠れる猫や日脚伸ぶ