1999年4月の柿のたねニュース

雨ニモ負ケズ 春の大バザー報告

終わってみれば雨、最近週末はいつも雨にたたられている気がする。前日の天気予報を聞いてみると「正午過ぎから雨でしょう」なんて色気のない声が……。

当日、気を取り直して何とかガンバろうと思っている矢先にポツポツと……時間を見てみるとまだ開始前の10:30。「ヤメロー、アッチいけ〜」雨雲に叫んでいる私。が、しかし開始5分前ともなると100人くらいの人たちが並び始め「よっしゃいくぞ」てなわけでいよいよ開始です。

最初はやはり人の多さに圧倒され、まさにお客さんも「雨ニモ負ケズ」状態です。1時間もすれば比較的余裕も出てきますが、やはり「市」・「フリーマーケット」と違って規模はかなり大きいだけにいろんなトラブルも出てきます。それが今後の課題だと思いますが、事故もなく、前日準備・当日・後片付けとスムーズに進んで予想より早く終わって、これも皆さんがかなり手際よくやれたのが大きい。前日準備の段階でもいつもなら8時くらいまでかかっていた前日の運び込みも、今回7時には終了。なんと荷物を開け始めるところまで進み(第一会場)、片付けもなんと5時には終了。通常6時半〜7時からスタートしていた打ち上げも5:30からスタート。いつもなら片付け終わって帰ってしまう人たちも、何人か参加してくれてとても楽しかったです。やはりこの時(ビールをきゅーっと流し込むあの瞬間)のために雨ニモ負ケズがんばった甲斐がありましたってなもんです。

この場を借りて、当日のお手伝いさんはもちろん前日準備、値付け作業、荷物を置かせてくれた方々に大きな大きな「ありがとう」を言いたいです。また、買い物に来て頂いたお客さんこれからもよろしくお願いします。

そして今回から企業提供品コーナーを設けました。定着するまでに回数はこなさなければならないでしょうが、いいものがそろっていますので是非ご覧になってください。

また秋にもありますので協力よろしくお願いします。ありがとうございました。

では また 夏に あいましょう

(ひろし)

提供企業一覧

敬称略・順不同。

多大なご協力ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

親の思い

私共の子どもは、小2の肢体不自由の女児で地元の小学校(普通級)に通っております。この小学校に入学するに際して、他の障害者の親の多くと同じく、親の付き添いが強要されました。就学指導委員会の決定は、養護学校にでしたが、教育委員会はどうにかこちらの希望を受け入れてくれました。しかし前校長がなかなか首を縦に振らず、出してきた条件が、親の介助でした。

この条件の下、入学説明会の当日('98. 1. 9)に入学通知が届きました。子どもの入学と同時に前校長は、他校へと異動しましたが、条件はそのまま引き継がれ、運動会の時も、そして授業中もずっと、子どに付き添っておりました。

プールの時だけは、別の介助員を付けて下さったので、――教育活動支援要綱(H5. 4. 1から) が、適用されたのでしょう――プールサイドに居ることはできましたが、このように1学年を過ごす中、私の方が体調を崩し、子どもが学校に行けないという日々が、何日間かありました。学習の保障、教育を受ける権利はどうなってしまうのしょう。そして、子どもの自立の場へ、親が介在してはいけないという思いもあり、主人と2人教育委員会へ「介助者を付けてほしい」と、足を運んだこともありました。

私はこのようなことは、好きではありませんし、できればしたくありません。しかし、おとなしい者ほど、いいように扱われてしまうようです。幸いにも、私どもを応援して下さる方たちの協力を得て、今年3月19日、教育委員会の方々と、話し合いを持つことができました。その結果、母親の体調を考慮して、週2日の介助を区側が付けるという回答が、一週間後に出ました。

4月22日には再び、今度は教育長同席の下、親が介助を求められている場合の介助制度の実現と、学校設備の改善を話し合って参りました。受け入れた以上その子のために必要とされる配慮をしていただきたいと、強く思います。と書くのも、同じ区であるにもかかわらず、しかも、肢体不自由である今年度入学(他校)の児童には、就学指導委員会で、普通級の判定が出たにもかかわらず、全日の介助者が付いたのです。大いなる疑問です。指導委員会なるものの基準がまったくわかりません。理由を問うと家庭の事情でとのことです。私どものところでは、子ども一人のため、手がかけられるだろうとの判断なのです。たまったものではありません。同じ区内でさえ、デコボコがあるのです。学級数に見合った教員の配置(都)、予算3,000万の中で介助員をどう割り振っていくか(区)などでとても難しいのだそうです。まだハード面、幼・小・中の1フロアーに1つ以上の洋式トイレなどの方が対応しやすいとのことでした。

環境さえ整っていれば、わが子への介助の量もかなり減らせるのです。廊下にてすりが付けば介助者が手を引かなくても移動(歩いて)できます。トイレのドアをアコーデオンカーテンにしたり、手すりを付けてくれればトイレも一人でできます。肢体不自由児は変わらずとも、障害児ではなくなるのです。22日の話し合いは、日が暮れて目的地までたどり着けなかった旅人のようでしたが、聞く耳を持ってもらったという点で納得するしかありません。

入学に際して、6年間も脳性麻痺のわが子と付き合い、養護・普通級の見栄など微塵もありません。どの親もわが子にとってどこが一番適しているかの選択なのです。必要な要求をしているだけなのです。そこに何の、誰の、規制があってはならないと思います。

親が闘わずとも、誰もが平等に教育を受けられる日が、来ないものでしょうか。

(はつみ)

飛行機大好き!

出発前夜

とにかく忙しかったことをよく覚えている。連日アルバイトに明け暮れている私は、もちろん出発前夜も深夜1時までアルバイトしていた。だいたい4〜5時にアルバイト先に行っていたが、それまで何をしていたかといえば買い物だ。「これからアメリカでたくさん出来るじゃないか」と、思うかも知れないが、そんな楽しい買い物ではなかった。普段パジャマを着ない私がパジャマを購入し、シャンプー、洗顔フォーム…etc. 生活に必要とする類をあれもこれもと買い込んだ。今思うと、いささか神経質になりすぎていた気がする。でもあの時はそれでいっぱい、いっぱいだったよ。そんな理由でアルバイトから帰った私は、空っぽのスーツケースに部屋でかき集めた旅行に必要なガラクタを詰め込んだ。終わったのは朝方だった。

旅立ちのとき〜Departure〜

出国当日、私は昼頃起きた。一応昼前には、4個の目覚し時計をセットしておいたがいつもと同様起きられない。そんな寝坊をしてもシャワーを浴び荷物の最終確認。そして集合時刻の3時間前には、成田に無事到着した。知人にお借りした水色のスーツケースとお気に入りの赤いリュックを背負ってね!!!!

To Grand Junction

私は飛行機が大好きだ。いまだ、国際線しか乗ったことはないがもうすぐ国内線にも乗るつもり。何が好きって全部好き。エコノミーはとても狭いしトイレも狭い。機内食もおいしいとは言えない。でも、そんな雰囲気とても好き。フライトアテンダントも超カッコイイ。男性も女性もネ。そしてあの飛行機独特のユレ。大好きといっている私でもギャ―ギャ―騒いでおります。小さな窓からのぞく景色も最高。手でつかめそうな雲。太陽の日差し。こんなに広い日本も小さくなっていく瞬間。すべてが感激よ!!! しかしながら、楽しいのはそこまで。目的地までは日本からの直通便がないため行きは、シアトル経由の乗り継ぎ便。帰りは、サンフランシスコ経由。デンバーに着く頃には、日本から24時間くらいの時間を費やした。目的地のグランドジャンクション略して“グラジャン”にも飛行場があり、デンバーからでも飛んでいるのだが、ここは学生の弱み。航空運賃と予算の関係上デンバーから5時間かけてバスでの山越え。これもなかなか楽しいもので、道しかない山(岩)の中をえんえんと走りつづけているのだが、外国にいるという実感がした。

Grand Junction

今回の旅は、アメリカ コロラド州のグランドジャンクションという田舎町の大学にて、3週間というとても短い旅だった。この町は昔、白人が金を獲るために集まったものだという。どうりで黒人を見かけないわけだ。

見渡す限りの山々。360度どこを見ても景色は山。山。山。私は山登りに来たのだろうか? いいや、そうじゃないさ。語学勉強だから!!!!

私の家

この旅で一番期待していたことが、滞在中の家と食事だ。どんな家族なのだろう?家は大きいのかな? コミュニケーションは取れるかな? なんて不安がなかったとは言いきれないけど、期待の割合のほうが大きかった。期待通りとはいかなかったが、普通の家庭だった。私のペースにはマッチしていた。不満もなかった。ただ「失敗した」のが日本食。『日本食なんて全然!』ってバカにして自信たっぷりで行ったのがそもそもの間違い。2週間目の夜に、ルームメイトとコーヒーカップで飲んだインスタントの味噌汁。涙が出るほどうれしかった。というよりもささやかな幸せを感じた。向こうでの食生活は、肉とチキンがメインで魚はナシ。海が遠いのだから仕方がない。私の場合、1杯の味噌汁で3週間を乗り切った。

気候

今回の目的は英語の勉強が主だ。当たり前ではあるが、大学で学んだものより、生活している中で学んだことのほうがはるかに多いし、楽しいし身についた。ひとりでスーパーにも出かけたし、私たち以外の留学生で、英語でしかコミュニケーションのとれないフランス人、中国人、コロンビア人そしてブラジル人のたくさんの人種とコミュニケーションをとった。なんとなく、さりげなくね。観光も幾度かした。デンバー市内観光でパフォーマンスをしていたパントマイムのお兄さんにおどかされてキャーと叫び、まわりの観客に笑われた。かなり恥ずかしかった。アスペンでスキーもした。スキーをしたのに、帰るまでの買い物中、なぜだか半袖だった。なぜなら暑いから。気候に関しては驚きの世界だった。朝と夜はコートとマフラーが必要なくらいの厳しい寒さ。しかし、日が昇るお昼をまわるとみんなノースリーブ。簡単に言うと、朝と夜は日本で言う冬。昼間は夏。スーツケースの中身は冬物一式。どう対応したらいいのやら…。

原因は気候のせいだ

そんな気候の中、私はパスポートの入っているジャンバーを紛失した。ジャンバーなんてどうでもいい。でもパスポートはなくしちゃいかんだろう。さあどうしよう。今思うと本当に私はバカだと思う。パスポートを探すことより、日本領事館を探していた。なぜならパスポートを持っていない私がみんなと一緒に日本に帰るためには、領事館で「帰国のための渡航書」を発行してもらわねばならないからだ。まあでも結果良ければすべて良しとも言うように見つかったから良かったけど。

最後に

私はこの旅で、ひとつの大きな経験をした。具体的にひとつはなくて、すべてを大きくひっくるめてひとつの大きな経験だ。これからもたくさん経験したい。

自分の将来について選択を迫られた時、自分の今までの経験を思い出すだろう。重ねてみるだろう。そして考えるだろう。

とても短い旅だった。今思うとネ。

(真樹)