2000年4月の柿のたねニュース

ピープルファースト全国大会 今年は東京で開催されます

ピープルファースト(知的障害者の当事者運動。権利擁護や自己啓発など様々な活動をおこなっています)の全国大会が今年は東京で開催されることになり、日野のピープルファースト話し合おう会を中心に2ヶ月に`1回のペースで実行委員会を聞きながら準備を進めています。

柿のたねでも大会当日や実行委員会にもできるだけ参加する予定ですが、今回は実行委員長の音さんにその決意のほどを言葉にしていただきました。

このたいかいはぜんこくみんなのたたかいです。みんなでたいかいをがんばりましょ。

たいかいちゅうはさわがないで、さいごまでがんばっていきましょう。

みんなさいごまでがんばってください。

たいかいめざしていきたいです。

みんながんばりましょ。このたいかいがんばりたいです。

たのしいたいかいになりそうです。

みなさんがんばってください。

みんなせいいっぱいがんばってください。たのしいたいかいにしていきましょう。

たのしいたいかいにしていきましょう。

みんなのたいかいになるとおもいます。

みんなたのしんでください。

たいかいをがんばりましょう。

じっこういいんちょう

おとえつこより

公会堂春のバザーのお礼

柿のたね恒例の年2回の公会堂バザー(春)が4月16日におこなわれました。

前日は、雨に振られ、いつもなら荷物を外に高く積み上げ、前日より借りている公会堂へ運ぶのですが、この雨では限られてしまいました。

当日、天気が気になっていましたが、うすぐもりで、バザーにはとても良かった空模様です。

今回、初めての試みで、目黒区の後援をとりました。これをとると区内の掲示板にポスターが貼られとてもよい宣伝になります。また、当日東急ケーブルテレビ局も取材に来てくれ、バザーのもようを撮影してくれました。

11時開始。責任者としてお客の入りはどうか気になり、外を見てみると、入り口〜外までズラーリ並んでいました。思わず顔がほころんでしまいました。入場制限をしながら盛況の中、終わりました。

今回私の仕事が忙しく、思うように準備が不足していましたが、チェリーがとても良くカバーしてくれたおかげで、着々と進められてきました。

忙しい毎日の中、身体は疲れていたのですが、何故か張り切って動きまわってしまいました。会場係の孝広さん邦彦さんにどう動いてもらうのか? 私が大きい声を出して叫び、二人に動いてもらいました。二人には段ボールをたたむことを集中してやってもらい、とても良かったと思います。終わり頃には、空き段ボールがすっかり片付いていました。

今回、後片付けも早く終わり、お手伝いの方々もちょっと一杯のお茶が疲れをいやしたのではないかしら。

多くの皆さんに支えられ、売上は846,000円でした。近年にない売上金です。

最後に、提供品を出していただいた方々、また、お客さま、そして新聞折込みを入れて宣伝に御協力してくれた毎日新聞学芸大学駅前店、皆さんありがとうございました。

(高橋 琴絵)

きょうだいの座談会報告

去る3月26日(日)鷹番住区センターに於いて、兄弟姉妹に障害を持つ家族がいるきょうだいが集まりいろんな事を自由に話そうということで、座談会をおこないました。

参加者は上田晴子さん、金井洋志さん、土方公久さん、前田(無着)晶子さん、私(司会進行役)を含めて5人。

私自身はきょうだいではありませんが、今回この座談会を企画するにあたり考えたのは、家族の中でともに育つ上でお互いどんな影響を与えあったか、障害者の自立を目指す時、親は先にいなくなるけど、きょうだいはどのように関わりを持つのか、そして柿のたねで活動する中で障害者や親と話すことは多いけれど、意外ときょうだいの立場の人と話す機会が少ないことなどでした。

家族が障害児(者)を抱え込まざるをえない現在の社会では、親は障害を持った我が子の将来を憂うが故にかえって過保護になり、子離れが難しくなってしまう一方、子どもの側も親離れが難しくなってしまいます。この状況を身近な存在として育ったきょうだいはどのように捉えているのか、障害者の自立のために何が必要か、方向性を探るためいくつかのテーマを掲げてみました。

参加者から出された話の中で共通していたのは、障害を持つ兄弟姉妹をごく自然に受け入れていた事でした。よくなかったことを強いて上げれば、誰それのきょうだいという見られ方をされる事が嫌だったとか、運動の中で家族や自分の時間が取れなかった事などという声もありましたが、それすらもいろんな人と出会えたという良さにつながっていると、あまり障害者当人や親に対する反発は出てきませんでした。もちろん一緒に育つ中でいろんな事があったことと思います。なかなかそれを口にしにくいということもあるかもしれません。けれど参加者の一人から出た「障害者を家族に持つと哲学的になるのよね」という言葉が胸に残っています。

親にとって障害を持つ子どもとの出会いはそれまでの人生を一変させる出来事であるのに比べ、きょうだいの場合、物心ついた時には当たり前の存在として受け入れる環境にある差なのかもしれません。一緒に育ち過ごす事の大切さを改めて実感しました。

「大人になって他人の目にふれた時初めて気がついた兄弟との時間の取り方」という話や、きょうだいの中にごく自然に福祉の仕事を目指す人が多い事を考えると(上田さんと土方さんは福祉工房の職員)、兄弟姉妹から受ける影響は計り知れないものがあると思います。本人もあまり意識しないうちに、親の代わりをしていたりすることもあるようです(単に介助の担い手としてではなく、兄弟姉妹を自分が守らなくてはと思う気持ち)。

自立を目指す障害者にとって家族としてのつながりを持つきょうだいは、ある時は心の支えとなり、また時に代弁者となる大きな存在だと思います。けれどそれは親の代わりとしてではなく、よき理解者として社会でともに生きる一員であり、家族に集約されがちな障害者の生活を切り開いていくためのきっかけをどう作っていくのかが問われるのではないかと思います。私自身、障害者とそして家族とそのことを共有できるような関係性をどのように持てるのか、そして具体化していけるか考えていきたいと思います。

今回の座談会ではあまり浮き彫りにならなかったきょうだいゆめの悩みなど、また次の機会で話し合えればと思います。私もぜひ参加したいという方もお待ちしています。

(チェリー)

スタートした介護保険。でも、問題は山積みだーーー

いやおうなく4月1日よりスタートした、介護保険。昨年10月から3月までの目黒区内の申請件数は、予想をやや下回る4,751件(施設入所者を含む)、うち4,174件の認定が終了(区担当者の訪問調査→認定審査会での要介護度の決定)し、うち在宅の約2,200件のケアプラン作成が進んでいる。判定内訳は、

(注:目黒区の給付額はサービス種別ごとの都市加算比率が加算されます)

厚生省の当初の予想より、全国的に結果は重度に傾いていた。

介護保険制度の根幹に関わる国の決定事項や、介護報酬単価の最終的な設定が自治体に示されるのが大幅に遅れ、ぎりぎりの決定や変更があいついだ。共通の算出基準に従ってはじきだされた目黒区の、1号保険者の介護保険料金(基準額、実際には所得に応じた50%、75%、100%、125%、150%の5段階となる)は3,325円と算定され、都内で最も高い方(区外に確保した特別養護老人ホームのベッド分など含めた計算になるのが一因)。しかし、国の特別対策として、1号被保険者の保険料は半年徴収延期、10月から1年間半額徴収となる。それだけ基盤整備や制度の円滑化には時間が足りなかったということで、国政選挙がらみの思惑がなくても、今4月から1号被保険者の徴収をしたら、大変な混乱になっただろう。が、2号被保険者(40〜64歳)の、健康保険と併せての介護保険料徴収は始まっている。また、利用料の1割負担も世帯負担の上限額はあるものの、概してきつく、サービス利用を控えざるをえない層もでてくる。非課税低所得層は3%負担に軽減されるが、サービス量が不足しても手だてなし。目黒区は介護保険への移行によりこれまでのホームヘルプサービスが受けられなくなったり、削られてしまう自立や軽度の一人暮らしや高齢者世帯に「激減緩和措置」として独自のホームヘルプ事業で補うことになったが、対象者も量的にも拡大が望まれる。介護保険と都の福祉政策見直(老人福祉手当の段階的打ち切り等)とのダブルパンチで個人の負担増と、区の福祉予算の痛手は大きい。

熊本県の友人からも、長期入院していたお母さんが、介護保険の影響をもろに受けて行き場を失いそうになった、という便りがさっそく届いた。東京の他区や目黒区内からも、認定の結果や、ケアマネージャー、ホームヘルパーからのとまどいの声など、実例を通してあらたに問題点が見えてくる。施設サービスを介護点数の保険に組み込むこと、行政所管が利用者を仔細に把握できなくなることなど、根本的に「無理」「欠陥」があると思う。一方、福祉サービスを利用したことのない層が在宅サービスを利用しはじめ、「介護の社会化」へのきざしは感じられる。(2部につづく)

(やす子)

榎本佑紀ちゃんと付き合い始めて11カ月

榎本佑紀ちゃん、8才。障害があっても地域の中で、地域の子どもたちとともに育てたいという、御良心の明確な意思で目黒区立月光原小学校に通っている。4月から3年生になった。2年生の時の国語の授業でのこと、山田真さんの「おへそってなぁに?」の一文が教科書に出ていて、担任のI子先生が「先生はね、生まれた時に逆子ですぐに泣かなかったんだって。仮死状態といってね、だからお産婆さんが叩いて…」と自身のことを子どもたちに聞かせていた時、佑紀ちゃんが隣りに座っていた私の耳元で「わたしも半分死んで生まれたってお母さんが言った」とつぶやくように聞かせてくれた。

月に2〜4回、佑紀ちゃんの介助に入るようになってから11カ月ほどになる。その間、夏休みや冬休み、春休みもあり、本当にゆっくりしたペースで彼女と付き合っていて、このところようやくお互いに呼吸が掴めるようになった(…と思っているのは私の方だけかもしれないが)。介助には、お母さんの初美さんを中心に土曜日にはお父さん、公費での介助者が週2回、そして不定期に私が入る。初めて初美さんに会った時、介助について基本的には佑紀ちゃん自身が〜してほしいと言った時に手を貸すこと、理解するのは速いけれど話したり書いたりすることや歩くことに時間がかかるのでそのフォローを、ということなどを伺い、とにかくやってみるしかないから佑紀ちゃん、よろしくねーという気持ちで行き始めたのだった。

私自身は、この年齢にして小学校の教室で子どもたちと一緒に授業を聴くという類まれな体験をさせてもらい、小学校というところがまさに“内側から見える”わけで面白い。それと同時に、最初、佑紀ちゃんの隣りに座っているだけなのに疲れた。と言っても佑紀ちゃんのことでではない。学校というところに。子どもたちのパワーに圧倒されたことも確かだが、とにかく、学校というところはまるで時間との戦いの場。いろんな課題が洪水のように押し寄せてくる。それを2年生の、たった8才の子どもたちが叱咤激怒されながら健気にこなしていく。一日のサイクルも、年間のスケジュールも凄まじい。当然のことだが、そのペースについていけない子たちもいるし、“自分で考える”なんてどこか遠くへ放り出されてしまったようなところだ。子どもたちに対して無神経だし、忙しすぎるし、ちっとも子ども中心に動いていないし、一体何をしようとしているんだろう、おとな(私自身も含め子どもに対しての)たちは…そう思って疲れた。学校の問題は大きい。

佑紀ちゃんのことに戻ると、3年生2クラスの中には保育園育ちの仲間も多く、微妙な場面もたくさんあるのだけれど、彼女と友だちとの関係は「対おとな」より余程、自然にできていると思う。自分のことをさておいて佑紀ちゃんの面倒をみようとする子があるかと思えば、まだ単純なんだけれどドキッとするような意地悪も平気でやる。思わず私がたしなめると、「なによ、先生でもないくせに」と反対にたしなめ(?)られる。程度にもよるけれど、それはそれで対等な関係なんだと、やっと私が思えるようになってきた。地域の学校で育つこと、それはすべてひっくるめて皆と一緒に育つことなのだと。佑紀ちゃん自身、人一倍、皆と同じにしたいという気持ちは強く、シュンとした表情もするけれど、めげてはいない。ちなみに最近、大好きな図書の時間に借りた本は『わたし、アイドルになりたい』。

介助者の問題を最後に。公費での介助者は2ヶ月を一区切りとされていて、佑紀ちゃん自身と榎本さん夫妻にとって、しょっ中、介助者をさがさなければならず、また変わるたびお互いに慣れるまで時間もかかり、本当に不安定さにさらされている。当面は学生さんが入っているが続いて介助に入って下さること、この場で呼び掛けたいと思います。

(日比野恵子)