#6. 窪田氏の主張その2

目次へ #5. 窪田氏の主張その1
#7. 窪田氏の主張その3

 さて、マイケルソン・モーレーのミスを喝破した窪田氏は、 さらに快調に飛ばしていきます。

図1 : 窪田氏の論点(#5図2再掲)
図1 : 窪田氏の論点(#5図2再掲)  #5で述べたように、左図1で、光源 A から C 方向に発射した光は、C' には行かず、C に行くはず、 というのが窪田氏の説です。

 しかし、実験では実際に光は反射して帰ってきているわけです。ですから、窪田氏によれば、 マイケルソン・モーレーの実験では、あらかじめ光源を斜めに傾けておいたか、 あるいは今日のレーザーのような細いビームではなく、 球面波 (どうも窪田氏は電球やガス灯のような「単なる広がる光」と球面波を混同しているらしい) を使ったのだろう、というのです。 「アインシュタイン 崩壊する相対性理論」p.51 にこういう記述があります。

どうしても架台 C に、 つまり架台が A'C' の所まで行った時点で光を C' に到達させたかったら、 あらかじめ、そっちの方向にレーザービームを発射しておかなければ行けません。 松田卓也教授(アインシュタイン)が考えたように、C 方向に発射した光が、 地球が動いているからという理由で C' に行くのではないのです。 実際マイケルソン・モーレーの実験では、光を斜めに飛ばしています。 私の計算では光軸は 0.006 度程度だったと思います。

 ここで窪田氏は、「マイケルソン・モーレーの実験では実際に光を斜めに飛ばしている」 と述べています。本当にそういう事実があるのでしょうか。

図2 : 光路長の確保
図2 : 光路長の確保  事実、この実験では 10m 以上もの光路長を確保するために、 左図2のように光を何度も鏡で反射させています。ですから、光を斜めに飛ばしているのは事実です。 しかし、この場合もちろんその角度は「目にみえる」わけで、窪田氏の言うような「0.006度」 ではありません

 多くの相対論の教科書で、マイケルソン・モーレーの実験の説明として #2 の図1のように 二つの光路の角度を90°として説明するのは、単に説明が簡単だからにすぎません。

 実際、たとえば AC が装置の運動方向に対して 90°ではなく、 任意の角度θだった場合でも、ちゃんと時間差は計算できます (詳しい計算をここに書きます)。

 二つの光路の角度が90°のとき、一番時間差が大きくなる(したがって実験精度も高くなる) のは事実ですが、マイケルソン・モーレーの実験の場合、角度を90°からずらすデメリットより、 光路長を長く出来るメリットの方がはるかに大きかった、と言うだけの話です。

 そもそも窪田氏のいう「あらかじめ光軸を傾けておく」とは、 図1のように AC を運動方向に対して直角においておくと、地球の運動のため C' に移動した鏡に当てるためには光源を C' に向けておかなければならない、 といっているわけでしょう。

 図2では光線が斜めに走るのにあわせて鏡も斜めにずらして配置してあるのです。 もし窪田氏の言う理由で光線を斜めに走らせているのなら、 鏡の配置は垂直方向に置かなければ行けません。

 ですから、もし窪田氏の言う「実際に斜めに飛ばしている」 というのが図2のことをいっているのであれば、これは全く見当違いです。 そうでないのなら、いったいなにを根拠に「実際に斜めに飛ばしている」 と主張するのか、見当もつきません。

 さすがに「実際に斜めに飛ばしている」では説得力がないことを自覚してか、 先ほどの「アインシュタイン 崩壊する相対性理論」の引用部分の続きで、 窪田氏は別のことを言い出します。

 ここで、光をレーザービームのような一筋の光線ではなく球面波で考えてみたらどうなるでしょうか。 100年も前はレーザーなどなかったから、球面波で考えてみましょう。

 球面波というのは、光源から出た光の波の波面が、 同心球状にきれいに広がっていく波のことです。 レーザーのような波のそろった光をレンズで広げてやると、ほぼ球面波になります。 電灯やガス灯のような普通の光源は、単にいろいろな方向に光が出ているだけで、 球面波ではありません。この部分、窪田氏は何か勘違いしているようです。 でも、まあいいでしょう。続けます。

 発射点 A から出た球面波の場合は、 C に到達するものも C' に到達するものも当然あります。ところが、 よく考えると架台系の C に到達する光と、 紙面系の C' に到達する光はまったく異なります。違う光なのです。 時間的にずれている光です。 だから、「C に向けて発射した光が C' に到達することにはならない」のです。 アインシュタインの失敗は、じつにここにあるわけです。

 まず、「架台系」「紙面系」という妙な用語が出てきます。一体これは何でしょう。 全く説明がなされていませんが、この本の他の記述から推測すると、

架台系

架台とはこの場合、光源や鏡、 干渉計といった実験装置が置かれている台のことであろう。つまり、 実験装置が静止してみえる系のこと。 「実験室系」などと呼ぶのが普通である

紙面系

もうこれはまったく意味不明である。字面からは、(図などをかいてある) 紙面の系、という意味であろうが、 目的に応じてさまざまな系から見た図を描くのが普通であろうから、 意味を成さない。 文脈から判断して、おそらくは「絶対静止系」のことであろう。

 窪田氏に限ったことではありませんが、超科学者には「変な用語を使いたがる」傾向があります。 この「紙面系」などはその最たるものです。

 さて、「架台系」=「実験室系」、「紙面系」=「絶対静止系」という前提で話を進めると、 「実験室系で C に到達する光と、絶対静止系で C' に到達する光は違う」 という記述には、もうなにを勘違いしているんだか、と頭がくらくらしてしまいます。

 C' というのは、実験室系で鏡 C に光が届いたときの、絶対静止系での C の位置です。 だから、実験室系で C に届いた光は、絶対静止系で C' に届いた光と同じに決まってます。

 このような勘違いに気づかず、窪田氏はこう続けます。

 この辺の事情はエレクトロニクス関係の技術者や工学系の出身者には、 すぐ理解できることですが、 物理専攻とくに相対論を信じている先生はなかなか理解できない部分のようです。 頭の中がこんがらがって混乱し、 しまいには「私は忙しいんだ。とにかくアインシュタインは天才なんだ!」 みたいなことをいって逃げ出してしまいます(ある大学の学生からの手紙より)

 もちろん「頭がこんがらがって混乱している」のは窪田氏の方である。 自分が何を言っているかすら把握できていない、頭の混乱した相手と議論するのは、 実に疲れることである(これは私の実感である)。この学生さんもそうだったのだろう。 お気の毒なことである。

 結局窪田氏がなにを勘違いしているのか、p.51〜52 にかけての次の文章で明らかになります。

「アインシュタイン 崩壊する相対性理論」p.52 の図13*1
図13

 分かりやすい説明を図13に示します。A から出た球面波は、 架台の長さ AC 分を飛んでいったとき、まだ AC' の長さまで行ってないのです。 C'' の所までしか行ってません。

 これは非常に重要なことです。アインシュタインは二つの仮定 (引用者注:相対論の基礎となる「光速不変の原理」と「特殊相対性原理」を指すらしい) によって、AC の長さと AC' の長さが等しいとしてしまったのです。 そのために生ずる矛盾はことごとく数学によって「空間」を短くしたり、 「時間」を遅らせたりして辻褄を合わせていくことになっているのです。

(引用者注 (6.Jun.1997 付加) *1) 元の図13では D の位置がもっと C よりにずれて描かれている。

CD:DC' = vt : vt' = t:t' = ct:ct' = AC'' : C''C'

 なのだから、AC と C''D は平行であるはずで (中学校の幾何)、 D は C'' の真上の位置になければならない。上に引用した図はこの点を修正してある。

 この部分に窪田氏の勘違いがいくつも現れています。 まず、窪田氏は「相対論の立場」と「相対論以前の立場」をごちゃごちゃにしています。 つまり、すでに #2「マイケルソン・モーレーの実験」の冒頭で述べたとおり、 19世紀末〜20世紀初頭(つまり相対論の登場前夜)の物理学者たちは、 絶対静止系が存在し、それに対して動いている系では見かけ上光速は変化する、 と考えていました。この認識は基本的に窪田氏と同じなのです。 そのことが窪田氏には分かっていません。この事を整理すると、次の表のようになります。

一般の物理学者の見解窪田氏の見解
相対論以前 絶対静止系が存在し、地球上での見かけの光速は変化する 絶対静止系が存在し、地球上での見かけの光速は変化する
マイケルソン・モーレーの実験について 見かけの光速が変化するなら、 この実験で検出できるはず
(なのに検出できなかった)
見かけの光速が変化しても、 この実験では検出できない
(だから検出できなくて当然)
相対論以降 絶対静止系は存在せず、光速は常に一定 相対論は間違い

 つまり、窪田氏と一般の物理学者とが争うべき論点は太文字の部分 (InternetExplorer2.0以降及びNetscape3.0以降では背景が赤くなっている部分)、つまり

「絶対静止系が存在し、光速が見かけ上変化する」という前提の下で、 マイケルソン・モーレーの実験をどう解釈するか

のはずで、「相対論ではどうなるか」は関係ないのです。なのに、 「アインシュタインは二つの仮定によって...」という記述が入るのはどういうわけでしょう。

 アインシュタインが相対論を発表したのは1905年、 マイケルソン等がこの実験を行ったのは1887年で、この時アインシュタインは8歳です。 「光速度不変の原理」も「特殊相対性原理」も影も形もありません。 窪田氏が相対論以前の考え方と相対論以降の考え方をごっちゃにしているのが分かるでしょう。

 この事実だけでも窪田氏が全く相対論を理解していないことを疑問の余地なく証明しています。

 その結果、たとえば同書 p.120 でもこんな記述があります。

 『科学朝日』1995年4月号でも、松田卓也教授は「絶対空間(絶対静止系)」 という言葉を使っています。相対性理論の基本思想には相反する言葉なのです。 数学を使う前に論理的な過ちはないか、よく考えるべきです。そういう考慮なく、 いきなり数学を使い始めると、 論理的なミスがミスでないような錯覚に陥ってしまうのです。

 確かに松田教授は、この記事の中で何度か、「絶対静止系」という言葉を使っています。 でもそれは、全て上の表に挙げたように「相対論以前の立場」に立って、 「絶対静止系があるとしたら」どうなるか、という文脈の中で使われているのであって、 実際に絶対静止系がある、などとは一言も言ってません

 絶対静止系があるという仮定のもとで、 マイケルソン・モーレーの実験をどう考えるのが正しいか、を論じているわけです。 そして、

「絶対静止系があるとすると、マイケルソン・モーレーの実験の結果と矛盾する」

「だから絶対静止系はない」

といっているのです。これは数学でいう帰謬法(背理法)と似た考え方です。 たとえば素数が無限にあることを証明するのに、「もし有限個しかなかったら」と仮定して、 その仮定の結果として矛盾が起こることを示すわけです。

 もしこの証明に対して

素数は無限個あるといっておきながら、「有限個しかなかったら」 などという仮定を持ち出すのはおかしい

などと言い出す人がいたら、 どうでしょう。まあ、笑われても文句は言えませんね。窪田氏の言っていることはまさにそれです。

 でもこんな事を窪田氏に言ってもおそらくは無駄でしょう。そしてこのページを読んだ窪田氏は、 「この人もやはり『絶対静止系』などと言っている。 どうして『相対論信者』はそろいもそろってこう矛盾したことばかりいうのか」 などというに違いないのです。

 「アインシュタイン 崩壊する相対性理論」の図13の解説に戻りましょう。 窪田氏は

「絶対静止系(=紙面系)で C' に到達する光は、実験室系(=架台系)で C に到達する光とは違う。」

といいます。その根拠が、図13です。図13でCにたどり着く光と、C' にたどり着く光は違います。 なぜなら、C にたどりつくまでの時間を t とすると、AC = ct となり、 AC'>AC ですから、その時間 t では C' に光はたどり着けないからです。 この部分だけを見れば、特に間違っていません。でも、図13の C は、A で光を発した瞬間の、 鏡 C の絶対静止系での位置です。光が時間 t かけて C の位置に進む間に、vt だけ進んで、 D の位置に来ています。つまり、C に向かった光は鏡にはあたりません (もちろん鏡が大きければあたりますが、今は原理的な話をしています)。

 つまり、図13で C に向かった光は、窪田氏のいう「実験室系で C に到達する光」ではないのです。 実験室系で C に到達する光は図13では、つまり絶対静止系では C' に到達した光です。 C' は鏡 C に光が到達した時点での鏡 C の絶対静止系での位置ですから、当然です。

 「光が C に到達するまでの時間と C' に到達するまでの時間は違う」

まったくそのとおりです。だからどうしたというんでしょう? 私たちが求めているのは、 A で発射した光が、C' に到達するまでの時間です。C に向かった光なんて、 何の関係もありません

 超科学者にありがちな間違いとして、

関係ない値を計算して、何かを証明した気になる

というのがあります。この窪田氏の主張は、まさにこの典型といえましょう。

目次ヘ #5. 窪田氏の主張その1
#7. 窪田氏の主張その3