光行差はエーテル引き摺りを否定するか

 マイケルソン・モーレーの実験をはじめとして、 地球上での光速が地球の運動の影響を受けないことを示した実験は多数あるわけですが、 それを説明する方法として、昔からいろいろな人が主張してきた説の一つが、
地球はエーテルを引き摺っている
というものです。

 ブラッドレーが発見した「光行差」という現象によってこの説は否定されている、というのが一般的な見解ですが、 この説を主張する人たちはその事を知らなかったり、あるいは

エーテルが引き摺られていても光行差は生じる
ことを何とか証明しようとするわけです。

 後藤教授も最近、光行差を説明する画期的な理論を思い付いたようです。しかし、 それは、遠方からの光の道筋を、見なくてもわかってしまう、という超能力を想定したものだったのです...

  1. エーテル引き摺り理論
  2. 光行差とは
  3. 後藤教授の奇妙な反論
  4. 超能力者を想定した理論
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1. エーテル引き摺り理論

 マイケルソン・モーレーの実験をはじめ、 地球の運動による見かけの光速の変化を測定しようとした実験はことごとく「そのような変化はない」 という結果に終わりました。当然、それを説明しようとする様々な理論が考え出されました。 その中でももっとも人気があった説が、
地球の近くでは、光速は「地球に対して c」なのではないか
つまり、地球の運動が光の伝わり方になにか影響を与えているのではないか、というものです。 地球ほどの大きさのものが 30km/s もの猛スピードで運動しているわけですから、 そういう影響があっても不思議なことではありません。

 その影響というのは、具体的に言えば、

光を伝えるエーテルが、地球の運動に引き摺られている。つまり、 地球の回りのエーテルは地球に対してほぼ静止している。
というものです。エーテルというのは、光の波を伝える媒質として考え出された仮想的な物質です。 そういう物が、宇宙を満たしていて、その振動が光である、とかつては真剣にそう考えられていました。 当然、そういう考え方にたつと、光の速さは「エーテルに対して c」です。ですから、 地球の回りのエーテルが地球と同じ運動をしていれば、光の速さは地球に対して c になります。

 地球のような大きな物が 30km/s もの高速で運動しているのに、 まわりのエーテルが全くその影響を受けないで静止している、という考えの方が不自然なので、 マイケルソン・モーレーの実験はこの理論で説明できる、と考える人が多かったのです。 マイケルソン自身がそう考えていたそうです。

 現代でも同じようなことを考えている人たちがいます。 例えば UFO 研究家として有名なコンノケンイチ氏も基本的に同じ考え方をしています。正確には、 地球がエーテルを引き摺っているのではなくて、エーテルの流れの中で地球が流されているのだ、 と考えているようですが、とにかく地球の近くのエーテルは地球に対して止まっている、 という点では同じと考えて良いでしょう。

 あるいは、「ガリレアン電気力学」というグループがアメリカにあるようなのですが、彼らは、 「地球の重力場が周囲の光の運動に影響を与えて、地球の回りの光速は地球に対して一定になっている」 と考えているようです。エーテル、という概念は使っていませんが、 やはり地球の周囲の光速が地球の運動の影響を受ける、という点で同じ考え方です。

 後藤教授も、

「地球は電離層などで外宇宙から電磁的に孤立しているから、 地球の周囲の光速は地球に対して一定なのではないか」
という、やはりエーテル引き摺り説と同等な説を「『相対論』はやはり間違っていた」の時点で既に主張していましたが、 最近では自分でも「エーテル引き摺り」という言い方をしているようです。

 このように、誰でも考えるし、説得力もある主張がなぜ今日では (物理の主流からは) 否定されてしまっているのか、 それはこの考えとどうしても相容れない現象、「光行差」があるからです。

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2. 光行差とは

図1 : 年周視差 (地球の位置により、星の見える方向が変わってくる)
図1:年周視差

 地球の周りをすべての天体が周っている、という「天動説」に対して、 コペルニクスが「地球が太陽の周りを回っている」という「地動説」を唱えたのは有名な話ですが、

もし地球が回っているのなら地球の位置の変化に応じて恒星の見かけの位置が変化するはずだ(左図1)
という反論に答えることはできませんでした。 恒星の実際の距離が当時考えられていたのより桁違いに遠かったからです。 現代ではこの位置の変化は (比較的近い恒星については) 観測されていて、年周視差と呼ばれています。

 1727年に、イギリスの天文学者ブラッドレーは恒星の見かけの方向が、地球の運動とともに約40" (" : 秒。この秒は角度の単位で、一度の3600分の1) だけ変化することを見出しました。 最初これこそが年周視差では、と思われたのですが、 そうではなくて、光行差という別の現象であることが分かりました。

図2 : 光行差 (地球の運動によって光が来る方向が変わって見える)
図2 : 光行差

 雨が真上から降っているとき、速く走ると雨が前から降ってくるように見える、 という経験は誰でもあるとおもいます。光についても同じ事が言え、それが光行差なのです。

 左図2での左側、太陽に対して静止している系で見たとき、図の上の方向に星がある、とします。 その星の光が上から垂直に速さ c でやってくるのに対して、地球が図の右側から速さ v で動きながらその光を受けます。

 これを地球に対して静止した系で考えると、光は少し斜め左からやってくるように見えます。 その角度θを計算すると、理論的に

tanθ= v/c
となります (相対論では sinθ = v/c となります。θが小さいとき、tanθ と sinθはほとんど変わりません)。 c = 30万 km/s、v = 30km/s としてθを計算すると、
θ = 約20"
が得られます。地球が反対方向に動いているとき (つまり、半年後) は逆方向に 20"ずれるので、 全体として 40" の変化が説明できるわけです。

 余談ですが、

「光行差は地球が 30km/s で運動していることを証明している。 つまり地球の絶対運動を示している。だから、(絶対運動を知ることはできないとする) 相対論は間違っている」
といったことをいう人がいます。 窪田氏がそうですし、「複素電磁場理論」の猪股修二氏も同じ事を言っています。 しかし、光行差は地球の絶対運動を示したりはしていません。光行差から地球の絶対運動を知るには、
絶対静止系 (そういうものがあるとして) ではその星はどの方向に見えるか
があらかじめわかっていないといけないわけです。 先ほどの図では、「太陽に対して静止した系」での見え方を示しましたが、 もちろんそれが絶対静止系だとは限りません。

 もし地球が、回転運動ではなくて、直線的に動いていたら、光行差は変化しないので、

今見えている星の方向は、光行差でずれているのだろうか、 それとももともとこの方向なのだろうか
は、わからないですね。光行差が変化するから、つまり、季節とともに 40" ずれるから「光行差がある」 事がわかるのです。つまり、光行差からわかるのは、
「今の地球は半年前の地球運動に対して 60km/s で動いている」
ということだけです。

 さて、先ほどの図2では、光は地球の運動の影響を受けずにまっすぐ地球上の観測者に届いている、 と考えるわけです。それを動いている観測者が受けると、見かけ上方向が変わって見える。では、 もしエーテルが地球に引き摺られていたら、光行差はどうなるでしょうか。

図3 : エーテルが引き摺られているときの光行差
図3 : エーテルの引き摺りと光行差

左図3のように、地球表面 (下の茶色の部分) の近くのエーテル (青い部分) が地球の運動に引き摺られているとします。 すると、星から真っ直ぐやってきた光は、引き摺られているエーテルの部分に入るときに (図の M)、引き摺りの方向に曲がるはずです。 どれくらい曲がるかというと、引き摺られたエーテルの速度が v だとすると、光の横方向の速さが v になるように曲がります。 (光が垂直にやってくる場合) これは直感的にもそうなりますし、理論的にも、光が波である、ということを仮定する限りそうなります。

 具体的には、フェルマーの原理

「光がある点に到達する経路は、その点に最小時間 (数学的に厳密に言うと、最小ではなくて極小) で到達できるような経路である」
という原理があって、それに基いて考えると、光が地表のある点 A にたどり着くには、その点に真っ直ぐ進むよりも、 図のように曲がった方が速い (エーテルがいわば追い風になるから) ため、曲がった経路を通る、 と言うことが示せるのです。

 ではフェルマーの原理は絶対なのか、というと、これ以上は詳しくは述べませんが、光が波である、 と考える限りこの原理を逃れることはできません。もちろん、光の伝播について、 非常に特殊な理論を立てれば何とかなるかもしれませんが、その場合光のほかの性質と両立させるのは、 非常に難しいでしょう。

 もちろん、図3 のように「エーテルの引き摺られる部分/引き摺られていない部分」 が明確な境界で分けられているわけではないでしょうが、どちらにしても、 光が地表近くにたどり着いたときには光の方向がエーテルの引き摺りの方向に曲げられていることに、 違いはありません。

 さて、このように地球に引き摺られたエーテルの部分で光の方向が変わるとすると、 光行差はどうなるでしょうか? 光は、横方向の速度が v になるように曲がっています。 その光を図の点 A で受ける観測者は、地表やエーテルとともに、速度 v で 動きながら光を見るわけです。 つまり、観測者にとっては光の横方向の速度 v と自分の運動する速度 v は相殺されて、 光はまっすぐ上からやってくるように見えるわけです。別の言い方をすると、 「引き摺られるエーテルによる曲がり」と「光行差」の効果が相殺することになります。

 つまり、全体としては「光行差は観測されない」はずで、この事は実際に光行差が観測できていることと矛盾しますね。

 そういうわけで、「エーテルの引き摺り理論」は物理の主流からは、全く姿を消してしまいました。

 では、現代の「エーテル引き摺り論者」はこの事をどう考えているかというと、


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3. 後藤教授の奇妙な反論

 前述の通り、光行差を素直に解釈する限り、エーテル引き摺り理論は否定されるわけですが、 当然引き摺り理論を唱えている人はそう簡単には引き下がりません。 大抵の場合、図3のように光が曲げられることを何とか否定しようとするのですが、 後藤教授はその事は否定しません。教授によれば、図3のように光が曲がっていても、 やはり光行差は観測されるのだそうです。

 後藤教授によると、図3のように観測者が点 A で光を受ける、と考えるのがおかしいのだそうです。 なぜかというと、星から光が発射された時点でその発射点の真下 (つまり、B の位置) にいた観測者は、 光が地表に届くときは A の位置ではなく、もっと左にいるはずだから、というのです。

 確かに、星からの光が地球に届くには、何十年、何百年とかかるわけですから、そのとおりですが、 どうして星から光が発射された時点で観測者が B にいなければならないのでしょう? 全然そんな必要はありません。

 一般的な「エーテルの引き摺りと光行差」の説明で、 「光の発射時点で観測者は B にいる」などと説明しているのを私は見たことがありません。 実のところ、「星から光が出た時点で観測者はどこにいたか」なんてどうでもいいことなのです。 まあ、誰も言っていないことに反論する、というのは超科学者に共通のパターンですから、 驚くほどのことではないですが。

図4 : エーテルが引き摺られているときの光行差 (後藤教授による修正版)
図4 : エーテルの引き摺りと光行差 (後藤教授による修正版)

 さて、ではどう考えるのが正しい、と後藤教授が考えているかというと、 左図4のように、光の発射された時点で観測者がいた位置 B は図3よりもずっと右側である、というわけです。 それは、確かにそのとおりです。しかし、エーテルに引き摺られて横方向に速度 v だけ曲がった光を、速度 v で動きながら見る、 ということが重要なのであって、光の発射された時点で観測者がどこにいたかなんて関係ないはずなのですが、 なぜ後藤教授はこんな事にこだわるのでしょうかね?

 ここで後藤教授は驚くべき事を言い出します。星からの光は、S を出発して、A に到達するのだから、 全体としては光は S→A の方向に進んでいる。それを B→A と運動してきた観測者が見るのだから、 観測者にとって光が進む方向は、(ベクトル SA) - (ベクトル BA) = (ベクトル SB)、つまり、S→B の 方向で、逆に言えば、観測者が見る光の方向は点線 BS の方向だ、というのです。

 なぜ後藤教授が「光が発射された時点での観測者の位置」にこだわったのか、これでようやく謎が解けます。 つまり、図3 での「光行差とエーテルの引き摺りについての一般的説明」を、 後藤教授は「星から光が出た時点で観測者は図3の B にいるから、つまり星の真下にいるから、 星から出た光が BS の方向、つまり真上からに見える」と解釈していたのです。 どうしてそんな珍妙な解釈をするにいたったのかは今一つよくわかりませんが。

 後藤教授の修正した図4に従うと、観測者が見る星の方向は、 B の位置からの星の方向、つまり、点線 BS の方向になるわけですが、 実際には星から地球までの距離 SM は図で見るよりずっと遠くて、 エーテルが引き摺られている領域を光が進む長さ (MA) など、ないに等しいと考えてかまいません。 つまり、BS の方向は、エーテルの引き摺りの影響をほとんど受けないということになり、

「エーテルが引き摺られていても、光行差は観測される」
事が証明できる、というのが教授の説です。
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4. 超能力者を想定した理論

 結局、後藤教授の説を整理すると、 ということになります。でも、観測者が見る光は、あくまでも M→A と進んできた光なんですよね。 全体としては S→A でも、A で光を受けた時点では M→A になっている。

 それ以前にどんなに長い時間、S→M と進んできたとしても、 それは地上の観測者にはわからないはずです。だって、光が S→M と進んでいるところを見ているわけじゃないんですから。 見なくてもわかるとしたら、それは一種の超能力でしょう。 つまり、後藤教授の説は、観測者として超能力者を想定した理論なんです。

 後藤教授なら、「いや、超能力などなくても、考えればわかる」といいそうですが、 「考えたらわかった」として、だからといって目で見た方向が変わるわけじゃないですよね。

 だって、鏡に映った物体の像を見て、

あれは鏡に光が反射して、方向が変わってできた像であって、 反射する前の光は別の方向に進んでいたはずだから...(中略)... だから本当の物体はこっちにある!
とわかったからといって、鏡に映った像が消えるわけではないでしょう?

 後藤教授が考え出すアイディアには馬鹿馬鹿しいものが多いけれども (時空距離不変の原理だの、 マックスウェル方程式のガリレイ不変の証明、だの)、今回の馬鹿馬鹿しさは極めつけでしたね。

 このアイディアを教授が披露するのは、「相対性理論の謎と疑問」P.166 で、 「A」という人との対談形式になっています。で、こんな馬鹿馬鹿しい説を聞かされた A 氏、 なんと

「これは意外です。後で自分でもじっくり検討します」
などと寝ぼけたことを言うのですよ。一体この人のモデルは誰なのだろう、とおもったら、 「A」という対談相手だけは全くモデルがいなくて、完全に架空の問答、 いわば自問自答だったというのです。やれやれ...(笑)
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