標高1850メートル谷川で入浴  服を脱ぎ捨て登山者飛び込む

中岳温泉は見晴らしがいい。岩の上に服を脱いで飛び込む=北海道東川町で

午前10時半、中岳温泉は白い湯気にけぶっていた。腐った卵のようなにおいが鼻を
つく。

北海道の最高峰、大雪山系旭岳(2290メートル)の五合目にあるロープウエー山
頂駅から歩いて約3時間。雪が消える6月から10月までしか立ち寄れない。

眼下には高山植物のお花畑が広がる。岩だらけの登山道のすぐ横。脱衣場もついたて
もない。谷川のわきの砂地を30センチほど掘り下げた「湯船」で、岐阜県各務原市
の高柳吉之さん(65)がくつろいでいた。

「定年になって暇だからあちこち行ってるけど、ここは最高だよ。女性がいたって全
然恥ずかしくないね」

5分後、急斜面の上からヒグマよけのカウベルの音が聞こえてきた。60歳代の男性
登山者だった。「こんにちは」。あいさつすると同時に服を脱ぎ捨て、湯に飛び込
む。靴を脱いで足を温めていた2人の中年女性は「いいなあ」とうらやましそうだ。

底からは53度の湯がわき出ている。谷川からの水量を変えることで湯温を調節す
る。標高1850メートル。快晴なのに気温は20度。涼しいから、つい長ぶろにな
る。

正午前になると、続々と登山者が到着した。十数人が湯船の縁に座って足をつける。
こうなったら、よほど勇気がなければ裸にはなれない。

北海道に散らばる500の温泉源を巡り、「無料100秘湯」という本を出版した旭
川市の病院職員表正彦さん(45)は「道内でもベスト3に入る秘湯」と評価する。

89年から毎年のように訪れている。高原を歩き、入浴して下界に戻ると、1週間は
さわやかな気分でいられる。

「地下のマグマからわき出てくる硫黄泉は活火山帯にしかない。大地のエネルギーを
感じさせてくれます。心身ともにリフレッシュできるし、健康人に最適の温泉療法で
すよ」

大雪山旭岳ビジターセンターの池永甦次所長(69)によると、80年ごろの中岳温
泉は、ヒグマのふんが転がる秘境だった。中高年登山や温泉ブームが始まったこの1
0年で訪れる登山者が急増したという。

心配なのは、Tシャツにジーパンといった軽装の観光客だ。

中岳温泉を訪ねたらしい男性の疲労凍死体が見つかったことがある。10年ほど前の
8月。Tシャツの上にカッパを羽織っただけで、リュックの中にはタオルしかなかっ
た。ハイマツの林をさまよい歩いたためか、カッパはズタズタに引き裂かれていた。

「山の天気は変わりやすい。ガスがかかり雨が降ったら夏でも凍死します。登山の装
備は不可欠です」

実は中岳温泉の約4キロ西南西に正真正銘の幻の温泉がある。「天女の湯」。ロープ
ウエーの中間駅から歩いて数分で、だれでも行けた。しかし、98年に駅が廃止さ
れ、今はたどり着くことさえできない。

人影が消えた森のなか、50度の湯がこんこんとわき出ているという。

ぜひ行ってみたい。「やぶが茂って踏み跡もない。地図やコンパスを頼りにしても無
理ですね」。池永さんの言葉に、幻の湯は逃げ水のように遠ざかった。

「幻」は人々の心を引きつける。遠く、はかない存在ゆえに、ありがたいのか。幻を
探しに真夏の列島を縦断した。(07/31 asahi.com)

ACHP編集部

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