5月13日 ◇天声人語◇

「雉(きじ)撃ち」と聞いて、にやりとするのは、山登りの経験のある人だろう。し
ゃがんで用を足す、つまり排せつ行為をさす隠語である。そのときの神妙な表情と格
好が、茂みから首だけ出してキジを狙う狩人に似ている、というのが語源らしい。

女性の場合、これを「お花摘み」と称したりする。やはり姿が似ているゆえだろう。
だが風流めかした表現とは裏腹に、日本の山はいま「雉撃ち」と「お花摘み」に悲鳴
を上げている。し尿をどう処理するか。日本アルプスや尾瀬など人気の高い山域で、
目下の大きな悩みになっている。

「オーバーユース」ということばを耳にする機会が増えた。過剰利用、とでも訳せば
いいのか。来訪者が多すぎて自然にさまざまな悪影響が生じている状態をさす。歩行
による植生の破壊や土壌浸食、ゴミ投棄など、挙げればきりはない。なかでも、し尿
問題はマナーの改善では解決しにくいため、登山者の原罪のように語られることが多
い。

山小屋のトイレを使っても、ことは同じだ。信濃毎日新聞の昨夏の調査によれば、北
アルプスのりょう線近くにある小屋の約9割が、し尿を付近に投棄していた。もはや
自然が分解できる限界を超え、自然に返ることなく、自然を損なっているという。ヘ
リで下ろす小屋もあるが、費用がかさむため広まりは期待できない。

詩人の江間章子さん(87)が『夏の思い出』を作詞したのは51年前のことだ。曲
はラジオで全国に広まり、尾瀬を一躍有名にした。いま、ミズバショウの季節には入
山者が1万人を超す日もある。湿原の木道はベルトコンベヤーさながらになる。

愛するがゆえに、自然を傷つけてしまう皮肉。江間さんに電話で聞いた。「『夏の思
い出』を書いてよかったのかどうか、複雑な気持ちでいっぱいです」。その憂いに、
山好きはどんな答えを用意すればいいのだろう。 (5月13日 朝日新聞 朝刊)

ACHP編集部

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