かんけ
菅家

   ●(八四五〜九〇三)
    宇多の帝の信任あつく、遣唐使の廃止を提案したり、 醍醐天皇の御代には正二位・右大臣を
    務めましたが、左大臣藤原時平の讒言によって太宰府に左遷させられてしまい、
    失意のうちに生涯を閉じました。その後都では雷の災害が続き、
    多くの人々が亡くなったので、道真の祟りだと恐れられました。
    醍醐天皇は位を戻し、太政大臣を追号し、京都の北野に天満天神として祭られました。

    この和歌は宇多上皇が昌泰元年(八九八)十月に奈良地方を、百人近い従者を従えて
    十二日間の御幸をなされたときに、お供をした菅家が詠んだ歌です。
    この和歌の背景については、御幸に同行した紀長谷雄(きのはせお)の『競狩記』という
    漢文に菅家の詠んだ漢詩も含まれて詳しく書かれています。

   ●『古今集』羇旅・四二〇に収められています。






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