ふじわらのさねかたあそん
藤原実方朝臣

   ●(生年不詳〜九九八年)
    正四位上左近衛中将。左大臣師尹(もろだた)の孫、侍従貞時(定時)の息子でしたが、
    叔父済時の養子となりました。円融院・花山院の寵を受け宮廷では華やいだ存在でした。
    侍従、右兵衛権佐(うひょうごんのすけ)などを経て、従四位左近衛中将となりましたが
    正暦六年(九九五)正月勅勘により兼陸奥守に貶され、九月下向して任地で没しました。

    勅勘(ちょっかん):天皇が直接下すおとがめ

   ●何故、勅勘により兼陸奥守に貶されたのか?
     ある年の春、殿上人が集まり東山の花を見に行ったときに俄雨が降りだして、参加している
    殿上人達が立ち騒ぐ中で、実方は一人桜の木の下に佇んで「桜狩 雨はふりきぬ おなじくば
    濡るとも花の かげに宿らむ」と云う歌を詠みながら全身雨に濡れて、装束の袖を絞らなければ
    ならないほどに濡れていても平気な顔でいました。この時の彼の風流な振る舞いを公達たちは
    「風情がある」と感じて帰路につきました。後日、ときの大納言斎信がこの話を帝に上奏すると、
    丁度そこに藤原行成がいて、「歌は素晴らしいのですが、実方の振る舞いは少しおこがましく
    思われます」と嘲るように云ったそうです。
     行成の言葉を噂で聞いた実方は、それ以来行成を恨んでいたが、ある時宮中で行成と論争を
    したとき、日頃の鬱憤があったのでしょう、行成の冠を笏で打ち落として庭に投げ入れました。
    しかし行成は少しも騒がずに殿守司(とのもりつかさ)を呼んで、冠を取らせ、守り刀を出して
    乱れてしまった髪を整えてから静かに実方の方を向いて、何故こんなことをしたのか尋ねたので
    実方はその場にいられず退出しました。
     帝はその一部始終を扉(半蔀:はじとみ)の間から御覧になられていて、行成の振る舞いを
    たいへん褒められて、蔵人に大抜擢しました。それに対して実方の振る舞いを不快に思われて
    おとがめを下し、従五位上まで位を落とされ陸奥国に左遷させられてしまいました。
        



   ●この和歌は『後拾遺集』恋一・六一二に収められています。






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