●(生没年不詳)
平兼盛の妻だった人の娘ですが、離婚後に生まれたので、父親は赤染時用という説があります。
始めは大江為基と親しかったのですが、後に大江匡衡(まさひら)に嫁いで、挙周(たかちか)を
産みました。良妻賢母の誉れ高く、結婚前には藤原道長の妻、倫子に仕え、中宮彰子の局にも
出入りしていました。三十六歌仙の一人です。
寛弘九年(一〇一二)夫没後は尼となりました。
『栄華物語』本編の作者として有名ですが、この物語は堀河天皇の寛治六年(一〇九二)に
終わっているので、後の部分は他の人が書き足したと推定されます。
●人物評
『紫式部日記』のなかに、「匡衡衛門」としてでてくるのは、赤染衛門という説があります。
「丹波の守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とそいひ侍る。ことにやむごとなき
ほどならねど、まことにゆえゆえしく、歌よみとて、よろづのことにつけてよみちらさねど、
聞こえたるかぎりは、はかなきをりづしのことも、それこそ恥づかしき口つきに侍れ。」
●作品評
この『捨穂抄』には「あらはにその人を待つとはいはで、月など見てやすらひいたるさま
哀れに聞ゆ」と批評が書いてあります。『後拾遺集』には「中関白少将に侍ける時はらからなる人に
物いひわたり待けり。たのめてこざりけるつとめて、女にかはりてよめる」と詞書があります。
中の関白道隆がまだ蔵人の少将であったときに、赤染衛門の姉妹のもとに通っていました。ある夜、
約束したのに来なかったので、その姉妹に代わって詠んだ歌です。
●この和歌は『後拾遺集』恋二・六八〇に収められています。
いは、ワ行の「イ音」なのですが、PCで表記できないので、
ア行の「い」で表記しました。
えは、ワ行の「エ音」なのですが、PCで表記できないので、
ア行の「え」で表記しました。