ありはらのあそんなりひら
在原朝臣業平
  ●天長二年(825)〜元慶四年(880)五月二八日没、五六歳
   平城天皇の第三皇子阿保(あぼ)親王の第五子として生まれました。
   母親は桓武天皇皇女の伊登(伊都)内親王です。紀有常の娘を妻としました。
   子供の棟梁・滋春、孫の元方も勅撰集歌人です。
   在原行平の異母弟で六歌仙、三六歌仙の一人として数えられます。
   右馬頭・右近衛中将従四位で、在五中将とも呼ばれています。

   『三代実録』の卒伝に、「業平体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」
   とあるように自由奔放な性格のようでした。
   『伊勢物語』(在五中将物語ともいう)のモデルとして有名です。
   伊勢斎宮(文徳天皇皇女恬子内親王?)との恋愛と東下りの話や
   二条后藤原高子に送った恋歌が『古今集』には多く収められています。

   この和歌は詞書に「二条の后の東宮のみやす所と申しつける時に、
   御屏風に龍田川にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にしてよめる」
   二条天皇の后・東宮の御安所の邸の屏風を見て詠んだものとされます。
   かつて無理矢理、仲を引き裂かれた二条后藤原高子への想いを
   もし屏風にかこつけて詠んだと仮定したなら、劇的な歌かもしれませんね。
   この和歌は『古今集』秋下・二九四に収められています。


  ●在原業平経歴
   天長二年(八二五)平城天皇の第三皇子阿保(あぼ)親王の第五子として誕生。
   天長三年(八二六)兄行平らとともに臣籍に降下し、在原姓を賜る。
   承和八年(八四一)任左近将監、同一四年に蔵人に補される。
   貞観七年(八六五)には右馬頭に転じました。
   同一五年(八七三)従四位下、
   元慶元年(八七七)従四位上右近権中将に昇叙、
   同二年 (八七八)相模権守を兼任、のち美濃権守に遷任する。
   元慶三年(八七九)一○月に蔵人頭に任ぜられた。(二条后高子推挙)
   元慶四年(八八〇)従四位上行右近衛権中将兼美濃権守をもって卒







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