左大臣(さだいじん)





大化改新時に置かれた臣下の最高位の官。
それまでの大臣(おおおみ)が権限を独占しすぎてしまい強力になっていたので、改新時にそれを左大臣と右大臣に分け、左大臣を右大臣の上位とした。
改新の時には安倍内麻呂(あべのうちまろ)が左大臣となった(孝徳即位前紀)。
内麻呂の没後、巨勢徳太古(巨勢徳太:コセノトクタともいう)が左大臣となった。
天智末年には蘇我赤兄(あかえ)が左大臣になるが、壬申の乱後、長く左大臣がおかれず、多治比嶋(たじひのしま)は右大臣の地位に長くおかれています。



右大臣(うだいじん)





大臣(おおおみ)を分けたものに始まります。
左大臣の下に位置します。

大化改新時に安倍内麻呂が左大臣に、蘇我石川麻呂が右大臣になったのがはじまりです(孝徳即位前紀)。
その後大伴長徳(ながとこ)が右大臣に任命されていますが、斎明朝もしくは天智朝初年には一時、左右大臣が一旦廃止されて蘇我連が一人で大臣の地位についていました。
そして天智末年に大友皇子を太政大臣としてその下に左右大臣を置いて以来、制度上、左右大臣は存続しています。



太政大臣(だじょうだいじん)





左大臣・右大臣の上に臨時に例外的に置かれた官。

平安時代の太政大臣は摂政、関白の下で、たんに左大臣の上の序列をもつだけの平凡な官になっています。
しかし、天智末年に天皇が大友皇子を太政大臣に任命したことは、大友皇子を天皇の後継者とすることを意味しました。

また持統四年に高市皇子(たけちの)が太政大臣に任命された(持統紀四年七月庚辰条)ことは、持統天皇が皇族中の最有力者の皇子と共同で政治に当たると宣言したことを意味しています。


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