マレーシアの居住者として、同時に定点観測者”として過ごした四半世紀


ある国、または複数の国々からなるまとまった地域(例えば北欧のように複数国家から成る地域)を観察、研究、論ずる手法として、次の3つの手法があると思う。
A. 対象とする国、地域に何年も滞在するあり方、 B. 対象とする国、地域を時々またはしばしば訪れるあり方、 C. もっぱら日本にいながら対象とする国、地域について多くの情報を収集して読み解くあり方。

もちろん、しばしば訪れるあり方であっても当然日本に居る時は情報を収集して知識を増やすのであるが、上記はある程度単純化したモデルです。

Intraasia は若い時から世界のいろんな国々や地域に、大なり小なりの興味を持ってきた。決して東南アジア一辺倒ではない。 C.の手法をやったのはごく少ない。なぜなら興味が湧けば、是非訪れようとするのが Intraasia のあり方だからです。
A.の対象がまさにマレーシアである。そのマレーシアをベースにして東南アジアを広く対象にしてBの手法を行ってきた。

なお Intraasia は、A. 対象とする国、地域に何年も居住するあり方を”定点観測”と呼んでいます。そしてこの定点観測にこだわってマレーシアとつきあってきました。

【唯一の我が住処 クアラルンプール】

Intraasia は四半世紀に渡ってクアラルンプールを唯一の住処にしてきた。唯一のという形容を使うのは、早くいえば Intraasia は20代の昔から帰るべき処はとりたてて持っていないからです。だから四半世紀の間に何回も日本へ行きましたが、それは意識の中ではあくまでも訪問でした。

以前ごく手短に触れたことがあるように、マレーシアに住処を定めたのは1990年の秋です。住処といっても一貫して賃貸アパートであり、これは日本でも同じで、自家を持ったことはない。

企業の被雇用者というような安定した収入源を持たない故に、浮き沈みのある暮らしを続ける中で年を重ね、いつしか26年目に入りました。ホームページを開設してネット上で情報や解説を発信し始めたのが1996年秋からですから、こちらは20年目ということです。

近年は持病が発症し、それが次第に増えてしまい、さらに時に悪化する事態に見舞われて、この数年は体調に不安定な状態が続いております。

Intraasia は定点観測者としての自負を持ち、マレーシア及び東南アジア諸国に打ち込んできた中で、これまでにも大きなピンチに数回見舞われましたが、なんとか切り抜けることができた。 しかし今回は経済面、体調面の両方でもはや続行は難しくなりました。どうやら潮時だということでしょうが、こう結論つけるまでに何か月間も自分の中で葛藤しました。

マレーシア居住 26周年、マレーシア情報発信 20周年を前にして、マレーシアを永久に離れます。そこで、マレーシアから発信する日が残りわずかとなったのを期して、Intraasia の背景に少しばかり触れたこの一文を、3回に分けて別ページ立てで掲載しておきます。

ところで Intraasia のような外国人居住者を”定住外国人”という学術的呼び方があることを最近知りました。これは、ある国において長期間に渡る居住者でありながら、永住者の地位を得た訳でもない、国籍を取得して帰化した移民でもない、という分類になるようです。確かに、”定住外国人”というのはふさわしい表現に思えます。

なお自称として”在住者”という表現は用いません、なぜなら、日本人コミュニティとはつながりのないいわば隠れた在住者であった年月がほとんどだからです。

2回目掲載分

【マレーシアの素晴らしい発展は国民と外国人労働者が造った】

1990年代初期のマレーシアと2016年のマレーシアを比べれば、その発展ぶりは掛け値なしにすごいと言える。26年前クアラルンプールの街には一本の電車路線もなく、悪名高いミニバスが我がもの顔に走り回っていた。ツインタワーもKLIA・KLIA2 空港も PutraJayaも存在していなかった。

2016年の現在LRT電車路線がますます広がり、2017年には MRTが運行を始める。現代的な両空港(KLIA・KLIA2)には当時と比べてはるかに多国籍の航空機がめまぐるしく飛来している。マレー鉄道は西海岸線が8割ほど複線電化され、国民の列車旅の仕方が変わった。クアラルンプール圏の至る所に高層ビルと高級なコンドミニアムが目に入る。

マレーシア国民は確実に豊かになった、とはいえジニ係数の高さから貧富の差は縮まっていない。少数の置いてきぼりにされた者たちは別にして、ほとんどの国民はこの四半世紀の間にマレーシアが優等生並みに発展したことは認める。その一端を、否、かなりの貢献を外国人労働者が果たしたとも言えるはずだ。 

イントラアジア は長年外国人労働者問題を注視してきた。居住を定めたのはクアラルンプールのほぼ中心部に位置する古い華人地区であったが、たまたま外国人労働者と国連難民が多く集まる地区でもあった故に、Intraasia の書くものには外国人労働者と難民のことがよく題材になってきました。

【たまたま住むことになったマレーシアに大いに興味を持った】

そもそもIntraasia の生き方自体に移民的な心的基層が流れている。基本的に日本という国にこだわらない生き方を心中標榜してきた。1980年代末期、それまで打ち込んだ経験を基に中欧への移住を目指し、成功しかけた。ある事情から最後の段階で取りやめ、一度日本へ戻った。その半年後マレーシアにやって来たという経緯がある。

1980年代半ばから後期にかけて東南アジアの2か国、インドネシアとタイに足を踏み入れたことからこの両国に興味を抱いた。 その後1990年秋に居住の地がマレーシアになったのはたまたまの結果である。 発端が偶然であったが、その後マレーシアの国情と人々に魅せられながら、四半世紀を過ごすことになったわけです。

Intraasia はマレーシアには大いに魅せられたし、自分の中で最もこだわる国になったのですが、大好きでたまらない、帰化したいというような発想には至りません。 そもそも Intraasia は非ナショナリズムを信奉し、実践しようとしてきたので、国家という存在は日本を含めどの国であれ、常に”我が外なる存在”です。

【定点観測者としてのこだわりと自負を持って書き続けてきた】

四半世紀はやはり長い、自分が関わった、過ごしたどの国よりも年月的に長い。生まれてから成人するまでの20年間を除くなら、日本での生活よりも長いことになる。

”居住者”としての四半世紀は、マレーシア社会に暮らし、マレーシア社会を内から眺めるということにこだわった。これが定点観測者というあり方の基盤になっている。こういったことは Intraasia が過去に住んだ国でも同じあり方を試みたのですが、滞在年月の短かさからそれを徹底させることはかなわなかった。

Intraasia はこの四半世紀をあくまでもマレーシア社会で暮らしてきたのであり、マレーシアの外国人コミュニティーに暮らしたのではありません。これを貫徹するための方法として、まずマレーシア語の学習と、クアラルンプール華人界の共通語的な広東語の取得に励んだ(後年華語新聞を読むために華語も加えた)。つまり英語を含めて、マレーシア華人に一般的な3言語話者としての行動と振る舞いはほぼできるようになったことが、Intraasia のマレーシア生活と観察に大きく貢献しました。

Intraasia は20代の頃に地域研究の研究者に憧れたが、その道を目指す機会も術もなかった。そのためアカデミックな知識と態度に欠ける面はあろうが、また違ったアプローチによる地域観察はできるはずだと、それを心がけてきました。
ある国や地域を知り、論じるために、方法論は重要である。その方法論として、内で暮らし内から眺めるという方法にこだわった。

3回目掲載分

【今週のマレーシアと新聞の記事から、の2つに情熱と力を注いだ】

この20年弱の間にネット上で、一部は活字でも、発表してきた、マレーシアに関する情報、解説、論評、ニュース翻訳は1千万字を超える。加えて東南アジア諸国のことも数十万字の文量で書いた。この文量をもって、Intraasia のマレーシア論をまがりなりにも確立させることを目標として、書き続けてきたのです。

1998年頃から2009年まで約10年間に渡って、クアラルンプールの自宅を留守にしない限り1週の休みもなく書き続けた、コラム 『今週のマレーシア』 がIntraasia の代表作です。
次いで、1998年に開始して以来現在に至るまで掲載し続けてきた 『マレーシアの新聞の記事から』 です。とりわけ『今週のマレーシア』を書かなくなった2000年代終わり頃からは『新聞の記事から』が最も力を注ぐ発信作品になりました。

マレーシアそのものが日本人の間で大きな関心を引く国でも日常的に取り上げられる国でもない中、Intraasia は面白さや人の話題になりやすいことを重視しない筆風ですから、マスの分野に登場することはなかったが、熱心に何年間もつきあってくださった人たちもいました。この場で感謝をお伝えしておきます。

【今後のこと】

今後はどうするか。 経済面及び体調面でかなり制約がある中、それに適応した活動を続けていきたいものです。

まず自身の拠り所としてきた定点観測者をもう続けられない以上『新聞の記事から』は終了します(ブログ版がネットから消えるわけではない)。
1996年10月に立ち上げたホームページはもう更新はしませんが、『今週のマレーシア』と『新聞の記事から』を全て掲載していること、及びこれまでの旅行情報の多くを残しているため、少なくともあと5年はネット上で公開を続けていきます。
『 日本人のための AirAsia ブログ』は定点観測者でなくてもできますから、随時更新していきます。『喫茶ツイッター』は閉店しません(笑)。

20代初め頃の昔からイントラアジア (Intraasia)の旅は余裕のある、楽な旅ではありません。鞄一つだけを持ち、ある程度の危険を覚悟で西へ東へ南へ北へと訪れ、熱心に歩き回った。そういうハードなスタイルの旅はもう無理です。いくつもの持病を抱えていると,いつ突然不調が襲うかわからないからです。去年、今年とこの突然不調に大いに悩まされたことが、今回の我が決断に至りました。

しかし行動できないほど我が身体が衰えたわけではないので、体調と相談しながら、経済的制約から頻度をぐっと少なくして、なんとか行動を続けていきたい。かつて1970年代、1980年代、1990年代に訪れた様々な地を再訪して、数十年後の変化を見てみたい、各国の旧友を訪ねたい、と願っています。思い出に浸らず、新たな目標を持ちたい。

そんな希望がもし適ったら、またネット上で発表するかもしれません。書くことはIntraasia の身体の一部みたいなものですから。

5年、10年とIntraasia の読者でいらっしゃった方は言うまでもなく、つい最近Intraasia の読者になられた方まで、読み手があることが書き手としての喜びであり、原動力であることをお伝えしておきます。
まさか90年代から読者である方はもういらっしゃらないでしょうが、そういう方たちのおかげでその後現在に至るまで書き続けられた面が多々あります。大いに感謝しております。

2016年7月末
イントラアジア (Intraasia)