「今週のマレーシア」 2008年5月から8月のトピックス


・ 40年近い昔 5月13日事件という重要なできごとがあった
・ 2008年 タイ深南部の現状はどうなっているか、現地訪問をルポする −前編  ・その後編
・ Intraasia の雑文集 −2008年前半分  ・パハン州−スランゴール州水資源移送プロジェクトには多いに日本が関わっている
・ マレーシアの国家歳入はかくも石油とガスに依存している  ・続・マレーシアの新聞事情を数字から詳しく見てみる
・ 公務員への応募事情と状況   ・マレーシアの地名と道路名を複数言語で表示する、及び面白い村名



40年近い昔 5月13日事件という重要なできごとがあった


世界各国・地域に普遍的ともいえる民族衝突・虐殺の歴史

世界のほとんどといえるくらい多くの国や地方で過去、民族衝突、民族暴動、民族虐待・虐殺が起こりそれが記録されまたは後年掘り起こされて来ました。過去だけではなくそれは現在も続いており、そして今後も発生することは極めて確実であると言えるでしょう。 民族衝突、民族暴動、民族虐待・虐殺は大国であるとか小国であるといった国の規模とは関係なく、同時に大民族であろうと極小民族であろうと、加害者になり時に被害者になってきたことも歴史が示す事実です。

北アメリカ大陸先住民族(インディアン)を虐殺・抑圧した北米大陸の白人植民者、ユダヤ人を虐殺したナチスドイツ、中国人と朝鮮人を抑圧・虐殺した旧日本軍部と日本殖民政府、70年代後半カンボジアで民族虐殺を行ったクメールルージュ(ポルポト派)を唯一支え、現代ではチベット民を抑圧している中国、パレスチナを占領し民衆を抑圧している(かつては虐殺された歴史を持つユダヤ人の)イスラエル、1960年代インドネシア共産党員ら百万人前後を虐殺したと言われるインドネシア軍部とスハルト政権などなど、あえてアフリカ、南米などでのできごとを加えなくてもこの種の例は枚挙に尽きません。

マレー半島でも起こったが、世界的に見れば小規模であった

そこでマレーシア、とりわけマレー半島ではこういった民族衝突、民族暴動、民族虐待・虐殺は歴史上あったのでしょうか? ごく小規模な民族間衝突はあったでしょうが、世界史に残るような大規模なできごとは起こっていないというのが通説ですね。あえて言えば、唯一それに近いともいえるのが現代史の中で起きた、マラヤ連邦が独立してその後マレーシアが成立してまだ年数の経っていない、揺籃期ともいえる1969年5月の民族暴動・虐殺です。

69年5月13日事件と呼ばれるこの民族暴動と虐殺は、同時代の世界に大きな影響を与えたといえるほど大規模であったわけではなく、且つ大国または近隣諸国の直接関与も受けずに表面上は鎮圧されたことから、世界的観点からはあくまでも当時のマレー半島部における比較的小さな民族衝突として捉えられているように思われます。 これは私だけの捉え方でなく、東南アジア史に興味や知識を持つ多くの人に共通の捉え方ではないでしょうか?

しかし規模が小さかろうと、当のマレー人、華人、インド人にとっては何十年にも渡って語り継がれる大事件であり、マレーシアという国家にとってもこれまでのマレーシア史最大の負の歴史となっているのも事実です。

残念ながら当時このニュースを読んだ記憶がありません

余談ですが、69年当時高校生であった私は、マレーシア5月13日事件を新聞雑誌などで読んだ記憶が全くありません。その前年の世界的大事件である、68年春のソ連軍によるチェコ侵入と占領(いわゆるプラハの春の終焉)、68年5月のパリ5月革命に関しては鮮明に記憶しています。もちろん私がそういった方面のことに興味あったからです(それが後年の70年代後半から80年代前半にかけて私が中東欧に没頭した先駆けともなりました)。当時すでに新聞好きであり、朝日ジャーナルなど硬派の出版物もよく読んでいた私ですが、マレーシア5月13日事件に関しては全く覚えてないのはどうしてか? 推測していえば、当時の私にはベトナム以外の東南アジアはほとんど興味がなかった、ベトナム戦争に多くの耳目が集まっていた当時のマスコミの扱いがベトナムを除いて東南アジアの比重が小さかった、といえるかもしれません。

マレー人暴徒による華人虐殺は偶然発生したわけではない

マレーシアの5月13日事件は、その一般呼称と違って、13日の1日だけの民族衝突・暴動ではなく、数日間続きました。この事件はその後のマレーシア政治、社会、民族関係、国民意識に非常に大きな影響を与えることになります。当時の Abdul Rahman 首相が辞職し、副首相のAbdul Razak が2代目首相の座に着き、現在までマレーシアという国の骨格と成っている”新経済政策”を打ち出しました。いわゆるブミプトラ政策です。

一部のマレー人による非マレー人、とりわけ主対象の華人に対する襲撃と虐殺が起こったのがこの5月13日事件です。衝突と暴動に至る伏線は当然その日のずっと前からあったと研究者や関係者は書いています、例えば、1945年の衝突、1964年に起きたごく小規模なマレー人と華人の衝突、マレーシアから追い出されるかのような形で1965年にシンガポールが分離独立したことなどです。直接のきっかけになったのは、5月10日に行われた総選挙の結果、与党連合(マレー人党のUMNO党を核として、華人党のMCA とインド人党のMICから構成)が政権を維持したものの3分の2多数を割り、ペナン州とクランタン州の州政権を失ったことでした。華人を中心とする野党陣営(Gerakan党とDAP党)がクアラルンプールのマレー人地区で選挙勝利行動を行ったことで、それが一部のマレー人が日頃持つ反感の引き金となって暴動・衝突が発生したとのことです。もちろんその裏には一部の極端主義者の扇動といった要因があるようです(というか、これが主要因だという見方もあるそうです)。

13日に発生した暴動と衝突のために、Abdul Rahman 首相はクアラルンプールとスランゴール州に外出禁止令を発しました。翌14日も暴動と襲撃が止まないので、非常事態宣言が発せられました。数日間で殺された犠牲者数(ほとんどは華人だそうです)は公式に約200人ですが、非公式には1000人近くになるようで、店舗や家や施設が破壊された物的被害もかなりでました。 16日には、国会が停止され、国王によってRazak 副首相が国家管理委員会の長に任命されました。この国家管理委員会はその後しばらく活動を続け、1971年2月に解散しました、そして同時に国会が再開されました。この月 ”新経済政策”が発表されました。

注:この5月13日事件に関する詳しいできごとと分析について私は知りませんので、ここではこれ以上書けません。興味ある方はマレーシアで発売されているいくつもの研究書や専門書を参考にしてください。


5月13日事件はその後のマレーシア政界と社会に多大の影響を与えた

この5月13日事件以後、マレーシアの民族間政治勢力地図が変化し、マレー政党、具体的にはUMNO がより主導権を握るようになりました。そして”新経済政策”を推し進めてきたわけです。”新経済政策” の根幹の一つがブミプトラ優遇政策であり、それを支える論理がマレー人統治権ということだと、私は理解しています。マレー人統治権(Ketuanan Melayu )といってもマレー人が民族的に優れているからということではなく、マレーシア、とりわけマレー半島の本来の民として、19世から20世紀前半にかけて移住してきた華人やインド人よりも優越性を持つということです。

5月13日事件はその後の民族感情にも大きな影響を与えることになりました。華人でこのできごとを研究する学者は主張する、「5月13日事件はマレーシアの歴史の一面です。そしてもし支配民族の優越性が脅かされることになったらどういうことになるかを示すために、民族感情の切り札を振かざす政治家らによっていつも持ち出されている。我々は、事実を明らかにし和解する過程が必要なのです。」 というように、5月13日事件の事実がまだまだ隠されていることを指摘する研究者もいます。現にこの事件を公明堂々と論議することは、禁止ではないものの、行われていません。

マレー民族主義を体現しているのはUMNOだけではない

マレーシア国の政治の主導権を握るのは、独立以来政権の中枢として首相を輩出してきたマレー人政党の UMNO です。そのUMNOの基本思想に流れるのは依然としてマレー民族主義であり、その具体的政策としてブミプトラ政策です。ブミプトラ政策がマレー人の社会的及び経済的地位を向上させるために、マレー民族を優遇し、その民族としての特権を多少なりとも認めているのは、独立前からのマレー人運動家や政治家の中に流れていたものであり、なにもUMNOだけの専売特権・思想ではありません。 非UMNOである、マレー人青年運動などマレー人団体も極めてマレー民族の特別の地位を掲げたマレー民族主義を前面に出していますし、イスラム教政党を掲げるPAS党にも当然マレー民族主義が底に流れています。

この意味から、マレー民族主義を政治の基本に掲げて政策として実施してきたのがUMNO と言ってもいいでしょう。サバ州とサラワク州の先住民族もブミプトラですから、当然ブミプトラ政策において優遇民族に含まれます。しかしながら、UMNOのマレーシア政治が半島部中心である以上、ブミプトラ政策の多くの面がマレー人の優遇、特権温存といった面として捉えられがちになるのは、否定できない事実といえます。

5月13日事件は、そのマレー民族主義の負の面が暴動虐殺となって現れたと言ってもそれほど間違いではないでしょう。これは世界の多くの国で、いわゆる民族主義が極端主義や排他主義や自民族美化主義を招いてまたは時にはそれらの主義に乗っ取られてしまい、他民族への迫害と虐殺を生んできた、世界史においてごく数多く起こってきた現象に通じると捉えることができます。よって一部マレー人による華人を対象とした虐殺事件は、世界史という大きな流れの中で眺めれば、決して例外的事件ではありませんでした。もちろんだからといってこの民族暴動と虐殺の事実を隠蔽したり、美化することの愚かさは言うまでもないことです。要は二度と繰り返さない、発生させないような国づくりをしていかなければならない、ということをマレーシア国民に提示しています。

マレー民族主義を体現する人たちは今尚マレー人統治権を主張する

3月の総選挙後、国内の政治地図が大きく塗り変わったことで、これまであまり報道されなかったり、顕在化しなかったことが表面に出てきています。その一つが、いわゆる伝統的マレー民族主義者の活動と発言です。ニュースになったその発言を見ると、彼らはある種の危機感を抱いているかのようです。マレー民族主義といっても、当然一様ではありませんから、こういった人たちだけの発言と行動が全てという捉え方はすべきではありません。 一体何を彼らは訴えているか、次に最近のニュース記事の抜粋を掲げておきます(5月始め頃の新聞から)。

マレー人統治権(Ketuanan Melayu )に関して

歴史的にマレー人が自信に満ちていればいるほど、マレー人はより寛大であった。しかし3月の総選挙の結果、マレー人はその地位が脅かされていると感じている。そこでマレー人は他の国民である華人とインド人に譲歩する気分ではなくなっています。そこでマレー人の団結とナショナリズムの話題がこの2ヶ月ますます沸き起こっています、その典型が最近ジョーホールバルで開催された、マレー民族団結に関する大会です。全国の 180のマレー系非政府組織から代議員2000人が集まりました。そしてマレー人権益を守るためにロビーグループを構成する必要を議論しました。それはマレー政党がマレー人の課題を唯一守っていけないことからです。

この大会の共催者である、マレーシア人作家協会連合の議長は語る、「マレーシア人のマレーシア、多言語主義、多文化主義、複数宗教といったイデオロギーが顕著になっていることに、我々は反対します。我々の立場は、マレーシアの存在はマレー人支配権・統治権(Kedaulatam Melayu) の原則に基づいているということです。」 「この大会の決議は非マレー人に反対を向けたものではありません」

一方、非マレー人と マレーシアマレーシア人を標榜する一部のマレー人にとって、こういった議論は性分に反したことです。彼らの論点をまとめれば:一方が他方より優越しているという定義を込めたマレー人優越性をその大会が主張するのに、どうして非マレー人に反対しないなんていえようか? マレー民族主義者はマレーシア華人とマレーシアインド人がマレー人の特権をもっと受け入れて示すようにと要求する。しかし華人とインド人はマレー人化したくない、マレーシア人化したいのです。

マレーシア憲法はマレー人の定義を掲げています:ムスリムであるマレーシア国民の子供であること、慣習的にマレー語を話すこと、マレー慣習を守ること、マレーシアに住むこと。 マレーシアのこれまでの首相全員は100%マレー人とはいえません。初代Tunku Abdul Rahman はタイ人王族の血を引いています、第2代Tun Abdul Razak の先祖はインドネシアのスラウエシに住むブギス族にさかのぼります。第3代 Tun Hussein Onn はトルコ人が先祖です。そして第4代 マハティール前首相は インド人の血を引いていると自身で認めています。 それにもかかわらずこの4人はマレー人であり、マレー最大政党UMNOの総裁を務めました。 マハティール前首相はかつて言う、「純粋なマレー人はいない。」
以上


私は”いわゆる民族主義”に対して、近年ますます”嫌民族主義的”思想と立場に傾斜していますので、この種の主張には多いに違和感を感じるものです。誤解なきように強調しておきます。マレー人民族主義であれ、マレーシア華人の華人民族主義であれ、マレーシアインド人のインド人民族主義であれ、それを強調する思想と行動に対して同様に、違和感を覚えます。さらに唯我独尊を主張する日本民族主義、中国は強大であると鼓舞する中華民族主義に対しても同様です。



2008年 タイ深南部の現状はどうなっているか、現地訪問をルポする −前編


深南部と呼ばなければならない理由

タイ深南部というのは、タイ全県 76県ある中の3県だけを指します: パッタニー県、ヤラー県、ナラティワット県。いずれも住民の圧倒的多数がムスリムの県であり、県人口が100万人以下の小県です。3県の内パッタニー県だけはマレーシアと国境を接していませんが、いずれもバンコクから1000Km 強も離れたタイの最南部です。
マレーシア、日本、西欧のマスコミが、深南部問題を報じる時に 「タイ南部」という非常に誤解を招く呼称を頻繁に使用していることを、強く批判しておきます。タイ南部とは、この3県からずっと北にあるチュンポーン県、ラノーン県あたりまでのかなり広い範囲を指します(ミャンマーと隣り合っており、地図で見るとぐっとくびれた地形の所までです)。南部の中の一部が深南部3県であり、他の南部10数県には事件はまったく波及していません。これはムスリム人口の多いサトゥーン県、プーケット県でも同様です。唯一の例外はパッタニー県、ヤラー県に接する、南部最大都市ハジャイのあるソンクラーン県です。ソンクラーン県の4つの郡は深南部3県と同じような住民構成とつながりをもっていることから、深南部3県ほどではないが多少似たような状況にあるようです。
こういった事実から、当サイトではずっと以前から常にタイ深南部という呼称を使用しています。

マレーシアマスコミの最近のニュースから

ほぼ2年前にこの場でタイ深南部に関するコラムを書きました: 第471回と472回 「タイ深南部の現状はどうなっているか、2006年現地訪問の報告」 。 それ以後タイ深南部は安定化したのでしょうか?それとも悪化したのでしょうか? 安定化したとはとてもいえないことは、マレーシアのマスコミに載る外電から相当程度推測がつきます。例えばこの1ヶ月以内に「新聞の記事から」に載せた深南部関連記事を再録してみましょう:

 5月30日の記事 タイ深南部の日常的な襲撃事件の一つ

(タイ深南部でこの数年続いている日常的な襲撃や爆弾破裂は一向に衰えていません)パッタニー県で武装反政府グループ容疑者が逮捕されて軍隊基地へ護送される途中で反抗して自動車が事故を起こし、2人の軍人が死亡、容疑者も怪我をしました。
ヤラー県では、結婚式のため行進していた一団を武装グループが襲いました。しかし婚姻グループの一部は武装しており反抗して、襲ったグループの1人を殺しました。タイ深南部の不穏状況は2004年以来、市民、警察軍隊、武装反抗派、ならず者、その他など合わせてすでに3000人を超える犠牲者を出しています。


 6月8日の記事 タイ深南部、週後半だけで6人が殺された

(不穏な状況がこの数年続く)タイ深南部3県では今週も何件もの襲撃事件が発生しました。この3県に隣接するソンクラー県で金曜日に2人のムスリム若者が射殺され、ヤラー県では仏教徒の中年女性が射殺されました。金曜日にはさらに、ナラティワット県では中年のムスリムが自宅で射殺され、土曜日にはナラティワット県の別の地方ではムスリム若者が射殺されました。

タイ軍警察から指名手配されていた武闘反抗派の幹部の1人がTanyong Limo 村の隠れ家を襲った軍警察に囲まれ、銃撃戦の中殺されました。彼は2005年のタイ軍人捕虜と殺人で高額の報奨金を付けて指名手配されていました。この際、仲間の指名手配されていた2人が逮捕されました。

(Intraasia注:ムスリム多数派地方である3県の陰惨な殺し合いはまったく静穏化していません。仏教徒だけでなく、政府軍や仏教徒タイ体制寄りだと見なされたムスリムも襲撃される、食堂などに爆弾を仕掛けるテロ行為という陰惨さに加えて、密輸などに関わる武装ギャング団も暗躍しているようであり、それを鎮圧すべくタイ政府軍部は外部から数万人のタイ軍隊を送り込んで強権で押さえ込んで、もともと仏教徒体制側に違和感を抱く地元ムスリム社会からより反発を受けている、 この交錯した状況は終わりが見えそうにないですね)


6月25日の記事 タイ深南部の爆弾テロで13人怪我

タイ深南部のヤラー県では爆弾テロが2箇所で起こり、兵士7人と市民6人の計 13人が怪我をしました。県都ヤラー市の生鮮市場でバイクに仕掛けた爆弾が破裂、もう1件はサッカー場で炸裂しました。


マスコミのニュース”だけ”から実情を判断するのは間違い

タイ深南部のニュースがマレーシアの新聞に載るたびに Intraasia が 「新聞の記事から」 に載せているわけではありませんし、深南部で発生したこの種のできごとすべてをマレーシアの新聞が掲載するわけでないのは当然です。ですから実際はもっと数多く事件が起こっているわけです。

さてタイ深南部が不穏化または不安定化するずっと以前からタイ深南部を何回も訪れてきた者として、マスコミの発表するニュースからだけで全てを判断しては実情を誤って捉えてしまうことも知っています。そのことは、不安定化以後訪れて書いたコラム、第421回と422回など、を読んでいただけばおわかりになることでしょう。

ランタウパンジャン国境検問所からタイへ陸路入国 

さて今回(6月中旬)約2年ぶりに深南部をごく駆け足で訪れました。 我が経済状況はまこと余裕がなく、契約仕事上の予定もあるので、残念ながら車中泊1泊プラスホテル2泊という駆け足旅でした。18日夜8時半にクアラルンプール発のマラヤ鉄道 WAU号でクアラルンプールを発ち、翌朝9時半過ぎ、予定より30分ほど遅れてPasir Mas 駅で下車、乗り合いバスで国境の町 Rantau Panjang に着きました。これは90年代以来もう何回も経験している行程です。国境検問所すぐ前でバスを停車します。朝食はまだだったので、近くのバス兼タクシーターミナルの大衆食堂で食事しました。クランタン州のマレー料理食堂らしく、麺類はタイ風麺類のメニューです。

さてRantau Panjangの国境検問所は人の往来よりも車とバイクの通行の多いにぎやかな検問所です。マレーシアプレート番号とタイプレート番号の小型トラック、ピックアップトラック、乗用車が次から次と往来しています。 いかにこの検問所が昔から人々に馴染まれてきたかを示すのは、両国国境付近住民の気楽な行き来があることです。マレーシア側では2人の警官がのんびりとおしゃべりしていました。長さ30mぐらいの橋を歩いて渡れば、そこはタイ領 スンガイゴロクです。地元の人たちには通称ゴーロクと呼ばれていますね。昔から、ムスリム主体のマレーシア人の娯楽地として知られた国境町です。深南部不穏化以来、何回も仕掛け爆弾テロが発生しています。狙われてきたのはカラオケクラブ、ホテル、茶店などで、タイ鉄道のスンガイゴロク駅では、私の知る限り、爆弾は炸裂してないはずです。

こういう事件があっても、マレーシア人小商売人や住民はスンガイゴロク側へ生鮮物や米などを買いに行き、男たちは遊びなり息抜きにゴーロクヘ出かけています。タイ人はといえば、子供たちはマレーシアの小学校に通い、大人は買い物や友人に会いうため、タイより安いガソリンを給油するためなどで国境を気軽に越えています。つまりごく普通の庶民の活動がこの国境往来に見られます。事件直後は別にして、往来は以前とほとんど変わっていないはずです。マレーシア側検問所で私の前にいたタイ女性は、Rangau Panjang に買い物に来たようで、一杯荷物を持っていました。

昔とほとんど変わらないスンガイゴロクの国境検問所

橋を渡り終わると、すぐ右手に昔ながらの木造の質素なタイ検問所があります。出入国用紙を埋めてパスポートと提出すれば難なく入国スタンプを押してくれました。棟続きの隣の部屋はタイ観光省の出張所です。私はそこへ毎回寄るので今回も寄って、深南部の地図などをもらいました。私がタイ語で話すので、2,3言会話が進みました。この国境検問所は以前と同じく、国境警備隊員2人ほどが自動小銃を構えて警備についています。これだけでもマレーシア側とはかなり対照的です。

タイ鉄道スンガイゴロク駅までバイクタクシーに乗りました。まあ歩いても20分ほどで到着しますが(1回歩いたことがあります)、歩く人はまずいません。バイクタクシーがそのあたりで一杯客待ちしており、寄ってきた1人にいくらだと尋ねたら、彼は30バーツと答えました。以前より値上がりしてますが、これは交渉しても下がるものではないので、即受け入れました。スンガイゴロク駅発の急行列車は以前からずっとタイ時間の朝11時半なのでそれに合わせて私はその日朝から行動してきました。私はタイ訪問時にいつもタイ国鉄のその時点での最新時刻表(タイ語)を収集しています。

タイ国鉄スンガイゴロク駅の風景

タイ鉄道(正式にはタイ国鉄)スンガイゴロク駅は、バンコクから実に1000kmぐらい離れた最南にある始発・終点駅です。駅舎は昔から全然変わっていませんね。駅外での警備はありませんが、構内の警備は厳重です。防弾チョッキをつけたタイ軍兵士が数名、自衛警団の所属であろう者が数名、さらにタイ鉄道専属の警察官も数名います。警官を除いて皆自動小銃を構えたり、肩から下げています。ただ駅構内に入るのに荷物検査などはまったく行われていません。

私が駅に着いた時にちょうどハジャイ方面からの列車が着いたようで、地元人に混じって数名の白人バックパーカーも駅舎外に出てきました。彼らはいつも数名で行動しており、大きな荷物を背負っている例の典型的スタイルです。

私はヤラー駅までの切符 80バーツを買って、出発の11時半を待ちました。別に混雑しているわけではないので切符はすぐ買えます。地元乗客に混じって、4,5名の白人バックパーカーもその列車の出発を待っています。警備の兵士はユニフォームに加えヘルメット、防弾チョッキ、そしていかにも重そうな結構大きな自動小銃を構えていますから、みているだけでも暑そうです。深南部の警備は万一に備えて用心のためにという段階ではなく、場所と時間はわからないが、まず確実にどこかで起こる、起こってきた襲撃に備えているという、臨戦気分がありますから、他人事ながら守るほうはまことたいへんですな。

タイ鉄道のごく普通の急行列車に乗る

列車はほぼ定刻に出発しました。私の車輛、冷房なし2等座席、はかなり空いており、タイ人乗客に混じって白人バックパッカー数名も乗っています。タイ人はほとんどムスリムということがそのトゥドゥン姿からわかります。べらべらと英語だけでずっと話し続けている彼ら彼女ら白人バックパッカーは肌をむき出した姿であり、いつもながら自分たちの世界が世界の基準だと思い込んでいるのでしょう。少なくともマレーシアそしてタイの2カ国を巡りながら見聞を広げているはずのこの種の白人バックパッカーは、なぜこうも文化と言語に鈍感になれるのだろうか? 

タイ鉄道のこの列車は2004年以降だけでも数回乗車してます。これまでは車中で警備の警官または兵士が抜き打ち持ち物検査をしている光景をみましたが、今回は見かけませんでした。この理由は多分今回の車輛に乗っていた乗客構成のせいかもしれません。つまり他車輛では行われていたかもしれません。

ハジャイとスンガイゴロクを結ぶタイ鉄道の深南部路線の内ヤラー以北スンガイゴロクまでの区間で、これまでも何回もの線路爆破未遂、列車への射撃、そして1回か2回 車中爆発が起こっていることを私は記憶しています。 これを裏付けるように、列車の車窓から見る主要駅(といっても皆小型の駅ばかりですよ)には、警備のためにタイ軍隊の兵士が張り付いており、どの駅も複数の兵士が自動小銃を構えて構内にいる姿が見えます。今回眺めているとその多くは防弾チョッキを着用していました。全部の駅ではないようで、急行が通過するような小駅は警備してないように見えました、しかし下車して調べたわけではないのでこの観察は確実ではありません。

このようにこの最南部区間は決して絶対安全区間と言えません。今年初めだったか昨年だったか、タイ鉄道労働組合は危険のためにこの区間の乗務を止めたいと訴えたという記事を新聞で読んだこともありますし、実際タイ鉄道はごく短期ですが一時運行を停止したこともあります。 とはいえこの区間はナラティワット県はずれのスンガイゴロクからヤラー県を横断してパタニー県の一部をかすめるように走行してソンクラー県に入るという(パタニー市には鉄路はつながっていない)、深南部の貴重な公共交通路線であり、通学の生徒を含めてタイ庶民の足ともなっている区間ですから、常に乗客が絶えることはありません。 

特に心配はしてなかったが、後日の新聞ニュースに驚いた

今回もまあ特に心配することなく私は乗車しました、ほとんどのタイ庶民も恐らくそういう気持ちなのではないでしょうか。しかしこのコラムを書き始めた、24日付け新聞の外電記事を読んで、うーんと思いました。

タイ深南部線が一時停止された (24日の新聞から)

先週の土曜日(21日)走行中の列車に攻撃があり、警備の警官1人と鉄道職員3人が殺されました。その後深南部路線の列車運行は全て止まっています。 23日タイ軍隊と警察からなる200人の部隊が、ヤラー県にある武装抗争派のジャングル隠れ家を急襲して、グループに属すると見られる 6人のムスリムを射殺しました。指揮官は語る、「これは大きな前進です。我々は狙撃者も殺した。現場には狙撃銃や爆弾の起爆に使う携帯電話もたくさん見つかった。」

これとは別に先週、警官1人が攻撃されて死亡、5人の警官が負傷するできごとが、この隠れ家近くでありました。犠牲者を運ぶために飛来したヘリコプターがエンジン故障で墜落し10人が死亡しました。タイ鉄道当局は、深南部路線での安全が確保されるまでは運行停止すると発表しました。「職員の気分状態は最悪です。きちんとした安全対策がなされるまでは運行しません。」とタイ鉄道南部線の責任者は語る。


この区間で運行停止と襲撃は初めてではないとはいえ、走行中の列車が襲撃されて3人もの職員までが殺されては、そりゃタイ国鉄職員の意識が下がるのは当然でしょう。土曜日(21日)というのは、私がハジャイをその日朝発ってマレーシアに入った頃または直後なので、タイでこのニュースを知ることはできませんでした。私がこの区間に乗ったのとわずか2日違いの事件です。実は、今回の深南部訪問前の計画時に、最初ハジャイへ入ってヤラーに泊まり、翌日つまり土曜日にヤラー − スンガイゴロク区間の列車に乗ってマレーシアに戻る計画も考慮していたのです。最終的に選んだルートは、これとは全く逆である、最初にスンガイゴロクへ入ってヤラー泊、そしてハジャイ経由でマレーシア帰国にしたおかげで、この土曜日の列車襲撃の影響は受けませんでした。

22日にゲストブックに私が書いた、「絶対安全という保証はもちろんありませんが、じゃあといって危険かといえば、それは場所と時と運によるでしょうね。」 という一節そのものであることを、実感しています。

私の深南部基点 ヤラー市に到着

さて列車はほぼ定刻の午後1時過ぎにヤラー駅に着きました。ヤラー県の県都ヤラー市は長年私の深南部での基点です。よって変化はよくわかります。駅舎は数年前に改築されたのですが、テナント用のスペースは全く埋まっていません。もっともたとえ入居しても買い物客は来ないでしょう。駅舎の入り口と出口は1箇所に限定されて、拳銃なしの警備員が常時います。 ただ線路を越えて駅裏から乗客がプラットフォームとの間を行き来してますので、表の警備をいくら厳しくしても意味はありませんね。

駅プラットフォームにはもちろん自動小銃携帯の兵士がいます、くわえてタイ鉄道の警備員も複数います。タイ深南部3県の県都の中で、鉄路があるのはこのヤラー市だけであり、深南部区間で最大の駅です。地元一般客、学生の各列車待ちで駅舎内とプラットフォームはけっこういつも混んでいます。 ただ外国人旅行者の姿は、車中を除いて、この数年駅舎内外で見かけたことは一度もありません。今回もまったく見かけませんでした。

タイ鉄道が単線であるため駅構内で鈍行列車が通過待ちする場合がよくあります。ところでヤラー駅には行き先表示が全くなく(どこかに表示されているかもしれないが目に入らない)、ハジャイ行きの急行は2つあるプラットフォームのどちら、つまり1番線なのか2番線なのか、いつも迷ってしまいます。どの方向がハジャイでスンガイゴロクかぐらいは表示して欲しいものです。

駅を出てすぐ、私の常宿にしているエコノミーホテルにチェックインしました。もちろんいつも予約などする必要はありません。部屋代は少し値上がりしており、390バーツ(換算すれば RM 39)で、冷房、ミニ冷蔵庫、温水シャワーが全室についたエコノミークラスです。タイのホテル物価からいったらこれはかなりお値打ちホテルになります。バンコクのホテル水準から言えば半額ぐらいでしょう。ハジャイと比べれても5割安くらいでしょう。それなりにきれいであり、私のタイでのお気に入りホテルの一つです。

唯一のショッピングセンター

ヤラーの町をちょっとぶらぶら歩いてみました。数年前にできたヤラー唯一のショッピングセンター、タイの水準から言えば小型です、へ行きました。ホテル対面の一画には、ショッピングセンター客を含めた一般用バイク駐車場があります。そこでは2人の警備員が停車する前に全台検査をしています。なぜかといえば、深南部で頻発する爆弾テロでは、停めたバイクに仕掛けた爆弾を、携帯電話の信号で起爆させるという方法がごく一般的だからです。 よってタイでごく一般的な女性バイク乗りのバイクであれ検査を必ず受けてから、駐車場に入ることを許可されていました。この検査光景は前回の時も同じようだったと記憶しています。

ショッピングセンターの入り口外側では男女の警備員が、持ち物検査と身体金属感知器で検査してから内部へ入ることを許可します。もっとも荷物を何も持たない私はまったく検査を受けませんでしたので、選択的検査ですね。田舎都市ということもあって小さなショッピングセンターですが、ヤラーでは画期的な商業施設です。建物半分はいまだテナントを入れてなくて閉鎖してます、4階が最上階でシネマとなっています。冷房が効いていて心地よいので、週末などは3階の食堂は結構人気ありそうです。シネマに夜どのくらい客が入るか知りたいものですが、バイクならいざ知らず夜遅く道を歩くなんてことは誰もしないので、私は確かめに行く術がありません。

タイ深南部マレー語方言

1階の本屋で本をあれこれ眺めました。いつも感じるのですが、タイの出版産業はマレーシアのそれよりはるかにバラエティーに富んでいます。マレーシアの書店から他国出版の英語書籍を全て除いたら、その出版範囲の幅狭さだけが目立つことでしょう。ただこれもいつものことで悲しい事実として、マレー語の書籍が1冊たりとも並んでいないことです。県都ヤラーの大きくないがショッピングセンター内の瀟洒な書店でさえマレー語書籍を置いていないという事実は、タイ深南部マレー語の現状を如実に示しているといえます。つまりタイ深南部マレー語はまったくの口語であるということです。この地では私が街で見聞きする限りムスリムの多くは日常的にマレー語の方を多用しています(非ムスリムはタイ語だけを話す)。多用という意味は、タイ語も使っている人が少なくないということです、これは若い年齢層、高学歴だと思われる層になるほど高くなる傾向にあると私は観察しています。なぜならタイの小中学校での教育言語は全てタイ語ですから、深南部のムスリムも当然タイ語で勉強します。よってタイ語書籍をごく普通に読めるわけです。タイ語の使用能力はほぼ学歴に比例するとみてもいいでしょう。書店で本を探していた何人かのムスリムの会話を聞いていると、マレー語で会話し合いながら、タイ語書籍に目を通しています。もっともマレー語といってもマレーシア語とは発音と語彙面で相当乖離した マレー語方言の一つですから、私には聞き取りはかなり難しいです。

ところで今回書店で驚いたのは、いわゆる日本コミックの描き方を取り入れたタイコミック単行本が多種且つ数多く並んでいたことです。バンコクから遠く離れた且つムスリム多数派のこの田舎県都にも、この種のコミックが人気を持ち始めているのだなとわかりました。

街を散策すれば日常光景が見えてくる

このショッピングセンターからそれほど離れていない場所に、ヤラー随一の大きなホテルが建っています。しかし営業はもう数年前に廃業して廃墟です。いかにタイ人のビジネス客や公務客加えて上クラスの一般旅行者が減ったかを示す事実です。

交番は前回見たのと同じく、前面をぐるっと土管で囲んであり、さらに上方から下方に左方から右方まで網で覆ってあります。これは爆弾を投げつけられた時の防御策のはずです。警察や軍隊の駐屯場所は一番狙われる場所の一つのようです。交通量の多い主道路と線路が交差する場所では、しょっちゅう警察によるバイク乗り検査が行われています。今回もそうでした。別の場所である商店街の一画では警官が強い命令言葉で若いムスリム女の子のバイクを止めて検査していました。女性であろうとこの種の検査に妥協はなさそうです。こういうふうにしょっちゅう通行を止められて検査を受ければ、そのほとんどは多数派ムスリムの若者です、誰であれ良い気分が起こることは考えづらいですね。

ヤラー市内では何回も爆弾テロが起きています。その中で私が2回訪れたことのあるタイ農民銀行が昨年爆弾テロに遭ったというニュースを読みました。私の知る限り、被害に遭っているのは市場内または至近の茶店、ビデオCDのレンタルショップなどです。その多くは店前に停めたバイクに仕掛けた爆弾を携帯電話で起爆させる方法だそうです。そのためでしょう、駅前のレンタルビデオ・CDショップは店周囲にロープを張り巡らしてその場にバイクを停められないようにしています。また別の銀行前の歩道には、交通工事に使うような障害物を並べて、銀行すぐ前のバイク駐車を防いでいます。

夜の街はまこと静かになる

私の常宿エコノミーホテルに長年入居していたカラオケクラブは廃業して空きテナントになっていました。前回の時いつ見ても誰も客がいなように見えたので、なるほどと思いました。2004年以前にホテル近くにあって夜遅くまで生バンドを入れて営業していた、パブ風タイレストラン兼飲み屋はとっくに廃業し、その場所は何かに変えるべく工事中でした。このように夜の街ははまことに静かで人通りが消えます。ただ今回は前回よりも幾分遅くまで人通りが残っていました。つまり私が食事から戻る、すでに暗い7時頃でも、それなりに人とバイクの往来がありましたので、前回よりは好転しているということでしょう。もともとヤラー市はムスリム多数派でまとまった飲み屋街などほとんどない田舎県都ですから、不穏化以前でも夜はごく静かで人通りの少ない街でしたが、現在は深夜に街を歩くような人はまずいないはずです。

夕食後いつも立ち寄るタイデザート店、といっても屋台に毛の生えた程度、に寄ると、顔見知りのおばさんが、元気だった?と挨拶してきました。甘味好きの私には欠かせない場ですが、タイ物価の上昇をここでも知らされました。タイぜんざいが以前の6バーツから10バーツになっていてちょっと驚きました。ということで2種食べるのを1種に減らしたのです(涙)。



2008年 タイ深南部の現状はどうなっているか、現地訪問をルポする −後編


おんぼろ田舎バスに乗って道路障壁の多い道を走る

翌日(金曜日)パッタニー県のP漁村を訪れるべく、朝7時半ごろにはバス発着場へ行きました。P漁村は毎回私が訪れているムスリム村です、いわば深南部の深部というべき所です。止まっていたバスの車掌が 8時に出ると言うので、暗く汚いムスリム茶店でコピを飲みながら待ちました。道路端のバス発着場は慣習的な発着場であり、発着を示唆するような標識とか待合所などは一切ありません。なくても大丈夫です、こういう田舎バスを利用するのは常連乗客だけなのです。数多く利用している私はこの車中やこのバス発着場付近で一度たりとも外国人の顔を見かけたことがありません。どうやってこの場を私が知ったか?それは昔街を散策していてバスを見つけたので、試しに乗っていった先がP漁村だったのです。

このバスはヤラー市を出てまず主要道路を隣のパッタニー県都パッタニー市に向かう主要道路を走ります。ヤラー市からパッタニー市まで距離約35Kmで、その道を20数Km走ってから三叉路を支道へ曲がります。この主要道路には道路障害または検問所がたくさん設けられていました。数キロ毎に1箇所という感じです。道路障害とは車がスピートを出して進めないように道路の両方向側に障害物が置いてあり、車はその間をジグザグ走行せざるをえないようになっています。つまり武装反抗派が襲撃または逃走時にスピードを緩めざるをえないようにしてある場所です。

とりわけ、ヤラー市の市街地と市内部の境界あたりの検問所はかなり厳重な防御がしてあります。道端にある兵士詰め所は土嚢が肩ぐらいまでに積み上げられて且つその外側は土管がずっと並べた形で防護されています。素人目でみてもかなりのしっかりした防護で、日本人がこういう光景を目にすることはまず機会がないでしょうから、ハリウッド映画に出てくるような場面を思い浮かべてください。

注:尚この旅では全く写真を撮りませんでした。軍隊や警察官や警備場所などを撮るのは問題の種となることを知っていますので、最初からカメラ自体を携帯していません。


役所のような公共施設前には必ず道路障害が設置してあり、土嚢、鉄条網、防御網などに囲まれて兵士が警備しています。役所のような建物は襲撃対象なので、どこもしっかりした防御策が施されています。深南部の一部では小中学校、仏教寺院も襲撃対象になっていますから、そういう場所にも防御が設置され兵士が常駐している所があります。ただ今回私の通った道と訪れた場所では学校と寺院に関してはごく簡単な防御物は設置してあっても兵士の常駐は見かけませんでした。

このヤラー市からパッタニー市間の主要道の道路障害数は前回より明らかに増えていたので、この主要道沿線でなんらかの事件がよく起きたからなんだろうと推測するだけです。道路両側はムスリム村落や田畑がずっと広がっています。

バスはいつも地元人乗客ばかり

支道に入ってしばらく走ると マヨ町に着きました。町役場があるのでそれが目印です。それまでバス車中に乗っていた非ムスリムつまり仏教徒タイ人の地元人が数人下車して、残りは私以外全てムスリムです。バスはタイの田舎でよくある、古いおんぼろミニバス車輛で、狭い座席の数は20席ぐらいです、朝夕の通学時間以外は満員にならないことはこれまでの経験から知っています。タイでは全国的にどこであれ、一般に乗り合いバスでは運賃払いと引き換えにぺらぺらの紙製切符を手渡すのですが、この区間ではそういうこともせず、車掌に単に金を渡すだけです。終点まで運賃 35バーツです。

バスは支道を走りまもなく、ナラティーワト − パタニーを結ぶ国道を横切ります。この国道は深南部のいわば中心道路ともいえます。横切る地点からP村までは一路田舎道を海岸に向かって走ります。障害物が置かれ兵士の警備する、P村役場を過ぎれば、もうまもなく終点のP村中心部です。パッタニー市に向かう主要道路から支道に入った場所から目的地のP漁村まで40Km 弱の行程です。こうしてヤラーから約1時間半で終点に着きました。

きれいな海浜に恵まれたムスリム漁村

P村は漁村ですから、海岸に面しています。バス終着場所から青い海と白い砂浜の水際まで徒歩5分弱です。村はほとんど変わりなく古びた木造家屋の店がちょとばかり、小さな生鮮市場そして村の公共施設があります。モスクが改築中だったのが前回との大きな違いです。 第227回コラムで描写した、ここのムスリム漁民特有のコーレオボート収容小屋兼漁の水揚げ場所は 4,5年前から入り江内に全移動させられたため、海浜はなんの構築物もなくほとんど自然のままです。よって流木やゴミが散らばっています。でも砂浜は白く且つ広く、海水浴には最適といえるでしょう。 もっとも訪問者はムスリムばかりなので、これまで見た光景はいずれもこの海岸を訪れて裸で水際で遊んでいる姿は子供たちばかりです。

海岸の道路を挟んで、いくつもの簡易小屋状の海岸お食事処が並んでいます。2002年ごろ以前にはまったく存在しなかったのですが、その後少しづつ増えて今回も前回より多少増えたような感じです。 その場所ではそれぞれの営業者が 2、3つぐらいの小屋を持ち、飲み物とタイ大衆料理を供します。まあ屋台の多少大型化したものだと想像してください。今回はまだ正午までに時間があったのでどこも営業してませんでした。小屋の下で、タイ風チャーハンでも食べながら潮風に吹かれて過ごすのは気持ちよいものですよ。主たる営業時間は昼時よりも夜だとのことで、さらに週末は近辺のムスリムがやってくるので商売繁盛だと、知り合いの茶店主が説明してくれました。何回もこの P漁村を訪れてきましたが、ヤラーへ戻るバスが午後4時ごろが最終なのでその時間以後は過ごしたことがありません。なにせバスは1時間に1本程度だけで唯一この路線しかないのです。他にはパッタニー行きの乗り合いバンがあるそうです。

じゃあ近辺のムスリムはどうやってこの漁村にやって来るかといえば、まずバイクです、次いでタイで一般的なピックアップトラックの荷台に家族や友人を乗せてやって来るのです。タイでは若い十代の女の子でも気軽にバイクに乗っていますから、これは深南部でも同じであり、マレーシアの郡部とはかなりこの点が違います。

茶店を訪ねて知人である主としばしおしゃべり

海浜をちょっと散歩した後、いつも訪れている、海岸から100メートルほど離れた位置にある茶店を尋ねました。この茶店主、タイムスリム、は昔マレーシアへ出稼ぎに行ってマレーシア語が流暢になったということで、このP漁村で珍しいマレーシア語で十分会話ができる相手なのです。その他の地元ムスリムとはこれまでの経験から言って、長い会話は続きません。それは彼ら彼女らはタイ深南部マレー語方言が母語ですが、いうまでもなくマレーシア語は習ったことがなく、たとえマレーシアへ出稼ぎに行っても覚えようとしなかったからです。学校でしっかりタイ語を習った人は当然タイ語で十分話し読みできますが、どうも無理そうな人も年配者にはいます。村では日常生活はほとんどマレー語方言で行えるようなので、タイ語もまじるいわゆる二重言語生活者が若い層には多いはずです。

この村の人たちは非常に Merbuk (チョウショウバト、英名 zebra dove)が好きで、どの家も少なくとも1羽は飼っているのではないかと思われるぐらいです。鳥かごに1羽だけ入れて、軒先に吊るしてあります。merbuk 飼いの目的はその鳴き声を競うことで、村でもよく競技会が開らかれているようです。茶店主の彼は、最近その merbuk の幼鳥をタイ北部からたくさん仕入れて店前の檻に入れて販売を始めました。茶店がこの種の商売するのはこれほど merbuk 好きのこの村、またはこの近辺でも?ならではのことかもしれません。Merbuk を飼って鳴き声を競い合うのは、マレーシアではクランタン州で盛んですし、半島部のいくつかの地方ではそういう趣味が盛んなことを私は知っています。

この茶店の斜め対面にあった結構広い干し魚用の広場が観客席付のサッカー場に変わっていたのに驚きました。茶店の主人は久しぶりに訪れた私を歓迎してくれ、いろいろと話が尽きません。「この村では襲撃は起こってないのか?」 との私の問いに、「1回も起きてない」 と彼は答えました。まあそれだから私は不穏化以降もこの村を訪れているのです。 彼も言っていたように、深南部3県では特定の郡では襲撃事件が頻発しています、いわゆる赤丸地区です。しかしそういう事件の起こっていない郡、またはごく珍しくしか発生しない郡があります、いわゆる黄色丸地区、緑色丸地区です。3県内の全地域で平等に襲撃や爆弾テロが起こっていることはないのです。といってずっとこの先も大丈夫という保証は誰もできませんし、ありません。この漁村の役場も常駐兵士で守られているのです。

深南部の特徴

深南部では都市を除いて、郡部での襲撃は、その狙われた者の住む民家であったり、仲間と集まる大衆茶屋であったり、路上のバイク走行中を狙われたりしています。こうして襲撃された者にムスリムもかなりの比率を占めるみたいです。こういう民間人に対する襲撃と別に、警官と軍人に対する攻撃が郡部では目立ちます。典型的なのは、通行量の少ない田舎道を走行中の軍隊車輛が道路に仕掛けた爆弾で損傷を受け、攻撃を受ける例です。軽装甲車のような車輛も走行していますが、道路仕掛け爆弾には無力ということなんでしょうか。

タイ深南部には工業地帯などという所はありません、市部を出ればすぐ郡部風景となります。さらに、ゴム農園や自然山林がずっと続く地域もあり、そういうところは交通量がぐっと少ない。以前いくつかの田舎路線バスに乗ってこうした郡部を巡りましたので、人の気配の少ない地もバスは走行していきます。私はさすがに現在そういうひとけ(人気)のごく少ない地を巡る田舎乗り合いバス路線に乗るつもりはありません(バスが嫌なのでなく、道でのひとけ(人気)のなさゆえからです)。P漁村へ向かうバスもごく短い時間人気の少ない場所を通りますが、まあその路線は一番数多く乗っているので特に心配はないというところです。こういう田舎バスには地元の人と通学の生徒しか乗りません、その多くはムスリムであり、バス乗り自体に不安感はありません。それは私が長年タイ全土においてこういう行動をして慣れているからです。少なくとも私の観察する限り、この種の田舎バスに他の地方から来た非ムスリムタイ人が乗ることは極めてまれです。いうまでもなく、外国人旅行者の姿をこの種の田舎バス車中に見かけた記憶はありません。

深南部3県はどこもはタイムスリムが少なくとも4分3以上を占める圧倒的多数ですから、女性の姿にはトゥドゥン姿がたいへん目に付きます。女性徒は少なくとも通学時は全てトゥドゥン姿で、マレーシアムスリム女学生的なユニフォームです。これは私のこの10年ぐらいの観察からですが、昔より深南部の女性一般にバジュクルン姿が増えたような気がします。バジュクルンはマレー女性の民族衣装でマレーシアムスリムの文字通り日常着からユニフォームまで普及しています。そのマレーシアムスリムの衣装に影響を受けているのではないか、というのが私の推測です。 マレー語会話を耳にしなくても、こうしたことからバスや列車の乗客、町を歩く人の姿からもムスリムであることがかなりわかる場合が非常に多いです。

村の茶店は男たちの憩いの場

P漁村は彼の言うように不測の事件は起こっていないことは、海岸に増えた簡易小屋食事処の数からもそれを物語っています。夜間や週末村人や近辺の村人がやって来て憩うということは、少なくとも危険性はごく少ないということのはずです。 ムスリム村にこれといった娯楽施設はありません。彼の店のような茶店は休みの日や時間に村の男たちが集まってテレビを見たりおしゃべりする場なのです。海岸の簡易小屋食事処も同じような意味合いですが、家族連れにも向いているでしょう。

夜間に人の往来があるかは安全性を計るバロメーターになります。ヤラーの街は前回よりも夜間の賑わいが多少増えていました。といってももともと静かな田舎県都ですから、タイの中大都市や行楽地のそれを思い浮かべると大違いですよ。前回は、空暗くなる6時半ごろには街の通りから人通りとバイク通行が急激に減りました。今回夕食を終えてホテルに戻る7時ごろでも、多いとはいえなくても人通りとバイク通行があったからです。しかしそれでも2000年ごろに比べれば、街の静穏化は早いです。以前は8時ごろまでやっていたいきつけの大衆食堂は夕方店を閉めてしまい、夜間営業していませんし、一般店舗も7時ごろには閉め始めます。 

さて今回は午後早い時間の列車でヤラーからハジャイへ行くつもりだったので、このP漁村に長居できません。もっとゆっくりしていけという茶店の主がバイクでバス発着場まで送ってくれました。その途中海岸をバイクで一巡りしながら、彼は海岸の空き地を指して、いつかそこにロッジを建てたいなと言いました。穏やかな起伏の砂浜であり、手入れすればきっと行楽には良い海浜になることでしょう。現在は簡易宿泊所でさえ全くないこの漁村です、このきれいな海岸地に旅行者用のロッジがあれば人を引き付けられるだろうなと思います。しかしそれには、深南部の不穏化状況の終焉が絶対条件です。現在の状況ではタイ人観光客、とりわけ仏教徒タイ人でも近寄ることさえしませんからね。彼の願望がかなう日が果たしていつか来るのであろうか?

おんぼろ田舎バスは、下車時に車掌に聞いて確かめた時間である11時になっても出発せず、11時半過ぎでした。まあ発車時刻なんてどこんなものです。よってヤラーから乗る早い時刻の列車には間に合わないことがはっきりしました。仕方ないなあと、ちょっとイライラしながら気長に待ちました。

深南部を訪れたことのあるタイ人は極めて少ない

帰路バスが、パッタニー − ヤラーを結ぶ主要道に入ってから、兵士が道路をパトロールしているのが車窓から見えました。分隊ぐらいの人数です。大きな自動小銃を構えながら炎天下を歩くのはたいへんなことでしょう。別の場所では2,3人の兵士が、タイでごく一般的な石ベンチに座って休憩しているのを見ました、脇にヘルメットを置いて銃は肩にかけています。 このようにタイ軍部は深南部に万を超える軍隊を派遣しています。兵士の大多数は深南部以外の地方から来た者ばかりだそうです。

深南部へ行ったことのあるタイ仏教徒は極めて極めて少ないですよ、私はタイ各地でタイ人に尋ねたことがあります。彼らはテレビや新聞に頻繁に載る深南部ニュースを見て深南部を知っていますが、たとえ不安定化以前であっても実際に旅行で訪れた人には一人も出会いませんでした(深南部出身者とその近辺県出身者を除く)。その理由は、深南部という地理的遠さとムスリム多数派という場所柄ゆえですね。

軍隊、警察、自衛警団

深南部では多数の軍隊が常駐していることはすでに述べましたね。加えて、自衛警団組織がかなり普及していることが推測できます。タイ鉄道駅でも見かけましたし、ヤラー市でも街を歩いていたら、自衛警団のグループがピックアップトラックから降りてきてそのあたりを巡回し始めました。自衛警団は制服が軍人と違いますし、頭髪が軍隊カットではありません。自衛警団とはいえ、皆自動小銃を携帯しています。深南部で銃は単なる見せかけや威嚇目的の道具ではありません。

ヤラー市内に軍隊の存在は、公共施設前は別にしてあまりありません。それでも朝バスを待っているときに、軽装甲車が通っていきました。車上には完全武装の兵士3人が後部を向いて座って銃を構えていました。町の人はこういった光景になんら興味を示しません、もちろん心の中ではなく態度としてはということです。このようにヤラー市の中心部には時折軍隊の周回がありますが、通常は警察官の存在の方がずっとよく目に入ります。

これだけ治安部隊の存在が目に付いても、2004年以来爆弾テロと襲撃は終わりません。死者数ははっきりした数字はわかりませんが 3500人前後とか、ただあまりこの数字だけにこだわることは実情を隠してしまうでしょう。この数字には軍隊に逮捕されて非人道的な扱いを受けて死亡したムスリム100人前後、当局に射殺さたムスリム武闘派、ならず者、巻き添えをくった一般市民、さらに体制側である警官、軍人、自警団員などが含まれています。

強固な組織の武闘反抗活動とは言えない形で不穏化が進行してきた

タイ深南部の不安定化の根源には歴史に遡る民族的及び宗教的な深い問題がありますので、国家と民族と宗教紛争がたかが5年や10年で片付かないのは世界どこでも同じですから、この先短期間でこの不穏状態がなくなるとは到底思えません。このコラムでそれを分析するのは私の目的ではありませんし、私の知識を超えます。

尚一つだけ指摘しますと、タイ深南部”紛争”は、スリランカのタミール民族分離を掲げて戦争しているタミールタイガーのような強固で唯一の公然組織が引き起こしているわけではありません。 いくつかの小組織やグループがあり、且つそれらの組織間での協力関係がはきり解明されてないまたはもともと協力関係などあまりないという見方もあるようで、且つある一つの組織内での指揮系統も明確でないような形だと言われています(私にそれが正しいのか間違っているのか判断はできません)。さらに東南アジア内のムスリム武闘組織(テロ組織?)と連携があるという見方も中にはありますね。こうしたことから、かなり無差別的な襲撃やテロが発生している自体が続いているのです。加えて自体をより陰惨なものにしているのは、麻薬や物質を密輸するならず者集団も関与している可能性もあるそうです。

不運にも巻き添えを食う可能性はなきにしもあらず

深南部を訪れた際、狙われて死亡やけがするのはこれまでのところないはずですが、巻き添えを食うことが決してありえないことではないのは、こういった事情を知れば杞憂とは言えないでしょう。例外的に狙われた例は、ほぼ国境の町スンガイゴロクに限定されるはずです。歓楽街で酒などを飲んでいたら店前に停めたバイクの爆弾が炸裂した事件は何回も起こっており、これまでマレーシア人数人が死亡または怪我をしています。私に言わせれば、これまでの経緯から狙われるかもしれない場所へ行って遊ぶという行動自体が愚かということです。

そういった歓楽場所ではなく、偶然不幸にもその場所にいたため巻き添えを食うのは、これはもう不運というしかないでしょう。 私が訪れた場所でその後爆弾テロや襲撃が起こったとのニュースを聞くのは正直言って気分のいいことではありません。私が確実に訪れたその場所で事件が起こったのが 3箇所あります。 それまで両替などで2回訪れたことのある、ヤラー市のタイ農民銀行が2007年爆弾テロに遭い、数人が殺されました。新聞に載った写真を見て内部の様子まで思い出すことのできた銀行です。ヤラー市ではもう1箇所あります。ヤラー鉄道駅から100メートルほど離れた場所では市内主要道が線路と交差しています。その線路脇に以前兵士が常駐する監視小屋がありました。その前を私は数多く通っています。そこが一昨年だったかな? 襲撃されました。 今回その場所にはもう兵士の監視小屋はなくなり、国王の写真を飾る造営物がありました。郡部では1箇所あります。タイ鉄道の小さな田舎駅ルワソ近くで道路が交差する所です。その場所はバスで通ったことがあり、確か 2,3年前に爆弾テロが起きました。 

尚ヤラー市内の市場または市場隣接の茶店では何回か爆弾テロが起きています。私は市場あたりは何回も歩いてますが、ただ市場は複数あるのでどの市場かはニュースからでは特定できません。

場所ではなく乗り物つまりタイ鉄道の場合です。とりわけ上記で書いた、6月20日に起こったタイ鉄道深南部路線での通行中の列車に対する襲撃です。わずか2日違いというのは私の深南部訪問歴の中で、自分の訪れたその場所でまたは使ったその手段で最も時間的に近接して起きたできごとです。これからも深南部を間違いなく訪れるつもりの私には、時と場所の不運に見舞わないようにと願うだけですね。

人々がごく普通に日常生活をしているのも事実です

こういう事実は事実として認識する必要があります。一方ヤラーの街であれ、パッタニー県の町や村であれ、人々はごく普通に日常生活を送っています。たとえヤラー市では夜間の活動が2004年以前に比べれば、格段に少なくなったというような制限はあってもです。深南部で生まれ育ち暮らす人たちにとって、不穏だからといっておいそれと他所へ転居していくことはできません、これは圧倒的多数の人にとってごく当たり前の現実です。深南部は都会のジャングル的なバンコクとは違うのです。なお教師などで他の地方から深南部へ働きに来ていた人たちの中には、少なからずの人が深南部を去ったという記事を読んだことがあります。

P漁村からバスでヤラー市に戻りホテルをチェックアウトしました。戻りが計画していたより遅くなってしまったので、午後早い時間の列車に乗れなくなり、のんびりといきつけの大衆食堂でタイ食事をしてからヤラー駅へ行きました。 金曜日の夕方ということもあって駅はかなり混雑していました。タイ鉄道は単線なので、列車が1本遅れれば玉突きで後続列車と対向列車が遅れます。そのためもあって、駅舎内とプラットフォームはかなりの人です。しかし外国人旅行者風の待合者は1人たりとも見かけません。

こうして気長に自分の乗るハジャイ行き急行列車を待ちました。駅の人々を眺めていると、いかにも深南部らしくムスリム姿が圧倒的に多い、そして学生、若者が比較的多く、平日のためもあるでしょう、家族連れは少ない。ごくごく普通の駅風景です。プラットフォームに警備の兵士の姿はあれど、この状況だけをみれば何の変哲もない、タイの地方の駅風景なのです。駅の案内放送はタイ語のみで行われます、どうやら私の列車が到着するようです。ヤラー駅が終着で始発となる折り返し列車です。こうして約1時間遅れで私の列車は午後4時少し前に、ハジャイに向けてヤラー駅を発車しました。
終わり



Intraasia の雑文集 −2008年前半分


はじめに

「ゲストブック」 には随時様々な題材で書き込んでいます。しかしその書き込みはいずれ消えてしまいます。そこで2008年上半期に Intraasia が書き込んだ中から主なものを抜粋して、コラムの1回分として収録しておきます。ごく一部の語句を修正した以外は、書き込み時のままです。

【 税務署の間違いデータ訂正要求はかくも機能しないものである 】

所得申告兼税金確定の季節が近づいてきました。納税者番号を持っている人宛には、前年所得があろうとなかろうと、とにかく毎年所得確定申告書が郵送されてきます。そして暦年での前年の全所得及びすでに払った税金があればもちろんそれも記入して、郵送なり手渡しなりで税務署宛てに送り返します。数年前からインターネット申告もできるようになりました。

尚会社で働く外国人の中にはその会社宛てに申告書が送られ来る場合もあるようです。 マレーシアに住むようになって以来、納税者番号のある私にも毎年この所得確定申告書が郵送で我がアパート宛てに届きます、今年はまだ届いてませんが多分今月中には届くことでしょう。ところが、今年もまた私に関係ない会社と人物宛先の申告用紙が届きました。もう 5, 6年も同じ間違いです。郵便で宛先に対象なしに印をつけて送り返してもいいのですが、毎年その都度わざわざ税務署まで足を運んで、そんな会社と人物は存在しないのでコンピュータの記録を訂正するように伝えてきました。 それなのに、また今年も同じ用紙が届きました。

いつも思うのは、マレーシアの税務署って一体全体どうなってんの、ということです。 10数年来私は自力で申告書を書き届け、自分1人で税務署に対応してきたので、何回も何回も税務署の窓口を訪れてきました。てきぱきと進めてくれる人もいるし、親切に対応してくれる職員も少なくありません。しかしながら、 コンピュータシステムの間違い情報を 5年間も 6年間も訂正できない 所内仕組み・システムとは1体なんなんだと思います。誰がそういった責任者なのかわかりません、間違い郵送を送り届けるたびにいつも 「ああ、そうですか」 で終わってしまいます。 役所に一度インプットされたデータを訂正するには、多大な労力と時間と手間がかかるということを、私は長いマレーシア生活で体得してきました。この税務署の例はまさにその典型です。


【被雇用者福祉基金(EPF) はいかにもマレーシアらしい福祉思想に満ちている 】

まず1月27日の「新聞の記事から」 に載せた 『被雇用者福祉基金(EPF) が2月1日から新規則を施行』 から一部を引用します:

さらこの2月初めから実施される大きな規則改正があります。加入者がその自分のEPF口座から投資目的で(つまり納付して貯めた総額から)ある額を引き出すことができるようになります。 非雇用者が誰でも持つ 2つのEPF口座の第1口座において、加入者は55才までに基礎残高が最低 RM 12万 となるようにします。この算出基準は、加入者が退職してから(55歳)毎月RM 500を 20年間 EPF から給付を受けられるようにというものです。


この毎月 RM 500というその設定額はいかにも低いと感じますね。老後の福祉給付金が 500リンギットでは自家保有者でも極めて苦しい生活です、ましてや賃貸住居生活者には、生きていくだけが精一杯の額ですね。都市部周縁部の不便な場所にある狭い安アパートだって月賃貸料は200リンギットぐらいはします。自家保有者の場合、電気水道電話ガスの必需費用で、控えめにしても少なくとも100リンギットはかかりますから、残りは400リンギット。食べるだけなら間に合うでしょうが、娯楽費捻出は無理、医療費も私立クリニック通いは無理、政府病院・医院へ行くしか手はありません。でもその場合のバス代もかかるので、かなり工夫しないと大変です。

夫婦2人だけの場合、2人供に給付を受けていれば月 RM 1000 となって多少は楽になるでしょうが、被雇用者福祉基金(EPF)は専業主婦の掛け金(納付金)は制度上ありませんから、もし妻が長年専業主婦とか、掛け金を収めていない範疇の人(例えば屋台商売人など)であれば、給付を受けるのは、夫1人ということになります。2人で月500リンギットとの生活は絶対貧困範疇です。

参考:国連発展プログラムとマレーシアの経済計画部 が共同で出版した貧困に関する調査研究書では、「貧困層の定義は2004年において、世帯の月間所得が半島部でRM 543、サバ州で RM 704、サラワク州でRM 608 に満たない世帯を貧困層とします」 となっています。


こうしてみると、被雇用者福祉基金(EPF)が定めた基礎残高は、給付金だけで生活することを最初から想定していないと思えます。あくまでも定年退職後の生活の足しにするという捉え方でないと、月RM 500の算定が理解できません。マレーシアの家族概念と慣習から、子供の世話になるという思想がこの被雇用者福祉基金(EPF)の基礎にあるはずですね。もちろん中流層以上で、退職後も自力経済でなんら生活に困らない人たちもいますから、そういう層は納付金残高が 55歳時点でRM 12万なんて低額ではありえないでしょう。つまり月の給付金額が少なくとも RM 1000はあるはずですし、退職時の蓄えなども十分あると推定されます。被雇用者福祉基金(EPF)の掛け金(納付金)は被雇用者が月給の11%、雇用者が12%(13%?)です、つまり月給の23%が、毎月被雇用者福祉基金(EPF)に納められて、55歳時に引き出せるまたはその後毎月給付金という形で、受領するという仕組みです。ただし多くの加入者は一時引き出しを選択します。

マレーシアの定年は公務員が55歳と11ヶ月、民間は55歳が圧倒的に主流のようです。従って、下層階級に属する人たちにとって55歳で定年退職しても EPFだけで生活していくことは、上記で示しましたように、相当苦しい生活となります。そこで子供に頼るという、マレーシアのいやまだまだ多くの発展途上国で一般的であるはずの伝統的概念と慣習が、受け皿となることの必要性が存続していきます。

注:2008年中頃、政府は公務員の定年を選択性58歳にすると発表しました。つまり56歳の誕生日に退職する、58歳の誕生日に退職する、という選択ができるようになりました。

参考までにマレーシアの多数派世帯となる中間所得層は年間世帯所 RM17000 ぐらいだそうです。被雇用者福祉基金(EPF)の老後最低基準給付額  RM 500 ということは年間RM 6000ですから、中間所得層の3分の1ですね。ところで中間所得層といっても、この額では子供の多い世帯ではかなり生活は楽ではないでしょう。都市部の生活は一家5人ぐらいの場合世帯所得が月 2000リンギットぐらいないと、たいへんですね。

注:中央銀行Bank Negara の年次報告書では、2007年における国民総生産GNP での国民1人当りの平均所得はRM 23,103 (US$6721)  であるとなっています。ただこの GNP を人口で割ったこの所得平均額は実態を現しているとは、私には決して思えません。

こういう生活状況の考察と推測はあくまでも、リンギットの国内価値を基にしています。 RM 1 = 33円 という換算値では決して実情はつかめません。
ところで、被雇用者福祉基金(EPF)というのは、日本の年金制度とは根本的に違います。加入者が貯めたものを後年引き出すまたは給付金の形で受け取るというものであり、現世代が退職した世代の面倒を負担するという発想にたっていません。、被雇用者福祉基金(EPF)が運用することで毎年EPF としての利益、年間 4%前後 、を生み出しているので、加入者の納付総額にその時点毎に利息が付くという方式です、物価上昇率にスライドして給付金が増えるという仕組みではありません。


【多数民族、少数民族、マイノリティーを捉える視点 】

この YouTubeで発表された映像は、昨年話題になり、そして政治問題化した作品のはずです(私の勘違いでなければ)。作者は台湾に住んでいる、ジョーホール州出身の若者です、当サイトの新聞の記事からでもこの件をごく短く載せましたね。 この件は作者が陳謝し一件落着しました、もちろん”表明上”においてです。

さて当サイトでは長年且つ膨大な文章量で、各民族の発言や主張や表現の自由のことを紹介したり触れてきましたので、ここでは改めて書きません。マレー人であれ、華人(中国系マレーシア人という誤解を生む表現はマレーシア華語界では一切使われませんし、不適当であるので私も用いません)であれ、インド人であれ、それぞれ民族的不満があり、よくそれが小さなニュースになります、時にそれを発端とした行動に出る場合もあります。ただしそのことを直接的な単刀直入的なあり方でマレーシアのマスコミは表現しません。いうまでもなく、好んでまた好まずにの両面からの自主規制もあるし、該当法律もあるからです。

さて華人はマレー人に比べれば確かに少数派と言えば言えないことはないでしょう、しかし マレーシアのマイノリティーという範疇には程遠く、強い経済力、政治力を持っています。インド人はその人口が国民人口のわずか8%にしかすぎない少数民族にも関わらず、歴史的貢献と存在から人口比以上に影響力を持っています。

これに比べて、真のマイノリティーと言えるのが、半島部の先住民族オランアスリや、サバ州サラワク州の 非主要先住民族です、典型的な例で言えばサラワク州の Penan族でしょう。オランアスリは10万人に満たない、penan 族はわずか数万人です。選挙で自民族から代表を選出するような人口を持たないし、僻地または郡部生活者ゆえに経済力は全くない、よって政治への発言力はほとんどない。penan族は国内からの支援のなさもあっていくつかの西欧国のNGOなどがその訴えを世界に広めていますが、マレーシア体制側は常にそれを糾弾しています。こういう真のマイノリティーが面している問題に対して、マレー人界も華人界も極めて無関心または傍観者です(もちろん、そうではないごく一部の人はいます)。

自民族よりも人口の多い多数民族に不満を表明すること自体、どの国の何民族だって当然の権利だと思います。しかしそれだけでは単なる”愛自民族主義”であり、自民族よりずっと少数のマイノリティーのことも考慮する思考と態度を備えるべきですね。それでなければ、真のマイノリティーは何らかのドラマティックな行動に出るしか手がなくなります。
「マレーシアはマレー人と華人とインド人とその他ブミプトラからなる国である」 という表現がよく使われる中、その他の中のマイノリティーのことを考える必要があることをここでちょっと触れておきました。


【ラオスの町でカジノホテルを経営開始するマレーシア企業のニュースに思う 】

3月29日の「新聞の記事から」 に載せた次の記事に関して書きます。

【ラオスの町でカジノホテルを経営するマレーシア会社】
消費物貿易とギャンブル方面のビジネスに関わっている Widetech Malaysia会社は、ラオスのThakhek 県にある カジノホテル Riveria Hotel の経営権を昨年ラオス政府との合意で50年間契約で得ました。これは(どこかの国の会社が受けていた)放棄されたプロジェクトを引き継いだもので、同社は US$300万をかけてホテル改装しました。カジノの営業を4月に開始する予定です。

客室数 50部屋のこのホテルの営業はすでに1月から始まっています。カジノ部門の収入が同社に貢献することになる、社の収入は来年に増加が期待されると、同社の社長は株主総会で明らかにしました。同社は昨年6月までベトナムのホーチミンシティーでカジノを運営していたとのことで、・・・・・
以下の部分はここで省略します


経済紙面にごく目立たず Beranama通信社配信として掲載されていた記事です。こういうニュースに注目を払う人はマレーシアであれ、日本であれまずいないでしょう。なぜIntraasia はこういうごく目立たない記事に目が留まったかです。

私はマレーシアに長年住んでいますが、いつも東南アジアの中のマレーシアという視点を持っています。80年代前半から東南アジアを徘徊し住み、広く興味を持ってきた者として、ラオスのような”発展の遅れた弱小国”のことはよくマレーシアとの比較で考えます。東南アジアの発展国としてのマレーシアの企業はいまやベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーに手広く進出しています。カンボジアとベトナムでは投資国としてはかなり上位の国です。ミャンマーには準国営石油会社 Petronas も進出していますね、つまり大きな権益が絡んできます。蛇足ですが、米国やフランスの巨大石油会社はミャンマーに権益を持っています。国連決議は権益を崩せない例ですね。

しかしこれまでも何回も書きましたように、マレーシアでこういった国の言語、文化、社会への興味はまったく起こりません。AirAsia が路線を持っているように比較的安価またはエキゾチックな旅行先としてぐらいの興味のあり方でしょう。一体どこに東南アジア共同体意識があるのか、今もってまったく感じられませんね。まあ金持ちさと英語流暢を自慢するシンガポール人の意識よりはずっとましでしょうが。マレーシアはこういった”発展の遅れた国”からの留学生も少なからず受け入れてます、英語教育自慢の特権というとこでしょう。

何年か前に「今週のマレーシア」でカンボジア訪問記を載せた中でも触れましたが、カンボジアのタイ国境に隣接した町には、複数のカジノホテルが早くは90 年代後半から営業しています。主対象のタイ人ギャンブル好きだけでなく、タイを訪問する外国人旅行者にも人気のようです。カンボジアはタイ国境地以外にもカジノホテルを認めており、その運営社の中にはマレーシア企業もあります。90年代末だったかな?カジノが始まってまもないタイ側アランヤプラテートに隣接するカンボジアの町Poipet を訪れた時、その人出で溢れる魑魅魍魎としたギャンブル町の情景に驚きました。日帰りタイ人ギャンブラーに混じって雇われ子供乞食、押し付け物売りから売春婦地区まで、金と人の流入によって劇的に変化しつつある町でした。なかば無法地帯寸前ともいえる繁栄と混乱に満ちた状況は、国家収入源としてカジノホテル営業を認めたカンボジアの国情を映していました。

私はギャンブルにはまったく興味ありませんが、カジノが悪いとはいいません、あくまでも個人の趣味で嗜好の範囲だと思います。やりたい人はやればいいのです。問題はこういうカジノホテルに国家収入を依存してしまうと、カジノ産業にどうしてもつきものの、負の面が広がることです。アンコールワットなどの観光産業以外に大きな産業のないカンボジアは、タイの隣国という立地とカジノをビジネスにしたいタイ企業の思惑が一致して、カジノホテルを数箇所にオープンさせたわけです。貧しい国でカジノは富めるものと貧困者の差を広げる方向に作用してしまいますし、カジノにつきまとう売春などを牛耳るギャンググループの暗躍を招きかねません、もちろんカジノ権益と税金と少数のカンボジア人雇用は国庫に貢献することが、プラス面であることは否定はしません。

さて今回別のマレーシア企業がラオスのThakhek 県にカジノホテルをオープンさせるわけです。Thakhek 県の場所を知る人はいないでしょうから説明しておきます。タイ東北部(イサーン)の県都ナコーンパノムのメコン川をはさんだ対岸の町です。私はタイの深南部とイサーンが好きであり且つ興味があるので長年訪れています。とうとうと流れるメコン川とこの地に触れた一節は、「今週のマレーシア」第 514回でも書きました。 タイとラオスの間にはかかる橋は、90年代半ばにノンカイに建設された友好橋が長年唯一の橋でした。2番目の国境橋として、2006年にタイのムクダハンとラオスのサバナケットの間にオープンしました。この建設は日本のODAによって日本企業が大きく関わって行われました。

橋の完成よって、それまでメコン川を者と物を運ぶ小船(ボートに毛が生えた程度です)で行き来していた流通に大きな変化が生まれたわけです。小船は依然として運行されていますが、バスがトラックが乗用車が海峡橋を通行できますから、圧倒的に人と物の流通が増えたことになります。 昔からタイ人の日帰りまたは1泊程度の町であったThakhek は間違いなく大きく変わったと推定されます、もちろんカンボジアのPoipet ほど変化する下地はないし、ナコンパノム自体白人や日本人などの外国人旅行者はほとんどやってきません(だから私は好むという面もあります)。

隣のタイ、そして背後は中国という巨大国に挟まれたラオスの生きる道は多くありません、幸か不幸か話者500万人ちょっとに過ぎないラオ語はタイ語とごく近い兄弟言語です。タイ文化が大挙して入りやすい環境です。昔から流れこんでいたタイ製品と同様に今では中国製品も大挙して流入しているそうで、ほとんど工業のないともいえるラオスは、国庫の収入源としてカジノ営業を認めたと推測しても間違いないでしょう。建設も運営もすべて外国企業任せで、カジノ権益料をラオス政府が取ると言うことでしょう。その場所を考えれば、当分はタイ人ギャンブラーがほとんどでカンボジアの外国企業運営カジノほど規模が大きくはなれないでしょう。

タイの娯楽産業でラオス人女性が数多くは働いているのは秘密でもなんでもありません、言語的近接差から彼女たちにとってタイ語を話すのは容易であり、バンコクなどの娯楽産業は手っ取り早く金を稼げることになります。Thakhek の町でカジノホテルが訪問者をさらに呼ぶことになれば、娯楽や飲食産業がさらに発展してこれは確かに経済的にプラスとなります。願わくば急激な金と人の流入によるマイナスの影響だけは起こらないで欲しいですね。決してPoipetのような魑魅魍魎とした町になって欲しくありません。

私はイサーンを訪れるいうもメコン川岸へ行って、タイ岸のラオス川を眺めます。アンダマン海のように青い海と白い砂浜の広がるわけでも、北部のチェンマイのように外国人旅行者に”占領”されることもない、なんの変哲もないイサーンの田舎町は私の好きな地です。そしてメコン川とその対岸のラオスに思いを馳せるのです。


【マラヤ鉄道ホームページの可笑しな間違い多きお知らせを訳すのは楽ではありません 】

マラヤ鉄道のホームページには昔から意味のはっきりしないまたは間違いの目立つ英語が散らばっており、時にその意味の読解に苦しみます。情報ははっきりと正確に且つ簡潔にという基本がおざなりな英語です。たまたま今晩開いたらまたまたそんな英語に出会いましたので、ここで紹介しておきましょう。

当サイトの常連の方ならご存知のように、Intraasia は反・独占英語の論をこれまで何回も何回も訴えてきました(同様に、偏狭な言語ナショナリズム批判もしています)。ですから、英語の間違いを皮肉るのではなく、マラヤ鉄道のような公的なページで発表する以上、間違いをぐっと減らし、意味のはっきりした文章にしなさいというのが私の主張です。所詮外国語として習った以上、ネイティブのプロライターが書く英語にはなりませんからそういうことを私たちも要求すべきではありませんし、完璧な英語にしろということではありませんよ。
次のその問題部分を抜き出してみましょう

Notice for Advance Ticket Booking for Short Distance Journey
短距離行程用に事前に切符購入されることに関するお知らせ (注:ここでは単なる予約ではないです)

というタイトルの後に次のお知らせが書かれています

Please be inform that effective from 01/02/2008, all advance purchase/booking for the sleeping berth; Premier Night Standard Class Cabin (ADNFB) and Superior Night Class Coach (ADNS) for all Ekspres Timuran (XT/14, XT/15) and Ekspres Wau (XW/16, XW/17) services has been rescheduled

もう書き始めから間違いが目立ちます。私が気がついた間違い部分を訂正しますと、 Please be informed that,  with effect from、 all the advance purchase/booking,
また for all Ekspres Timuran の all は不要のはずで且つ of にすべきでしょう。これは of the both Ekspres Timuran and Ekspres Wau とすべきですね。カウンターでbooking はありません、予約即購買つまり advance purchase でないと意味が可笑しくなります。尚マラヤ鉄道には e-mail booking という仕組みはあります。

次の1節はひどい文章であり、単に間違いと言うだけではなく意味があいまいになってきちんと伝わらなくなっています。
and all tickets purchase are made possible at the counter within 12 hours prior to the train departure time as all priorities are being given to long distance purchase only.

all tickets ではまるで全ての切符かのように思えてしまいます。ここは是非 all the ticket for short distance journey または all the short distance ticket と明確にすべきです。 purchase are made possible などと書かずに、all the short distance ticket can be purchased at the counter と書けばすっきりします。 within 12 hours は less than 12 hours でもいいでしょう。ただどちらがより良いかは私には判断つきません。 are being given などという受身進行形ではまったく可笑しくなります。 the long distance ticket (またはjourney) gets priority over the short distance tickect (または journey) とわかりやすく書くべきです。短距離切符よりも長距離切符に優先権がありますということです。

Please take note that Customers who wish to purchase tickets for the short distance journey in advance may require to purchase the long distance journey ticket and will be charge accordingly.

というこの文章も文法間違いだけでなくまことに意味のわかりにくい書き方です。 please note that とすればいいし、 be charged と受身にする必要がある。 may require ではなく need to purchase または  are required to purchase とすべきでしょう。

もっと真剣に不備を探せばまだ1つ2つぐらいはあるかもしれませんね。とにかくこの短い文にいくつ間違いと不明瞭な表現があるか、おわかりになったことでしょう。日本語に訳す方は楽ではないのです(笑)。


【長年暮らしていれば体得してそれに合わせていくしかありません】

「なんでも伝言板」に先日、マレーシアの大学に問い合わせメールを出したが返事が未だに来ない、といった内容の書き込みがありました(その後どうかは書き込みがないので知りません)。こういう書き込みを見ると、書き込まれる日本人の多数の人にとって普通のことといえる、公的機関たるものへの期待がそれなりに高いことがわかります。私もそれぐらいの期待感を持ちたいのですが、長年この地に浸って暮らしていると、その種の期待感はあまり持たないことにしています。なぜならがっかりすることが多いからです。

長年いろんな官庁に電話してきましたが(もちろんその場合はマレーシア語で話します)、まず担当部署または担当係にたどりつくまでがたいへんです。メールで言えば例えば出入国管理局にはこれまで数回メールを出していますが、一度たりとも返事はおろか、受け取りを知らせる返メールさえありませんでした。

つい最近も公的な機関・組織に本来は期待すべきことのいくつかがなされなかったことが起こりました。
まず毎月中旬に届くはずの Telekomからの各月請求書が今月届きませんでした。郵便局の誤配の可能性が高いのはこれまでの例から容易に推測できます。そして誤配された郵便物をその住民がポストなりに入れて直してもう一度配達に回す意識の欠如ですね。これは私の住むアパートが、住民の数割が頻繁に出入りをしている外国人労働者と違法中国人滞在者と避難民が劇的に増えてしまったせいもあります。届くべき郵便物が届かないのは、今年すでに数回起こっています。

このところ内臓の調子が悪く、限定した精密検査を受けたいなと思ってマレーシア国民大学の専門医センターに電話しました。しかし2日間に渡って10数回かけてもつながりませんでした。去年の11月に外科を利用しているので、手元にあるパンフレットと名刺の電話番号に変更があるとはまさか思いませんでした。マレーシア国民大学のホームページも見てみましたが、パンフレットの電話番号と同じです。仕方なく大学病院の代表電話にかけたら、早口の録音メッセージで電話番号変更が聞こえてきました。こうして 受付経由で専門医センターの電話番号を聞き出し、ようやく専門医センターにつながりました。 いつ電話番号が変わったのだと尋ねれば、もうずっと前だとの返事で、それ以上のことばは何もありません。大学病院の専門センターという重要施設なのに、電話番号が変更された後、旧番号にかけるとその変更を知らせるお知らせさえないのです。1,2ヶ月間はあったかもしれないが、病院という施設であれば、もっと長期、少なくとも半年ぐらいは番号変更知らせを機能させるべきですよね。ホームページはあるけど、必須の電話番号変更さえ未だになされていません、これまたマレーシア官庁の典型態度です。

マレーシアインターネットプロバイダーを独占に近い率で占める TMnet のブロードバンドを私は利用しています。ブロードバンドサービスに直接関するお知らせメールを送ってくるのはいいのですが、TMnet のその他関連及び他社ビジネス宣伝メールがよく送られてきます。そこでメール下部に常載っている、「このメールサービスを停めるにはこれをクリックしてください」 をクリックするすること、4,5回、しかし未だに同種の宣伝メールが送られてきます。「TMnet はお客様の要望に誠意をもって答えます」という文句は単なる飾り以外の何物でもありません。

というこことで、大学に送ったメールに返事がない、またはものすごく遅い返事だった程度のことで、あきらめてはいけないということですね。一般的なインフラ設備やショッピングセンターなど商業ビジネス施設はたいへん優れているのですが、その水準に見合ったサービスにいささか欠けるという点は承知しておくべきでしょう。尚世界の国国にはこの面でマレーシアよりずっと劣る国が多いことは十分に知っていますので、決してマレーシアをあげつらっているのではなく、マレーシア情報発信者としての知識として書いているわけです。


【ガソリン大幅値上げによって、公共交通網の更なる向上が緊要なクアラルンプール圏 】

現在マレーシアの一般大衆の一番の関心事は物価と言っても間違いではないでしょう。この数年ゆっくり確実に食品類が値上がりしていました。そこへ数ヶ月前から米が値上がりしていたところへ、先週急遽発表された、ガソリンとディーゼルの値上げはかなり大きな心理的影響を大衆に与えています。5日から即実施されたガソリン: RM 2.70 / リットル、 ディーゼル: RM 2.58 / リットル という価格は、隣国タイのそれの約7割ですからまだ比較的安いと言えます。なおシンガポールの価格がマレーシアの倍前後というのはその平均国民所得額から言えば当然でしょう。

マレーシアよりも平均国民所得の低いタイより安くても、これまで国家の補助金で安く抑えられたガソリン価格に慣れた国民はその大幅値上げに驚き、不満の声を上げています。 ゆっくり広範囲に起きていた食品の値上げに加えて、たちまち大きな幅で実施されそうな交通機関と燃料関連の値上げ予感を前にして、低所得者層に属する Intraasiaも個人としてはこの先の物価連鎖値上げに戦々恐々というところです。

一方公共交通網のかなり優れた日本で育ち、同じく公共交通網への捉え方の優れたヨーロッパ各地を数多く長く経験した者として Intraasiaは、マレーシア国民は公共交通を低所得者層中心の乗り物だという概念を少しづつしかし確実に変える必要があると強く思います。そこでそのためにはどうすべきかを述べてみます。

公共交通利用を奨励する論議になると、高架電車とモノレールは合わせて路線数が3つしかなく、それでは使えない、きめ細かく路線を建設しない限り使う気になれない、バスは時間が全然宛てにならない、時間がかかりすぎる、などという批判が国民の間からしょっちゅうでてきます。

莫大な建設費用のかかる電車をきめ細かく建設などできるわけないという、常識的な理解ができないといえます。バスの運行を宛てにできない、不確実な運行にしている大きな原因は(唯一ではないが)、自家用車とバイクが道路を占領しているからです。バスレーンを設置してもほとんど誰も守らない行動を変えない限り、いくらバスの運行を増やしても、バスは交通渋滞で身動きできず不正確で宛てにならない運行にならざるを得ません。

身勝手行動の例として例えば、クアラルンプール圏の都市部の多くのバス停をご覧ください。バス利用者を無視してバス停前に停車・駐車した自家用車の多いこと、さらにタクシーがバス利用者の利用を期待してバス停前に陣取っている。こういう自家用車族とタクシーはバス利用者の邪魔をしていることを意に介さず、全く気を使おうとしません。乗客が乗降するのバスの脇をかすめて疾走するバイクの危険行動は目に余るものがあります。

こういった身勝手行動はマレーシアのどの民族、どの年代にも共通したものであり、公共交通機関を真の大衆の足にするためには、単に路線を増やしたり車両を増やすだけでは不充分であると私は確信します。しかしマレーシア国民の捉え方はそうではなく、とにかく路線を増やせ、車輛を増やせですね。 Intraasia は1990年初期からクアラルンプール圏の公共交通機関を広範囲(3桁路線数)に且つ数多く(4桁回数の中位)利用してきましたので、状況はかなり的確につかんでいる自信があります。現在の電車網とバス網でももっともっと効率的に且つ時間正確に運行させれば、クアラルンプール圏都市部の公共交通はかなり向上すると思います。

そのためには、自家用車とバイク族だけではなく、バスと乗客側にも多いに責任があります。
バス会社と電車会社は車輛の整備をきちんと行って運行中の故障と突然の運行停止をなくすこと。バスの運転手は決められた時間にきちんと発車し、バス停通過を行わないこと(バス停で待っているだけではバスは停車しません、合図する必要があるのですが、車の陰などになってバスが一瞬見えないこともあるし運転手が気がつかないこともよく起こる)。バス乗客と電車乗客に、降車客優先というごく基本的なルールさえ守れない者が圧倒的多数を占めるので、混雑時間には常に入り口で押し合いへしあいとなって、弱い者は弾き飛ばされる。こんな社会行動の常識を1から教え込む必要があります。

 Rapid KL バス乗客には前乗り、後降りルールを徹底させること、乗客と運転手の双方にこれが全く守られていない、乗降に余計な時間をかからせている。 バス利用者が運賃引き落としのプリペードカードをもっと利用するようになること。バス停、とりわけ郊外のバス停の屋根とベンチをもっと利用者に優しいものにする(豪華にしろということではない)、現在の屋根では強い一時雨には役立たないし、座る場所が少なすぎる。 さらに路線図をバス停に掲示しても破壊活動ですぐ壊されてしまうという、社会問題もあります。

思いつくだけでもこれぐらいの改善策がすぐ浮かびます。これらを実行するためには乗用車・バイク族とバス・電車会社とバス電車利用客の3者皆の意識と態度の向上が必須ですね。クアラルンプール圏の電車新路線建設が完成するまで待つしかないとか、バス便が増えない限り状況は改善されないという、あきらめ論を述べることは、所詮いつまで経っても公共交通システムの改良と改善に結びつかないことに、多くの市民が気づいて欲しいものです。クアラルンプール圏の公共交通システムを良くするには、決して政治家と行政だけでは解決できません、市民多数の意識と行動がそれ以上に緊要ですね。



パハン州−スランゴール州水資源移送プロジェクトには多いに日本が関わっている


この両州間のプロジェクトは、日本の国際協力銀行が多額の資金を借款供与するという面で、そして恐らく日系企業も工事を請け負うであろうという面で、日本が多いに関わっています。派手なニュースではありませんが、プロジェクト協定が結ばれる前から、ときたまニュースとなっていたことを私は覚えています。あまりにも断片的で且つときたま現れるだけの記事のために、全体像がどうもつかめませんでした。

たまたま 08年5月13日付けThe Star 紙では、このプロジェクトを2ページの特集記事として載せました。プロジェクトの過程を批判的に捉えた視点が感じられる記者のまとめた記事です。そこでその特集記事から抜粋訳しました。

以下は記事からの翻訳

ダムプロジェクトで移転を余儀なくされる先住民族の村

パハン州のKelau ダムプロジェクトは、1990年代スランゴール州で何回か発生した水不足のできごとと将来水供給が足りなくなるという心配から、論議に載せられました。パハン州からスランゴール州まで水を移送するというこのプロジェクトでは、Kelau川に Bentong 町近くで30mダムを建設し、4090ヘクタールの貯水池を作り、長さ45Kmのトンネルを建設します。スランゴール州に送られてきた水は、Hulu langat 地方の浄水場に着きます。

このプロジェクトではいくつかの居住地で住民が移転させられることになります:Raub 町 近くにあるSungai Temir 地方に住むオランアスリ Temuan 族の人たち、Bukit Cenal に住むアランアスリ Chewong族の人たち、連邦土地開発公社翼下でKelau 地方に入植した農民です。 (注:オランアスリは半島部の先住民族です)
プロジェクトによって、広大なLakum森林保護地を含む全体で4090ヘクタールの土地が水没することになります。

日本からの借款

このKelau ダムプロジェクトの総費用は(トンネルと浄水場の建設費を除く) RM 38億で、一部を日本の国際協力銀行(JBIC) からの借款でまかないます。国際協力銀行 は世界銀行に次ぐ世界で第2位の開発銀行です。年間支出額 US$170億になります。その主たる事業目的は、発展途上国の政府に開発プロジェクト用に資金貸与すること、 及びそういった国々で事業を行う日本企業を支援することです。 1969年から2001年までにマレーシアは二国間借款として 8274億円を受けました。2004年にマレーシアは二国間援助としてUS$2億5千万を受け、その内のUS$2億1千万は二国間借款です。わずかUS$100万だけが無償援助でした。

「日本のマレーシアに対する外国援助政策:新宮沢プランとKelauダム建設に関する事例研究」 と題された研究報告によれば、日本はマレーシアに1995年から2000年までにUS$4億2600万の借款を供与した。しかしその利点は、借款返済によってなくなってしまっている。返済額はUS$8億1千万です。「この意味は、日本のマレーシアへの純外国援助支出額はマイナスです。つまり別の言い方をすれば、マレーシアが日本に返済する額が受け取った額より多いということです。」 と研究報告は書く。

日本の資金借款はマレーシアでの最近のダム開発に役立ってきました: ケダー州の Beris, サラワク州のbatang Ali などです。 この両ダムプロジェクトにおいては、住民は移転させられましたが、賠償額に関しての争いと未払いの問題が起きて片付いていません。批判者は言う、日本の借款は利率が高すぎる、そして借款の付帯条件が厳しい、例えば日本人コンサルタントを雇う、日本の元請建設会社とエンジニアリング設備にするといったことが含まれている。

プロジェクト反対者側の意見

Kelau ダム兼水移送プロジェクトは最初2003年に、マレーシア国内と国外の非政府組織から反対の声が上がりました: オランアスリを考えるセンター、Sahabat alam Malaysia, 地球と日本の友などからです。 こういった非政府組織は、借款を認める際の条件に従って、国際協力銀行の環境と社会ガイドラインを尊重すべきだと要求しました。 (このプロジェクト以前に)それまでのいろんな批判に答えた国際協力銀行 は1999年にこういったガイドラインを導入していました。

批判者からの意見に答えて、プロジェクト期間がすでに2回変更されました、最初は2005年−2012年、 次いで2008年−2015年と変わりました。RM 24億の借款協定は最終的に2005年3月に結ばれました。いろんな障害を乗り越えたと思って、マレーシア政府は6月にはプロジェクトが立ち上がることに自信があります。新しく就任したエネルギー・水・コミュニケーション大臣は、土地収用は続いており、入札が値踏みされていると語りました。彼の前任者は1月に、スランゴール州開発会社であるKumplan Darul Ehsan 会社に建設契約及びパハン州からに水が到着する浄水場の運営権を与えていました。

プロジェクト反対者側はあきらめていません。昨年10月オランアスリは環境影響評価の承認を巡って司法判断を求める手段に出ました。その中には、オランアスリがプロジェクトに同意して進んで移転するという報告書の内容に挑戦している部分があります。訴訟を受けた高裁は、裁判の開始を7月と決定しました。訴訟団の弁護士は、影響を受けるコミュニティーは相談を受けていない、影響評価の承認がなされた後の2002年に知らされただけだ、と語る。

とりわけアランアスリ Chewong族の人たちは、その住む居住地が高台にあるので影響を受けないので移転しないと巌と主張しています。訴訟を起こした側はさらに、環境影響評価は生物学的多様性評価の点でいい加減であり、プロジェクトの水資源供給代替地(例えばペラ州のペラ川から)を検討することが考慮されていないと、主張しています。 オランアスリに関するセンターは、「水没する森林とひどい生活:オランアスリとKelauダム」と題した30分のビデオを製作して、プロジェクトを批判しています( www.coac.org.my) (西欧人でオランアスリのための活動で知られた)センター議長は語る、「このプロジェクトはある特定の人たちが建設計画で利益を得るまた一つの方策です。」 彼は国際協力銀行(JBIC)が独自に影響評価したのではなくマレーシア政府によってなされた影響評価に依存していることを、とりわけ批判しています。

議長はさらに、Chewong 族の人たちは現在の居住地から40Km 離れたSungaiBilutへ移転させられることに同意していないとの立場を崩していませんと、Chewong族の立場を代弁しています。「強制移住活動はその居住地を他者のために空けることになってしまう。」 と心配する。スランゴール州のスンガイスランゴールダム建設に際して 、kampung Petrak に住んでいたTemuan 族の人たちがKuala Kubu baru に移転させられた時、その空けた土地を影響力のある人らが取ってしまい休暇村を建設した例を、議長はあげます。

国際協力銀行の言い分

一方国際協力銀行(JBIC)はそのガイドラインに沿っているとその姿勢に満足しています。JBICの代表は語る、「マレーシアのエネルギー・水・コミュニケーション省はJBICのガイドラインに十分に従った、と我々は理解しています。省から、手続にはきちんと従ったと聞いています。」 「(オランアスリ側の裁判に関しては)それはマレーシア政府に対することです。我々は発言する立場にありません。」
以上は記事からの翻訳


人里離れた山地にダムを建設し、そこから水をはるばるスランゴール州に引いてくるために長いトンネルも建設するプロジェクトです。そういった建設の影響で強制移住対象となるのはマレーシアで最も弱い立場の人たちの一つであるオランアスリのため、これまでの例のようにこの問題は一般社会の注目をあまり集めません。またオランアスリを主たる支持基盤とするような政党もありませんので、各政党からの声もほとんど期待できないでしょう。さらに水が足らなくなるのでは大変だ、行政はなんとかしなければならない義務がある、という一般市民心理は、プロジェクトを進める側には有利に働きます。こうしたことを踏まえて、こういうニュースを読む必要があります。さらに援助する側には、プロジェクトによって恩恵を得る立場の人とそうでない立場の人の両方を考慮する視点が必要ですね。

パハン州−スランゴール州水資源移送プロジェクトについては、上記に書きましたようにマレーシアの情報開示が少ないこともあって、私にも詳細がよくわかりません、そのため簡単には判断ができないところです。そこで一つの立場からの比較的まとまった記事としてここで紹介しておきました。

参考

8月1日付けの「新聞の記事から」再録

パハン州−スランゴール州水資源移送プロジェクトは2007年11月に当時の州政府間同士で調印されました。総額RM 50億の水資源移送プロジェクトは、2015年までに水資源問題に面するかもしれないスランゴール州へ、パハン州から水資源を移送するプロジェクトです。この協定によって水資源を供給するパハン州は、年間RM 7千万をスランゴール州から得ることになります。

(引き続き与党連合Barisan Nasional が州政権を維持する)パハン州の州首相はこの調印を尊重する立場から次のように発言しています、「このプロジェクトの交渉はまとまったにも関わらず、現在まで何ら進展していません。協定が調印されて以降発展がまったくない。(当時の州政権に替わって、野党連合 Pakatan Rakyat が州政権を握った)スランゴール州の州首相はわたしに会いに来ていませんし、私も彼に会いに行っていません。」 パハン州州首相は言う、「水価格はまだ交渉できます。プロジェクト協定の見直しもできます。パハン州としてはこの協定を尊重していく立場です。」

8月3日付けの「新聞の記事から」再録

2007年11月に当時の州政府間同士で調印された、パハン州−スランゴール州水資源移送プロジェクトはほとんど進展していません。スランゴール州では州内の水を浄水し配給する会社・合同企業体が4社あり、州政府はそれを買収し再改編して州翼下に収める計画をすでに明らかにしています。そこでスランゴール州州首相は言う、「この再編課程のために、水特権を授与された 4社とパハン州間の関係に影響を及ぼすことでしょう。 私はパハン州首相宛てに手紙を送って、そのプロジェクト契約尊重の意思に感謝を表明します。これとは別に国のエネルギー・水・コミュニケーション省と再改編に関する会合を持つ意向です。

スランゴール州水セミナーの中で、州政府幹部は明らかにしました。 スランゴール州州政府は、州内の全ての貯水池地域を官報化する道を探っており、少なくとも4つの貯水池地区を官報掲載化すべく提案しています。貯水池を守る意向は、2010年にスランゴール州の水危機がやってくるかもしれないという見方に備える中でなされました。4つの貯水池は Kuala Selangor , Hulu selangor, Sepang , Kuala langat の各郡にあります。州内の水関連会社を買収し再改編することには、州翼下会社が主として関わることになります。

同セミナーでマレーシア技術大学の副学長は主張する、「巨大プロジェクトに強調が置かれすぎてきた。パハン州−スランゴール州水資源移送プロジェクトは費用が巨大で対処するに難しい。まず当局は、水資源計画と技術を研究すべきです。」




マレーシアの国家歳入はかくも石油とガスに依存している


政府が6月にガソリン類の値段を大幅に値上げしたことから、国の石油・ガス産出産業を独占している Petronas のありかたと会計状況に多いに注目が集まりました。

Petronas の発表した数字は極めて示唆に富んでいた

先日7月16日の新聞に次のような記事が載っていました。

Petronas は2008年3月末の会計年度で、国庫に RM 676億も納めています。これは国家歳入の44%にもなります。 

国策石油会社 Petronas の社長兼経営最高責任者は会社の年度業績を発表した後で、こう主張する、「マレーシアは石油と天然ガスからの収入に依存しすぎです。このような限りのある資源に大きく依存するのは国として危険です。国が発展してないかのように思えてしまいます。マレーシアが独立した時、国はゴムと錫の産業に依存していました。少なくともその当時、ゴムは栽培できるゆえに無限の資源でした。しかし石油は錫と同じように枯渇してしまうのです。」 

「製造業分野に何が起きたのでしょうか? それの国に対する寄与は何だったのでしょか?真に構造的な問題です。」 「マレーシアは外国からの投資として何十億にも上る投資を受けて国内に工場を建設してきた、それにも関わらずそういう投資の国家への寄与が見られません。」 さらに社長は疑問を呈する、「マレーシアは長い目で見たとき、生き延びていけるのでしょうか?」  「国内の他の石油・ガス会社が納める税金を加えれば、その総合計は国家歳入の50%を超えています。」 「石油マネーに対する依存は依存症になっています。政府はなんらかの解決をしなければなりません。」


産油国マレーシアは石油を輸出し且つ輸入している

どういう意図から発せられたにしろ、この発言は極めて示唆に富んだものです。当該年度の国家歳入の44%を石油と天然ガスからの収入に依存するというのは、中東の産油国ならいざしらず、産業発展と観光立国を目指す中進国のマレーシアとしてはあまりふさわしい数字ではないはずです。

マレーシアは産油国ですから、もちろんその利点を多いに活かすべきですが、それへの過剰依存は近い将来の国家計画に支障をきたすことになるでしょう。産油国マレーシアは石油を輸入し且つ輸出しており、現在多少輸出が上回っている状況です。しかしこの状況は、石油の国内需要が年率 6%の伸びを維持する限り、2011年には輸入が輸出を上回ることになると推測されています。もし国内石油需要の伸びがより少ない 4%であれば、差し引き輸入国になるのは2014年だろうとのことです。

Petronas の収入と利益と納入の詳細を検討

それでは国策会社である、 Petroliam Nasional Bhd (通称 Petronas)の所得と利益を細かく見てみましょう。
Petronas が政府に納める金額の内訳 (会計年度は3月期) 単位はRM
内訳 連邦政府への
ロイヤリティー
配当金 石油税
及び法人税
輸出税 国庫へ納める
合計
州政府への
ロイヤリティ
総合計
2009年度
62億
300億
294億
22億
678億
62億
740億
2008年度
47億
240億
260億
21億
568億
48億
616億
2007年度
43億
200億
218億
20億
481億
42億
523億

注:州政府とはトレンガヌ州、サラワク州、サバ州の3州です
注:2009年6月に追記しました

国庫歳入に占めるPetronas の寄与分を暦年で見てみます: 2007年36.8% 、 2008年 44.9 %になるとのことです、まずなにはともあれこの数字に驚きます。現実はこの後に書きますように、国家歳入の過半数を石油・ガス業界からの納入が占めているそうです。

なぜPetronasはこれほど巨額を国家に納めることができるのか、次の統計をご覧ください。
Petronasの利益とその使い道

Petronas グループ
その内 Petronas 本体
会計年度2008年度2007年度歴年の累積額2008年度2007年度歴年の累積額
税金とロイヤリティーと輸出税を
支払う前の総利益
1071億
868億
6771億
640億
581億
4651億
利益の使い道
 ・国と州政府へ納入
676億
523億
4033億
583億
447億
3568億
・少数株主への利息と外国への税
82億
78億
789億
----
---
----
・再投資に回す利益
313億
267億
1949億
57億
134億
1083億

注:歴年の累積額とは1974年の創業以来の合計額を意味します。

総利益 RM 1071億の中から再投資に回した利益の率は 29.2%   この数字は世界の主要石油会社の50%からみればぐっと少ない数字だそうです。例えば2008年度のPetronas 本体だけをとれば、利益の91%が国と州へ納入されていますね。 

この5年の国庫への納入額は極めて巨額であり、それが石油ガス依存を高めた

国と州政府への納めた額の累計額 RM 4033億の内、2004年年度から2008年年度の5会計年度だけでRM 2020億も占めてしまいます。つまりこの最近5年の納入額がいかに巨額であるかを示しているとともに、国庫がPetronas に依存する率の上昇を招いていることになります。

Petronas の国庫への寄与の推移 

2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
国庫へ納めた総額 RM
190億
290億
439億
481億
628億
その納めた総額が
連邦政府の歳入に占める割合
20.1%
28.7%
34.4%
35.4%
44.0%

この数字を見て、Petronas がマレーシア国家財政にいかに貢献しているか、というより国家財政がなんと Petronasに依存しているかに驚きました。
2008年度に関して言えば、Petronas だけで国家歳入の 44%を負担しています、加えて他の石油・ガス会社からの納入を加えると、歳入の50%を多少超えるそうです。つまりマレーシア国家財政は過半数割合を石油とガスに依存しているということです。経済の専門家ならずとも、マレーシアぐらいの規模の国家がその国庫歳入を単産業に過剰に依存していることは好ましいことではないことがわかりますよね。

この事実は、これまでほとんど公表されてこなかったことから、専門家を除くほとんどの国民には相当意外な事実です。このことを経済専門家や学者やマスコミの経済専門記者などは知っていたでしょうから、なぜマスコミはこの事実を強調報道してこなかったのだろう? 

マレーシアの誇る巨大企業グループ

Petronas グループは約30カ国に渡って合計3万人を超える従業員を擁しているそうです。その従業員の82%はマレーシア人です。Petronas グループは現在では海外への事業により重心を置くようになっているとのことで、それを示すのが海外からの収入の占める割合の増大です。2008年度の総売り上げ額 RM 2231億の内海外事業収入がRM 900億を占め、これは40.3%にあたります。 2008年度の海外収入は対前年比33%増でした。

欧米発行の有名な経済雑誌 Fortune の発表する”世界500社”の番付で、Petronas は最も収益の高い会社の第8番目に載っているとのことです。
ぺトロナスグループの財務会計

リンギット表示

米ドル換算
会計年度は3月末
2008年
変化率
2007年

変化率
総売り上げ額
2231億
21.2%
1841億
29.8%
税引き前利益
955億
25.2%
763億
34.6%
純利益
610億
31.5%
464億
40.3%
総資産
3393億
15.2%
2946億
24.4%
株主のファンド
2010億
17.6%
1709億
27.1%

注:リンギットが米ドルに対して切り上がったために米ドル表示では変化が増えています。

このようにペトロナスグループは膨大な利益を計上しています。

Petronas が負担するガスへの補助金額も巨額である

マレーシアではガス類も価格統制品としてその値段を自由市場価格より下に抑えられています。国策会社である石油ガス産出企業 Petronas は、そのガス類に補助金を出すことが運命付けられています。
プロパンガスは現在 RM 1.75/Kg ですが、自由市場価格は RM 3.84/Kg になるとのことです。つまり RM 2.09 /Kg の補助金をPetronas が負担しています。
自動車用の天然ガスは RM 0.68/リットルですが、自由市場にすればRM 3.22 /リットルになるとのことです。つまりRM 2.54 /リットルの補助金をPetronas が負担しています。

電力会社 Tenga Nasional と独立系電力会社へ、さらに工業、商業施設、家庭へガス供給をしているPetronas は、これと同じようにそれぞれ率は違っても補助金を出して価格を低く抑えています。その合計額が2008年度でRM 200弱にもなります。いずれも2007年度に比べて大きく増えました。次の表でその様子がわかります

Petronas の負担する補助金額 単位 RM


2008年度変化2007年度1997年からの累計
電力業界
138億
17.9%
117億
626億
 全国電力会社 TNB
57億
50億
269億
その他独立系電力会社
81億
67億
357億
非電力業界工業、商業、家庭
59億
51.3%
39億
153億
ガス補助金の合計
197億
26.3%
156億
779億

電力料金のような基本エネルギーの価格決定には国家の政策が多大に影響しますから、自由市場価格にまかせるようなことはあまり考えられません。よって国はPetronas が補助金を負担することでガス料金を抑え、結果として電力料金をある程度低く抑えていると読めます。 Petronas が国策会社であるからこそ、こういう形を取ることができるわけでしょう。

直接税の少ない国マレーシア

ここに載せましたいくつかの統計数字を知ったことにより、これまでほとんど一般市民に知らされていなかった、つまり隠してはいなかったが積極的に公表されていなかった、マレーシア国家財政の歳入面での実態が明らかにされといっても過言ではないでしょう。

参考としてこれまで公表されてきた表を掲げておきます(注記ともども2007年当コラムで掲載したものです)。
連邦政府の収入源

収入合計額
直接税 49.8%
間接税 20.3%
非税金収入 29.9%
対GDP割合

法人税
石油収入税
個人所得税
物品税
販売税
免許・許可料
投資収入
2006年度実績
RM 1235億
21.4%
16.7%
8.3%
6.9%
5.3%
7.5%
20.1%
21.6%

直接税 49.5%
間接税 18.4%
非税金収入 32.2%
2007年度予測
RM 1418億
21.7%
15.9%
8.6%
6.0%
5.0%
6.5%
23.7%
22.7%


私は以前から、年間 RM 100億前後の所得税総額では国家歳入に占める割合が随分と低いなと思っていました。2007年でRM 117億、国庫歳入の8%強とのことです。勤労者1100万人弱の内、所得税を納めるのは100万人ほどに過ぎないとのことです。

マレーシアは相続税という仕組み自体が存在しませんし、住民税もありません。さらに昨年、不動産取得と販売から得る利益に課する税もほぼ撤廃するという方針を打ち出しました。このようにマレーシアは直接税種と額の少ない国家です。つまり直接税によって、国民間にある所得と資産の巨大な格差を是正するという経済思想が薄い国です。

国家歳入に占める直接税額の比率の比較的低さを埋めるものとして、数年前まではPetronas の石油ガス収入から生まれた納入金であったと言えるでしょう。しかし2008年度は、Petronas 納入金だけで国庫の44%、石油ガス業界を合わせれば50%強という数字は、石油ガスからの納入はもはや国庫の収入を補うものではなく、国庫収入の過半数を依存している第一の収入源になってしまったというのは驚くべき事実だと、再度強調して、このコラムを終えます。



続・マレーシアの新聞事情を数字から詳しく見てみる


2007年に掲載した、第488回コラム 「マレーシアの新聞界事情を数字から詳しく見てみる」の続編という形です。今回紹介しますのは最新とまではいえない統計ですが、新聞事情を判断する際に多いに参考になる数字です。

新聞実売部数

国内の新聞雑誌の発行数を調べる、発行数監査事務局が発表した最新の報告からです。調査は2006年7月初めから2007年6月末までの 1年間です。
新聞全体の発行部数は、対前年度(2005年7月から2006年6月まで)比12%伸びて、約280万部でした。その内首都圏での部数が40%、約110万部を占めます。
言語紙別と地理別発行部数
言語別英語紙(複数)華語紙(複数)マレーシア語紙(複数)

半島部サバ州サラワク州
割合
43%
32%
25%
部数
2,471,057243,549167,149


実売部数合計10万程度のタミール語諸紙はこの監査に加わっていません、監査はあくまでも発行社の自主申請に基づくのだそうです。
ところで、参照した新聞記事の書き方があいまいなので、この表内の割合が全国におけるものか首都圏におけるものかのどちらであるかはっきりしません。いずれにしろ、マレーシア語紙の比率が25%にしかすぎないということから、国語マレーシア語の実際の地位がこれによってもおわかりになることでしょう。当サイトでこれまで何回も何回も論じてきたように、40年以上に及ぶマレーシアの国語政策の失敗がここにも見られます。

この表から読み取れる事実には他にも興味深いことがあります、例えば半島部並みの面積を持つサラワク州で新聞がたった17万部弱しか売れないという点です。なお、サラワク州地元紙(英語紙または華語紙)の中には監査に加わっていない社もあるようですが、大勢に影響ないのは間違いありません。

部数の多い新聞を抜粋(全紙を網羅してないので番付ではありません)

星洲日報The StarThe SunNew Straits TimesUtusan MalaysiaBerita HarianHarian Metro

華語紙英語紙英語紙
英語紙
マレーシア語紙マレーシア語紙マレーシア語紙
売価
RM 1.3
RM 1.2
無料
RM 1.2
RM 1.5
RM 1.5
RM 1.2
日部数
357,163
309,181
256,486
139,763
197,033
192,917
289,315

日曜版
平日と同じ
322,741
153,409
459,793
314,321
314,321
その名称
Sunday Star
New Sunday TimesMingguan MalaysiaBerita MingguMetro Ahad
売価
RM 1.3
RM 1.5
RM 1.5
RM 2.0
RM 2.0
RM 1.5

The Sun は無料新聞です。つまり購読料を読者から取らずに、広告収入だけに頼っている新聞です。尚配達料として30セントかかると新聞に記載されています。

奇妙な日曜版別免許制

国内の新聞はまず国から発行免許を得なければなりません。そしてその免許は毎年更新が必要です(2008年にこの更新を複数年とするような案が出ています)。インターネット時代を想定していなかった時代に作られた法律上の不備?から、インターネット専門新聞はこの発行免許を事前取得しなくてもよいとのことです。

マレーシア新聞界の奇妙な発行慣習というか新聞出版免許制の奇妙な制度として、土曜日を含めた平日発行版と日曜版は別免許となっています。どういうことかといいますと、同一新聞社且つ同一編集部なのですが、日曜発行版だけは新聞名を多少変えて発行しています。どのような経緯から、そしてなぜこういう仕組みになったのか私は知りませんが、推測すれば植民地時代からの慣行のようです。ただし華語紙は伝統的に平日版と日曜版の区別はありません。よってこの平日版日曜版区別制が益々奇妙に思えますね。

華語紙の特徴

華人はマレーシア人人口の約25%を占めています。従って人口比に比して華語紙の発行割合の高さ、つまり部数の多さが目立ちます。なぜなら華人人口の大多数が華語紙をもっぱら読むというのではなく、英語紙購読人口がかなりの割合を占めているはずだからです。さらに華語紙だけが夜版を発行していることは、特筆すべきことです。夜版は日本の夕刊とは違います、翌日の朝刊の早刷り版という体裁であり、主なニュース紙面以外は朝刊とほぼ同一です。もう一つ華語紙の特徴を上げれば、広告が非常に多種多様で量も多いということです。英語紙も広告は多いのですが、華語紙は華人対象ということから広告種の内容に違いがあります。広告の種類の豊富さと量の多さの面からいえば、マレーシア語紙は英語紙と華語紙にまったく適いません。その差は歴然といえるほど大きなものです。

こうした特長を考慮すると、華語紙はそれだけ販売努力が他言語紙に勝ると言ってもいいでしょう。 その結果といえるのが、華人しか読者のいない星洲日報が国内新聞中で最多部数を誇る新聞になったということでしょう(この1,2年でトップに躍り出た)。

雑誌は監査申請を希望する社が少ない

発行数監査事務局が発表した最新の報告には雑誌に関してもあり、総発行数は対象年(上記の期間と同じ) 1,536,947 部でした。ただしこれは監査を受けない雑誌の方がはるかに多いことから、全体の5分の1程度と推測されます。事務局長は訴える、「広告主とメディアは監査数字に頼ることができる、そのマーケティング、広告戦略などの基準になります。」 として、出版発行者にその出版数を国際的基準によって監査する必要性を訴えています。
いずれにしろ、マレーシアの雑誌界で1回の発行で50万部数を超えるような雑誌はないということは明らかですね。



公務員への応募事情と状況


公務員が話題になると、その人員はブミプトラばかりという印象を誰でも持ちます。事実その8割強がマレー人を主体としたブミプトラです。

「このところ公務員への応募がぐっと増えた」という、 2007年12月16日の記事を紹介しましょう。

かつてマレーシアがまだ巣立ちした頃は公務員になりたい希望が非常に高かった、その後経済成長するにつれて、民間への就職傾向に変転していきました。ところが最近また公務員への就職希望が非常に上昇してきました。例えば、この数ヶ月保健省が大学卒対象の求人を掲げたところ、求人数153人に対して、なんと4万人もの応募がありました。加えて非大学卒職種への応募が急増している事実があります。

この傾向変化は2007年年7月に公務員給与改正があってからさらに顕著になりました、給与が7%から35%増加して、民間にひけをとらないようになったのです。公務員職に人材を配置する組織である公共サービス委員会のホームページをみると、こういった傾向は保健省に限らず、各省庁に渡って公務員全体に広がっています。昨年だけでも、公共サービス委員会には67万人の応募がありました。次ぎの表を参照。
公務員 2006年大学卒求人の例
大学卒職の種類省庁求人数応募者数
会計官会計庁
14
8114
調査官漁業省
2
21941
カウンセラー公共サービス庁
17
10106
工場と機械維持職人的資源省
8
4065
情報技術官公共サービス庁
100
12937
電子技官鉄道庁
1
3705
調査官反汚職庁
33
12055
法務官検察庁
146
2357

マレーシア雇用者連合の議長は公務員応募が増えた理由を説明する、「はっきり言って、大学卒が公務員を目指す数が増えたのはその給与が魅力的になったからです。」

公務員の給与体系を見てみましょう。公務員給与雇用などを司る役所である 公共サービス庁の給与と手当て部の長は語る、「公務員の給与が低いという思い込みは間違いです。」 「大学卒の初任給等級は41等級から開始します。管理部門での基本給はRM 1993、加えていろんな手当てがあるので、支給額は約RM 2800になります」との説明です。
大卒程度初任給 41等級の給与と手当の一覧表  金額単位は全てRM 
職種基本給固定手当住宅手当生活手当重要手当公共保健手当総額 
管理・外務サービス職
1993
300
210
300
2803
医務官
1999
300
210
300
500
1040
4349
研究官
1899
300
210
300
92
2803


公務員には給与と手当に加えてその他の特典があります。その一番は、医療福祉の面です。本人だけでなく配偶者と子供、さらには両親にも適用されます。つまり政府病院と医院では公務員とその家族は一般に無料となるからです。 次いで特典には、住宅ローンと自動車ローンの利率が年4% の適用を受けます。いうまでもなく、公務員には定年後年金を受け取れる恩給制度があります。こういった諸所の面を考慮すれば、「公務員は非常に良く扱われています。」 と公共サービス庁の給与と手当て部の長は語る。

ただこういう公務員求職の増加にも関わらず、公共サービス庁によれば、保健と教育部門で10万人ほどの空席があるとのことです。それは「適職な候補者を見つけられないからです。求職者の資格に難があるのです。」


このように、公務員には優遇措置があるのです。公立病院と医院では、差額ベッドのような費用は除いて通常の通院診断・治療は無料ですし、ローンの利率が低いというのはその返済期間が一般に長いことから、民間の勤労者からみたらうらやましい点でしょうね。まあ、何よりも身分が安定しているというのが、世界のどこの国でも公務員ならではの特典ではないでしょうか。マレーシアの公務員総数は100万人をやや超える程度の数であり、これは大雑把に言って被雇用者総数の1割ぐらい、つまり10人に1人に当たります。

給与面でいえばマレーシアは大学卒と非大学卒の給与差の著しい社会ですから、大学卒 総額RM 2803 という金額は民間からみても決して低い金額とはいえないでしょう。個人所得ではありませんが、次の世帯所得分布をご覧ください。
マレーシア人家庭の月間世帯収入額とその割合
収入額
RM 1千以下
RM 1001 - 2000
RM 2001 - 3000
RM 3001 - 4000
RM 4001 - 5000
 RM 5001 - 10,000
RM 1万以上
割合
8.6%
29.4%
19.8%
12.9%
8.6%
15.8%
4.9%


追記:08年8月28日の新聞から

国会で内閣府の副大臣が答弁で明らかにした数字です。
「公務員への応募者総数は今年(08年)上半期が80万人弱でした、その中から雇用した割合を民族別にみると、マレー人応募者の3.1%、華人応募者の6.4%。インド人応募者の5.3% になります。」 「(100万人を超える)公務員全体数の内、警察官と軍人を除いた2008年6月時点の総数は 865,257人です。その内ブミプトラが 88.1%、 華人が 7.2%、 インド人が 4.2% を占めます。」

「公務員における上級経営陣層での民族別構成は、マレー人 83%、華人 9.7%、 インド人 6.4%、 その他 0.9% になります。経営陣層と専門職層をみると、マレー人 83.8%、華人 10.87%、 インド人 5.0%、 その他 0.4% になります。一般層はマレー人 89.7%、華人 6%、 インド人 3.9%、 その他 0.4% になります。



マレーシアの地名と道路名を複数言語で表示する、及び面白い村名


マレーシア語名と英語名が違う場合はごく少ない

マレーシアは複数言語使用社会ですから、地名も複数言語で表記することになります。しかし国語のマレーシア語が英語のアルファベットと全く同じ文字を使用していることから、結果としてマレーシア語の表記は英文字表記ということになります。しかし言うまでもなく、各言語が独自の音韻体系を有していることから、同じつづりでも発音は違います。つまり、一つの地名表記をマレーシア語的に発音する場合と英語的に発音する場合ではかなり違いがでてきます。

さらにマレーシア語表記と英語表記の違う地名、従って道路名も、もあります。例えば、マラッカは Melaka とマレーシア語で綴られ、英語では Malacca と綴ります。ペナンはマレーシア語では Pinang と綴り、英語では Penang と綴ります。ただしこういう地名は少ないはずです。

マレー語をアラビア文字で書記する場合

マレーシア語はアラビア文字で書記することも可能です。これはイスラム教の伝播布教に密接につながっており、マレー半島の英国植民地化前から使用されていた書記法です、といっても庶民に対する教育のない時代ですから、ごくごく限られた層しか読み書きできなかったことは想像に難くありません。 

そのアラビア文字を用いて書記するマレー語(この場合はマレーシア語ではない)を Jawi (ジャウイと発音)と呼びます。現在ではもう一般的な小中学校教育の中で科目としては教えられていません。しかしム小学校からスリム生徒には義務科目であるイスラム教科目内でJawi は教えられているとのことです。Sekolah Agama と呼ばれるイスラム教中学校で Jawi が科目として教えられているかどうかは、私には確認できないのでわかりません。公教育とは別である、モスクなどで下校後の時間にムスリム生徒を対象に行われている宗教教育の中でも Jawi は教えられているとのことです。 コーランがアラビア語で書かれていることから、アラビア語はイスラム教の権威言語である地位を持つゆえ、Jawi が消え去ることはないでしょう。

それでも、学校教育の科目から消え、一般生活とビジネス社会ではほとんど縁のなくなったJawi は、その主たる使用者がほとんど減ってしまい、長年発行されていた唯一の Jawi 新聞の毎日の発行が数年前に停止されました、現在では週何日か知りませんが、マレーシア語紙 Utusan Malaysia に折り込まれる程度のようです。右の写真がその Jawi 新聞(Utusan Melayu)です。

余談:マレー語をアラビア文字を使用して書記するのは言語学的に少し無理があります。その一番の理由は、マレー語には6つの母音があるからであり、3種の母音を基本にしたアラビア語で書記すると、その単語の母音区別に工夫が必要または単語の意味から推察して母音を発音するということになります。その点アルファベットでは、5つの母音を問題なく表記できます。さらにアラビア語子音にはマレー語の音韻体系にはない子音がいくつかあります。

一般論としていいますと、ある言語とある文字体系の間にはその言語の音韻体系から向き不向きの関係がでてきます。例えば、日本語はローマ字表記できますが、日本語の持つ音韻と意味からひらがな・カタカナの方がより効率的であり効果的です。日本語のローマ字書きをアラビア文字で表記することも理論的には可能です。しかしアラビア文字は日本語の音韻体系に全く向いていないので、非常に非効率で非効果的となってしまいます。
なお右から左へ書くアラビア文字自体はとくに面倒な文字ではありません。私の経験からいって、発音面を除いたとしても、アラビア文字よりもタイ文字やクメール文字の方がはるかに取得時間が余計にかかる書記法です。


Jawi が道路名に用いられている所もある

その Jawi を用いて、マレーシア語の道路名表示に付加する形の表示は現在でも各地で使われています。ただ各地と言っても全国どこでもということではなく、半島部東海岸州とケダー州、ペルリス州のようにマレー人人口比の割合がかなり高い州での使用比率が高いと言っても間違いではないでしょう。ただしそれらの州でも全ての道路表記に Jawi が用いられていることはなく、国道や州の主要道のような主要道路に Jawi 付加表示を見た記憶は全くありません。なぜならこの Jawi 付加表示はその道路を管理する地方自治体の方針やその地の多数派住民の意向が相当影響するようだからです。よってマレーカンポン(村)の道路名に、Jawi 付加表示があるのは普通です。 この現象は西海岸側の各州やクアラルンプールでも同様で、都市部の中に存在する主として昔ながらのマレー地区では、道路名表示にJawi 付加表示をしている所も珍しくありません。よって例えばクアラルンプールの主要道路やジョージタウンの主要道路に Jawi 付加表示はありません(歴史的遺産地というような地区は例外です)。

次のような小さな記事を8月26日に読みました。

PAS党が主となって州政権を握るケダー州の州首相は、Jawi の使用に関して語る、「Jawi の使用を禁止してはいけないと法律で正式に決められているにも関わらず、Jawiの使用は今日まで議論されている。」 「国の国語法には、国語はアルファベット文字を使って表記する、ただし Jawi の使用は禁止しないという条件である。」


非公用語である華語の使用

では華語表記の場合を見ましょう。
華語はマレーシアの公用語・公式言語ではありませんから、公官庁と役所の文書に華語が用いられることはありません。しかし、人口の 25%を占める華語人口と華人界の経済力の強さから、民間で華語が用いられることはごく普通に行われています。華人が主対象である中華レストランの広告やメニューに華語が英語と並んで使われるのは当然として、例えば銀行などのお知らせやATM機の表示文字に、英語、マレーシア語に追加して華語を使うというような形です。 

基本的に道路標示に華語表記が付け加えられることはありませんが、クアラルンプールの一部の華人地区では華語表記が付加されている場所もごく少ないながらもあるのです。ペナン、マラッカにもそういう地区または場所があるかもしれません(歴史的遺産地区を除いて)。でも華語の道路標示はあくまでもごく少数だと見なしても間違いないはずです。

それではインド人地区でタミール語の道路表記が付加されているか? 私はこれまで一度もそういう表示板を見かけた記憶はありません。100% ないとまでは断言しませんが、例えあるとしてもものすごく例外的であるのは確実です。

華語読解理解には必須の地名

華語表記の道路名に戻りますと、華語新聞は地名と道路名を華語で書記します。人名や団体名や官庁名などあらゆる名は華語表記ですから当然のことです。地名と道路名の場合、マレーシア語表記を華語風に発音してそれを書記する例、マレーシア語名の意味をとって華語書記する例、華語独自の地名、の3種類に分かれます。

発音を捉えた表記の好例である、”太平”なら華語がほとんどわからない方でもかなり推量がつくかもしれませんね、Taiping のことです。意味を表記した例なら”濱城” が代表的でしょう。マレーシア語 Pinang とはびんろう (檳榔)の意味ですから、その檳と都市の意味である城を用いて ペナンの華語表記となります。華語独自名の例は、”新山” でしょう、ジョーホールバルをどう発音しようとこの音にはなりませんし、また直接的な意味でもありません。

華語は公用語ではありませんので、国が華語表記名を統一しているわけではありません。従って華語マスコミや華語出版界の間では、マレーシア語地名の漢字つづりにいくらかの違いが出ているようです。しかしこの書記違いをできるだけ少なく且つ減らす努力も行われているようです。

吉隆坡 という地名がわからないと、記事自体の内容把握にも影響してきますよね。 吉隆坡とはマレーシアで最も有名な地名ですから、これぐらいは簡単に覚えられるとしても、何百という華語地名を覚えるのは楽ではありません。次に主な地名と州名を書き出してみましょう。

クアラルンプールの主な地名と全国の主要な都市名
華語甲洞中南区増江帝帝皇沙武吉免登文良港蒲種蕉頼安邦十五碑
マ語Kepong注1JingjangTitiwangsaBukit Bintang SetapakPuchongCherasAmpangBrickfields
華語八打霊再也梳邦巴生加影沙亜南芙蓉怡保関丹新山北海
マ語Petaling jayaSubangKlangKajangShah AlamSerembanIpohKuantanJohor BahruButterworth
華語浮羅交怡亜羅士打
太平金馬倫高原豊盛港布城古晋山打根哥打京那峇魯
マ語LangkawiAlor Setar
TaipingCameron HighlandMersingPutrajayaKuchingSandakanKota Kinabalu

各州の表記
華語
玻璃市
吉他
檳城
霹靂
雪蘭莪
彭亨
吉隆坡

和名
ペルリス
ケダー
ペナン
ペラ
スランゴール
パハン
クアラルンプール

華語
馬六甲
森美蘭
柔佛
登嘉樓
吉蘭丹
沙巴
砂拉越

和名
マラッカ
ヌグリスンビラン
ジョーホール
トレンガヌ
クランタン
サバ
サラワク


注:マレーシアの華語は、中国で使用されているいわゆる簡体字を使用していますが、この日本語入力システムではそれを表記できません、且つ簡体字はほとんどの読者のブラウザーで表示言語選択を unicode に変換しないと文字化けを起こします。よってここでの華語名では繁体字に近似している日本漢字を用いています。
注1:Chow Kit 界隈を指します

どの華語新聞においても、州区分紙面に使われたり、団体名の一部にもなるほど、頻繁に現われるのが、雪隆 という地名です。そこでクイズです:この地名がどこを指すか、上記の表から推察してください。ヒントは2つの地名を重ねて一つの単語化した地名です。

この答えを書く前に、まず解説が必要です。クアラルンプールをとりまくように州があります、そうスランゴール州ですね。この華語名が 雪蘭莪州 略して 雪州 です。隆という字は 吉隆坡 に含まれています。そうです、雪隆 とはスランゴール州とクアラルンプールの簡略化地名なのです。

ユニークなマレーカンポン名の紹介

国内にあまたあるマレーカンポン(村)の中にはユニークな名前があると、そのいくつかを紹介している記事を見つけましたので、ここでそれから抜粋訳して紹介しておきましょう。 2008年8月23日付け The Star 紙の記事を参照しました。

Kampung Awek,  トレンガヌ州のJerteh地方にある村

Awek というのは地元の方言で”ガールフレンド”という意味です。だからこれまでに何回も村にはたくさんのきれいな女の子 がいるのかと尋ねられたことがある。」とこの村の属するPasir Alar 郡の長は語る。「この村名は、1920年代にこの地にもともと住んでいたオランアスリコミュニティーの tok batin に由来すると一般に言われています。」


Kampung Mambang Di Awan,  ペラ州の Kampar 地方の村

Gua tempurung 洞窟へ向かう時に道を間違えたりすると出会うような場所にある村なので、まず知られていないとのことです。名前の意味は ”雲中の妖精” であり、村長事務所の書記官は説明する、「伝説によれば、鉱山で働く者たちが疲れた労働の後で、雲の合間に妖精を見たということです。」


Kamoung Tok Imam Lapar, トレンガヌ州の Hulu Terengganu 地方の村

Imam イマームとはイスラム教指導者のことです、Tok は敬称ですですから、村民400人ほどの Kamoung Tok Imam Lapar の意味は”腹の減ったTok イマームの村” とでも言う意味になります。 Kuala Telemong 郡の郡長は語る、「この村名は注目を浴びます。」 といって14世紀ごろの故事に由来する名前の伝承を語りました

Kampung Menyorok , スランゴール州のBatang Kali 地方にある村

この村名は、”隠れた村”という意味です。「日本軍占領時代は、鉄道の線路に沿って行き、そしてトンネル下部を歩いて村にたどり着いた。でも今では道路ができ標識も出ています。村を見つけるのは難しくありません。」 と村長事務所の人は言う。


Kampung Bunohan, クランタン州のTumpat地方にある村

この村の意味は”殺しの村” となります。 この村はまた伝統的癒し手法である Main Peturi (歌と踊りを使う)で有名です。「第2次世界大戦中多くのタイ兵士がこの村にやってきて多くの問題を起こした。村人とタイ兵士の間での衝突で多くの死者が出た。そこからこの名前が生まれたのです。」 とある村人は言う。 村人の中には村名について皮肉なユーモア観を抱いているような人もいます。


Kampung Gudang Garam,  ジョーホール州 Segamat地方にある村

”塩の倉庫” という意味の Gudang Garam という名前はすぐにインドネシアの人気ある Kretek タバコのイメージが浮かびます。しかしこの村名の起源は100年前にさかのぼります、「Labis 地方のKampung Tenang の村人が奥深いTanjung sengkawang ジャングルに領地を求めて入り込んだとき迷ってしまいました。夜になって嵐に遭いました。その時彼らは偶然岩塩の露出場所に出くわし、そこは動物の水源でもありました。彼らは最終的に森から出られる道を発見したので、そこでその新領地の名をこの岩塩の地から取りました。そしてその地を開発して村を作りました」 とJemerih 郡の郡長は説明します。


Kampung Desa Temu Jodoh,  ジョーホール州 Segamat地方の村

村名の意味は”結婚相手に会う村” とでもなります。従って多いに注目を引きます。村長は言う、「貴重な名前ではありませんか。」 村はこの地方の大きな町であるYong Peng から20Kmほど離れているだけで、30年前に開拓された村だそうです。「24歳までの若い独身男たちが青年土地計画の下で開拓し、参加者は60人ほどおり、私はその1人でした。月の手当としてRM 60をもらっただけで、それは生きていくのにぎりぎりのお金でした。よって、我々は数年間独身のままでした。」 その後女性向けの土地開拓計画が導入されて、ペアが生まれました。 「その後1977年に24組のカップルの集団結婚式が行われ、そのアイディアを打ち出した当時のジョーホール州首相がこの村の名を、Kampung Desa Temu Jodoh と付けました。」


ロマンチックな地名というのはどの国でも注目を浴びるのではないでしょうか。日本でも昔北海道の鉄道駅名が人気を起こしたことを私は覚えています。 そこで Kampung Desa Temu Jodoh というのはなかなか得がたい名であるといえますね、観光宣伝にも役立ちそうです。一方 Kampung Bunohan はちょっとドキッとする名前ですね。こういう地名をサバ州とサラワク州に探せば、もっと面白そうな名前がでてくるかもしれませんね。




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