「今週のマレーシア」 2006年1月と2月のトピックス

・マレーシアのこんな面・光景を私は好みます
カンボジアの辺境地訪問の旅  -前編-   ・その中編    ・その後編  
旧正月即ち農歴新年即ち中国正月はいわば”シャレ”で持つ  (掲載上順序入れ替えました)
数字で見たマレーシア、 その28  ・ バレンタインデーは華人カップルが結婚登録を好む日
KLタクシーの抱える問題とタクシー運転手の立場を考える



マレーシアのこんな面・光景を私は好みます


マレーシアは国内各地における民族構成、所得階層構成、教育歴構成にかなり違いのある国です。よってある地方でごく一般的な現象が、他のある地方では全然一般的でないことも十分起ります。例えばクアラルンプールのような大都会のアップタウンや繁華街では盛んにクリスマス商業活動が盛んでしたが、同じクアラルンプールでもそんな活動がほとんど目につかない場所もたくさんありました。ましてや東海岸州の村などへ行けば、クリスマス雰囲気のかけらも感じられないはずです。


そこで次ぎに書くような状況にはほとんど馴染みのない在住者も少なくないことでしょう。

中国正月を迎える華人街の様子

クリスマスが終って新年を迎えたわけですが、私の住むような古い華人地区では、新年は新年でも太陰暦に基づく農歴新年迎えの気分と雰囲気がすでに高まってきています。地元華人の口から ”過年”という言葉が盛んに発せられます、これは農歴新年つまり中国正月を迎えるという意味で、決して太陽暦の1月1日を待ち望んでいる(いた)ということではありません。伝統的価値観の華人にとっては1月1日はカレンダー上の新年であり、祝うべき新年はあくまでも旧正月なのです。

よって地元のスーパーでは中国正月食品と用品がすでにクリスマス直前頃から多くの場所を占めていました。小さな地元ショッピングンセンターもクリスマス直後から中国正月セールスに入っており、ミュージックショップでは、中国正月歌謡のCDとVCDが棚にたくさん並べてあったり、ワゴンに無造作に積んであります。中国正月ソングと中国正月用VCDの映像は毎年替わり映えしないはずですが、それでもこの時期たくさん発売され、店に並べられます。替わり映えしない、そのマンネリズムが中国正月ソングの本髄なのでしょう。確かにミュージックショップや中文ラジオ局から毎日流れてくるあの曲調と響きを聞くと、中国正月の気分が高まってくるから不思議です。私もこれまで買った何枚かの中国正月CDを持っていますので、我家でも毎晩かけています。今年も1枚ぐらい買おうかな。

尚上で古い華人地区と書きましたが、クアラルンプールですから純粋な華人地区ではありえません。日中はマレー人、インドネシア人、インド人がたくさん働き、この数年富に増えたネパール人とミャンマー人が居住者としてたいへん目立ち、さらに違法滞在とおぼしき中国人が徘徊する複数民族混在です。そこが台湾や中国の”中国人社会”と根本的に違うマレーシア華人社会の特色の一つです。いかにもマレーシアらしいですね、そこが私の好むマレーシアの姿です。


中長距離バスにほとんど乗ったことがない旅行者や在住者も珍しくないようですね。そこで次ぎはこんな光景です。

猥雑なプドゥラヤバスターミナルに感じる大衆の息

連休の終り、日曜日の午後、学校休暇の終り頃、そんな時期の午後 Pudu Rayaバスターミナルを訪ねてごらんなさい。バス会社各社の切符販売ブースと食品と新聞雑誌の物売りブースとコンクリートの長イス式の待合-コーナーが雑然と並ぶ1階は荷物を抱えた人、人でごった返しています。2005年後半に、かつてない規模で内部改装を終えてぐっと明るくなり、空調も向上した1階ですが、この数の群衆をさばくにはいかにも不充分です。Pudu Raya は30年近くも前に建設された姿を基本的に保っている古いビルを利用したバスターミナルですから、もはやこれほど多数の利用者に十分対応することは物理的に不可能です。

それでもPudu Rayaバスターミナルはクアラルンプール最大で、且つマレーシアで最も利用客の多く忙しいバスターミナルの地位を失いません。他の交通機間、とりわけ何十ものルートを運行する乗合バス便のいくつかの発着地が近接している、つまり乗合バス便へのアクセスがたいへんよく、大衆的な繁華街がとりまき、大衆ホテルが至近距離にいくつかあるといった便利さを知れば、クアラルンプールでPudu Rayaバスターミナルの好位置に適う場所はありませんからね。よっていくら混雑が嘆かれようと、中上流階級から見下されようと、Pudu Rayaバスターミナルは不滅かのように賑わい、利用され続けています。

利用者の姿をご覧ください。圧倒的に多いのが高等教育機間に在籍中と思われる学生、30代以下の若い男女グループやカップル、お世辞にも裕福層には見えない小さな子供を連れた家族連れ、明かに外国人労働者風の男たち、この4種類のグループです。要するに、自家用車はまだまだ持てない、自家用車などとても持てそうにない、飛行機で飛ぶのは高過ぎる、といった理由を主とした人たちですね。もちろん乗客には自家用車保持者もいるし、中流階級もいるでしょうが、その割合はぐっと低いことにまちがいないです。尚親が中流階級の学生がバスを利用することは全然めずらしくないです。

要するにPudu Rayaバスターミナルは中長距離移動する大衆層の足の拠り所なのです。Pudu Rayaバスターミナルなくしてマレーシア半島部の各地との移動は全く語れません、Pudu Rayaバスターミナルがなければ大衆は旅行にも帰郷にも足が極めて不便になってしまいます。さらに経済的な自由旅行をする外国人旅行者にとっても Pudu Rayaバスターミナルは欠かせない存在です。

混雑している、空気がよどんでむっとして暑い、汚い、暗い、プラットフォームは排気ガス充満で健康に悪い、切符売り・客引きのがらが悪い、といった批判的意見がよくありますね。事実、Pudu Rayaバスターミナルにはそういった批判を裏付ける諸面は長い間ありました、そして内部改装が終った現在でも程度は向上したものの、その種のマイナス面のほとんどは厳然として残っています。事情をよく知る者として私はそれらを当サイトでも批判してきました。しかしその一方で、そういった面だけにこだわるべきではないと思う、この程度のこと、東南アジアの大衆旅行では普通であり、どこででも出会う現象なのです。Pudu Rayaバスターミナルに足をまともに踏み入れたことのない、優越意識に固まった一部の裕福マレーシア人や日本人を含めたお上品外国人の、見下した意見など気にする必要はない。必要なことは、大衆利用者側としての建設的な批判と改良要求ですね。

マレーシアに住み始めて以来約15年間、毎年少なくとも10回ぐらいは、年によっては数十回も、Pudu Rayaを利用してきた者として(訪れた数はこれよりはるかに多い)、Pudu Rayaバスターミナルがある限り、これからも利用します。Pudu Rayaバスターミナルは依然としてPudu Rayaバスターミナルであり、それがマレーシアの現在を映しています。そして私の好きなマレーシアの光景の一つでもあります。


旅行者だとラジオを聞く機会はごく少ないことでしょう。そこでこんな一面を紹介しましょう。

複数言語でラジオ番組を楽しめる

私は家にいる時はいつも必ずラジオをかけています。朝起きると早速ラジオのスイッチをいれ、外から帰宅すればこれまた同時にスイッチを入れます。そして夜眠りにつく直前にようやくスイッチを切ります。そう、食事中もパソコンする間も新聞読むときもずっとラジオはかかっています。ラジオは手を休めることなく、目をそちらに向けることなく、何々しながら聞けるので、私は若い時からずっとラジオ族です。

朝聞くラジオ局は、華語・広東語局の 988 か マレーシア語局 ERA のどちらかがほとんどです。だいたいこんな風です:昨日マレーシア語局聞けば今日は 988 といったように大体交互に選局しています。

朝も遅い時間になると、早朝以来かけていた 988局を同じ華語・広東語局の MyFM に切換えることがよくあります。早朝からERA局を聞いている場合は、そのまま昼間でということが多いですね。午後どこへも出かけない日は、午前中とは別の言語局に換えます、つまり華語・広東語局を聞いていたらマレーシア語局のERA 局か SinarFM局に換える、マレーシア語局を聞いていたら華語・広東語局の MyFM ということが多いです。これは夜間も大体同じで、午後聞いていた局とは別の局に切りかえることが普通です。つまり午後マレーシア語局を聞いたら夜は華語・広東語局、またはその逆 というように1回または2回切り替えます。

こうして毎日少なくとも4、5時間、もしずっと在宅しておれば10数時間ぐらいラジオを聞くともなく聞いているのです。マレー歌謡と華語歌謡及び広東語歌謡を聞いて楽しむだけでなく、DJ のお喋りやDJ と聴取者との他愛のない会話を聞き流している時、ふとそれに耳を傾けるとなかなか面白いことがよくあります。そういった会話の中にマレーシア人の日常の関心事や何を大事にするかが感じられるのです。例えば、マレーシア語局の場合をあげれば、番組中にDJ と聴取者との電話会話がよくあり、その際聴取者が 「誰々に挨拶する、よろしく言う」 機会が設けられています。その誰々は、その聴取者の親兄弟姉妹であることが圧倒的に多いのです。もちろん友人知人も対象に含まれますが、親兄弟姉妹に加えてというような形が多いですね。ラジオは流行歌を楽しむだけでなく、こういったマレーシア人の世の中観も教えてくれますよ。

毎日毎日流れてくるラジオ広告は今市場では何が流行っている、何を流行らせようとしているかの情報にもなりますね。もちろんニュースも流しますが、ニュースはやはり新聞の詳しさと幅広い選択には全くかないませんから、私にはほどんど重要ではありません。

多言語が日常的に話されるマレーシアですから、主要言語毎にラジオ局があり、それぞれ複数局あります:マレーシア語局、英語局、華語広東語局、タミール語局 です。各言語局の放送内容には、官または政権与党によって許容された範囲とはいえ、それぞれ特徴があります。違った言語局の特色とその局の人気あるラジオDJ を毎日楽しめるというのが、いかにもマレーシアらしいです。これも私の好むマレーシアの一面です。


東南アジアだからと言って、どの国でもまたはどこへ行こうと手軽に且つ安価に大衆コーヒーやティーが飲めるわけではありません。そういう習慣がほとんどない地方も少なくありませんから。その点マレーシアは国内どこへ行こうとこの大衆コーヒーやティーが飲めるのです。

国内どこでも安価な1杯のテータレで時を過ごせる

喫茶店で友達とおしゃべりしたり、時間をつぶすのは誰でも経験することですし、それなりに楽しいですよね。そんなひとときを、財布を気にすることない料金で気軽に利用できるのが茶店ですよね。茶店には、インド人屋台や非冷房の大衆インドレストラン、マレー屋台・大衆食堂、華人の大衆食堂と大きく分ければ3種類あります。飲み物の代表的である テータレをとれば、店・屋台の場所と規模と格によって、一杯が 80セントからRM 1.2 まで違いはありますが、この値段なら誰でも気兼ねなく注文できますよね。

そんな茶店で朝の息抜きとして、午後のひととき、これぐらいの値段でテータレ、コピーなどが飲めるのはうれしいことです。Star Bucks のようなしゃれたカフェでは最低でもコーヒー1杯 RM 6ぐらい、さらにそれに売上税まで加わるので、とても気軽には飲めませんからね。もちろん80セントで飲める路上の屋台はイスもテーブルもオンボロ、すぐ近くを自動車が駆け抜けて行きますから、あまり長居はできません。日陰でも、幌が張ってあっても暑いこと自体に変わりはありません、80セントの屋台ではいたし方ないでしょう。そんな時はもう20セントか30セント奮発して、店舗式の茶店・大衆レストランに入りましょう。こちらは冷房こそないものの、扇風機の風にあたれる場合もあるし、すぐ隣をバイクが疾走することもまずありませんからね。それに路上の屋台より長居し易いのが長所です。

それでも冷房付きカフェには適いません。しかしこの程度の暑さは熱帯に暮らすもの、耐えてしかるべきです。暑くたって熱いコピ(コーヒーではないですよ)を飲みながら、新聞読んだり、店のテレビをぼんやりと眺められる憩いの時間を RM 1から RM 1.2 で買えるのです。東南アジア、どの国でも屋台と安い大衆食堂はあり、その国のどこででもコーラなどの清涼飲料水は安価に飲めますが、安価なコピやテーが必ずしも飲めるわけではありません。その点マレーシアは国内どこの屋台と衆食堂でもコピとテーが飲めます。これはいかにもマレーシアらしいですよ。これも私の好むマレーシアの一面です。

”だけ”にこだわらない付き合い方

マレーシアを訪れる、マレーシアに住む日本人の皆さんにも、それぞれ”私の好きなマレーシアの光景・姿”がきっとおありのことと思います。その面・姿が一つだけであれば、これからゆっくり2つ3つと増やして下さいね。すでにもういくつもあるよという方は、これからもその好きな面・姿をお楽しみください。ある国を訪れれば、ある国に住めば、好きな面も嫌いな面も当然感じますし、生まれてきます。これは私を含めて誰でも同じでしょう。そんな時嫌いな面が気になるのは当然ですから、それを批判しますよね、もちろん私もその1人です。しかし、嫌いな面”だけ”を強調する、にこだわるのではなく、務めて好きな面を楽しもうではありませんか(といって、嫌な面、嫌いな面を忘れなさいと主張しているのではありませんよ)。それがある国との上手な付き合い方だと私は信じて、これまでいろんな国で実行してきました。

新しい年が始まりましたね。今年もこれまでと同じように、マレーシアを時に嫌いになっても、それを上回る好きな気持を発揮して、マレーシアを旅行したり、マレーシアに住んでみませんか。



カンボジアの辺境地訪問の旅  -前編-

- 東南アジアの広がりの中でマレーシアとの違いをあらためて感じた旅 -


元クメールルージュの町には大晦日夜の雰囲気は皆無であった

「今日は本当に大晦日なんだろうか?」 かとあらためて自分の腕時計のカレンダーをチェックしたぐらいでした。なんらそれらしき飾りも目に入らないし、そのために人が集まりつつあるわけわけでもない、つまり大晦日という雰囲気がもこれっぽちも感じられない、町自体に灯りがごく少ない故に文字通りの暗い夜でした。その日私が宿を取ったゲストハウスの客人たち、その全てはカンボジア人、とそのオーナー一家のそぶりにもなんら大晦日を意識した振る舞いは見られなかった。そして実際に、まったく普通の夜と言っても間違いのない夜でした。
私のこれまでの人生の中で最もあっけない、というよりも大晦日を全く感じない、大晦日夜とはいえない大晦日夜であった。

それはカンボジアの北部の僻地にある Anlong Veng という田舎町で過ごした2005年12月31日のことです。
もし読者の中で、Anlong Veng というこの町の名前をご存知の方がいらっしゃいましたら、結構カンボジア問題に知識のある方かカンボジアの地理に詳しい方でしょう。実はAnlong Veng はクメール・ルージュ(日本では一般にポルポト派と呼ばれていた)の最後の拠点だった地方の中心町なのです。まあカンボジアの基準から言えば町ですが、マレーシアまたはタイ的観点から言えば町とも村とも言えるでしょう。

クメール・ルージュ、そう、あのカンボジア大虐殺の張本人である自称”共産主義者”の集団で、1970年代当時は政党であった。その統治期間のわずか4年ほどの間に当時のカンボジア人口の5, 6人に1人 にもあたるであろうという、推定200万人前後(もちろんこの数字にも異論はあるが、正確な数字は誰も永久にわからない)のカンボジア人を虐殺または結果として死亡させた、まさに20世紀有数の大虐殺 を実行したのがこのクメール・ルージュですね。

そのクメール・ルージュは政権を1979年に追われて以来、カンボジア各地で転戦し次第に東部と北部に追い詰められ、そして最後に立て篭もったのが、北部山岳地帯且つタイ国境に近い狭い地方であり、その中心がAnlong Veng でした。クメール・ルージュがカンボジア政府と取引して、武装解除・反抗放棄し平穏里に解グループしたのが1998年末であり、それまでは誰も近づけなかった、政府軍であれ、国連の平和維持軍であれ誰も近づけなかった地方です。Anlong Vengのある地方は訪問して実感したように、奥深い僻地であり且つ当時は地雷原に囲まれており、おいそれと政府軍が攻込めなかった。当時クメール・ルージュと交易関係にあることから裏でクメール・ルージュを資金的に支えていたタイ人と、ごく限られた数のジャーナリストだけが足を踏み入れた地方です。

その後地雷撤去が行われ、ようやく一般人にも開放されるようになったのは多分2000年頃ではないでしょうか。

カンボジア僻地の町を訪ねた由縁

そこで、そういった経緯と歴史は専門書におまかせして、なぜ私がこの地を訪れたかを書かないとこの話しはわかりませんね。
カンボジアを私が初めて訪れたのは1998年です。カンボジア東部のタイ国境に接した Poipet という町を訪れました。その当時タイ側からタイ人を除いて外国人が唯一陸路入れたのがこのPoipet です。もちろんビサの事前取得が必要でしたので、バンコクで取りました。その数年後豪華なカジノホテルが何軒か建ち、その中にはマレーシア企業所有もある、ポン引き、子供物売り、乞食、ひったくり、騙しなどが氾濫する全く気を許せないいわゆるカウボーイタウン化つまりいささか無法地帯と化した悪名高い Poipetです。

私は、カンボジア問題が華々しかった1980年代にカンボジアに特に強い興味があったわけではないし(興味がなかったということでは決してない)、とりたててカンボジア問題に詳しいわけでもないのですが、東南アジア一般への興味としてカンボジアは常に興味の一対象ではありました。

90年代後半になって陸路カンボジア入国を模索していた私は、98年にこのAnlong Veng のある地方を目指してタイ側から入国を探りまたは試みました。そこで2002年5月と6月分の 「今週のマレーシア」 に載せた コラムの中で、1998年3,4月にタイ東北部のスリン県から カンボジア北部への道を探ったことに触れた部分をここに引用しておきます。

『カンボジアに見つけたマレーシアの姿と存在感のないマレーシア』 -前編が第299回 と後編が第304回- から

ちょうど4年前(1998年のこと)私はタイからカンボジア入国を目指して(タイの)4箇所ほどの地点からカンボジア入国を試みました。その中には当時クメールルージュ(日本では一般にポルポト派と呼ぶ)の最後の拠点であったAnlong Veng に続くルートもあったのです。国境の10Kmほど手前でタイ警官に近くまで見に行きたいと訴えたら、カンボジア側は地雷原があり立ち入り禁止地帯になっているのに近づけるわけがないだろう、と注意されたものです。(その後そこから移動した)さらにそこから100Km以上離れた別地点である山中の国境近くの場所では、タイ人を装ってタイ側軍事検問ポストのある地点を通りすぎたのですが、草むらの中に続く人1人分歩くだけの細い山道を目の前にして、地雷が頭に浮かび怖くなってすぐ引き返しました。結局その当時正式に外国人に開かれていた唯一の国境検問所のあるPoipet からしか入国できませんでした。


蛇足の後年談

カンボジアといえば地雷原がすぐ頭に浮かぶように、21世紀の現在でもカンボジアは地雷未撤去の場所が非常にたくさんあるそうです。カンボジアの僻地や田舎を訪問すればよくわかります、草木が生い茂りもうどこに地雷が埋まっているかわからなくなってしまって探すこと、撤去すること自体が難しいと、素人目にもわかるのです。

上で描写した 「タイ側軍事検問ポストのある地点を通りすぎ、草むらの中に続く人1人分歩くだけの細い山道」 の光景を今も思い出すことができます。向うの丘に立つ小屋にはカンボジアの国旗が立っており、そこからカンボジア領だと理解しました。そんなに遠い距離ではないので歩こうと思えばそこまで到達できました。そして膝丈以上に伸びた草原の中に人1人が歩けるだけの細い山道がその小屋に向かって続いています。その道を私はほんの少しだけ歩いたのですが、この一帯は全く人の気がなく、軍事ポストからわかるように正規の国境通過場所どころか安全の保証された場所ですらない。もう地雷のことが頭から離れません、とてもそれ以上歩く気にはなれませんでした。


このように私はかなり早い時点である1998年に、このAnlong Veng 行きを試みたのです。しかし当時まだクメール・ルージュが最後の抵抗をしていたので、地雷原がそのまま残っていました、当然タイは一般向けの国境検問所など設置していなかった。2002年に2回目のカンボジア訪問してあちこと訪れたのですが(その様子の一部は上記 「今週のマレーシア」第299回 と 第304回に書いた)、結局Anlong Veng は行きませんでした。その記憶がこの12月中旬になってふと浮かび、年末年始にカンボジアへ行こうと思い立ったのです。

オープンしたばかりのクアラルンプール-シエムリアップ路線を利用

最初タイ経由で陸路カンボジアへ入るつもりだったのですが、12月後半のマレー半島北部と東部及びタイ深南部の水害で陸路行程に支障が出たので、急遽AirAsia による空路カンボジア入りに変更しました。AirAsiaが クアラルンプール-Siem Reap 路線を開始したわずか3日目であり、最低価格帯の切符料金プラス空港税と追加燃料費など全て込みで RM 174 リンギットとごく安く購入できたからです。この価格であればクアラルンプールからはるばる陸路行くよりも総費用は安いのです。

アンコールワットの玄関口であるため Siem Reap は旅行好きにはかなり知られていますよね。Siem Reap は前回訪問時(2002年)よりもまたずっと観光客向け商業施設が増えており、その観光業的に発展した様子、そして過剰開発ぶりに驚きました。Siem Reap からAnlong Veng への道は開通していることはもう数年前に私は情報として知りましたが、そのAnlong Veng からタイへ抜ける道路と国境検問所の様子はほとんどわかりません。両国の国境検問所が数年前に開設されたことは知っていましたが、タイ人とカンボジア人以外には解放されてない可能性もなきにしもあらず。

注:Anlong Veng に通じる国境検問所のことをクアラルンプールのカンボジア大使館で入国ビザを取得した際、係りの女性(もちろんカンボジア人)にさらっと尋ねたのですが、やはり彼女たちは知りませんでした。 タイから陸路入国できるのはお決まりの Poipet と Koh Kong だけとしか答えられない。その2つは私はとっくに利用しており、そんなことはずっと前から知っているのです。何せKoh Kong 検問所がタイ人以外の外国人にも通行オープンする2週間ほど前にそこを訪れて、外国人1番乗りを目指したぐらいの私ですから。いつもながらどこの大使館でもそうですが、大使館の窓口に座っている係官たちはこの種の自由旅行者向けの自国の情報を知らない、自分で汗を流して国内あちこち旅したことのない人間ばっかりです。これはカンボジア大使館に限りませんよ。


タイと接する北部国境情報はごく少ない

さらにAnlong Veng から地図では70、80Km西にある Samrong という町までの道のりはどうなっているのか、こちらはなおさらわかりません。とにかく道があるのは間違いないだろうが、問題は地雷撤去が完全に終ったのか一部残っているのかです。出発前に仕方なく本屋で Lonely Planet を立ち見したら、2003年版ではまだ地雷が残っていると書いてある。でも2005年版では通行できるようになったとごく簡単に書いてある。まあ私はガイドブック類はほとんど見ないし、まして買うことはまずないのでそれ以上にその記述に頼ることはしません。後は自分で現地で確かめるだけと、この両ルートまたは片方のルートを走行してタイへ陸路抜ける計画を頭に描いて、クアラルンプールを発ちました。

さてSiem Reap に2日間滞在している間に、Anlong Veng 行きの場所を探し、乗合車のあることを確認しました。Siem Reap は外国人観光客の多い有名町ですから、アンコールワットやホテル情報、レストラン・カフェ情報は現地でも溢れています、しかし観光客が全く行かない Anlong Veng のような僻地への情報はほとんどありません、自分で得るしかありません。車をチャーターしてAnlong Vengまで往復訪問する観光客もごく少数ながらいることでしょうが、自分でピックアップトラックを見つけて乗り且つAnlong Veng で泊まる旅行者は極めてまれのはずですし、事実私はAnlong Veng でわずか1組の白人旅行者を見かけただけです。

辺境方面へ行く乗り場と車を見付ける苦労

さてこういう僻地へ行く車の乗り場を探すことがまず一仕事です。いうまでもなく乗り場の表示などありませんよ。クメール語で Anlong Veng と書いてあれば、出発前1週間やっつけ仕事並にクメール語学習した私でも認識できます。2002年のカンボジア旅ではもう少したくさん学習したのですが、3年半以上も経てばほとんど記憶から消えていました。

慣習的に地元人が知っているからでしょう、いろんな地方へ向かう乗り場にも車にも行き先は表示されていません。どういうことかというと、乗り場は市場付近が多く、その乗り場には行き先が掲げてない。さらにそこで客待ちしているピックアップトラックと古い乗用車 にも行き先が書いてないのです。そこで市場周囲に何台か車が停車してる場所の中から見当を付けて、その場で客呼び込みしている若い男たちに尋ねてみるしかないのです。確かに耳をよくそばだてて聞けば男たちは Anlong Veng などと声を出している、しかし雑踏のなかでこのクメール語の発音を聞き分けるのはかなり難しい。

とにかく Siem Reap の大きな市場であるLeu市場の対面の一角からAnlong Veng 行きの車が出ることは確認しました。すぐ乗っていけ、乗っていけと客呼びの男たちの煩いことです。相乗り車で 1人5米ドルとのこと、私が外国人だから1ドルぐらい高く言ってるでしょうが、まあカンボジアの相場でしょう。

注:カンボジアはドル経済化しており、数米ドルに値する価格ぐらいまでは現地通貨 リエル を用いますが、5または10米ドル以上ぐらいに値するくらいになると米ドル紙幣を使うことが非常に多い、これは外国人に限らずカンボジア人でも同様です。例えば大衆食堂でコーヒー飲んで1米ドル札で払えば、おつりで2500リエルが返ってきます。相場は 1米ドルが約4000リエル。


ピックアップトラックの後部座席に詰め込まれて出発

こうして翌々日の朝その市場前の乗り場へ行き、出発を待ちました。ピックアップトラックの後部座席に4人、前部運転席に2人プラス運転手が車内の人数で、荷台には最多時 7,8 近い人と荷物を満載してSiem Reap を発ちました。車内だけで定員人数超過が2人です。所詮カンボジアでこの種の交通手段に定員などという概念自体がありませんので、”超過”と感じるのは外国人だけでしょうけど。荷物を満載した荷台は安全上から私は乗る気はありません、さらに相当なる揺れと砂埃にまみれる覚悟が必要です。

ピックアップトラックだけでなくい古い乗用車も脇で客待ちしてましたが、ピックアップトラックが先に声かけてきたし先に出発するのでそれに決めました。いうまでもなく乗用車でも本来の乗車定員よりも2、3名は余分に乗客を積め込むはずです。

ピックアップトラックはSiem Reap の市街地を離れるまではのろのろと道を走ります、さらに乗客を拾うためです。身動きするのも窮屈な姿勢で席に詰め込まれてる私は速く走れよと願うばかりです。こうしてようやく市街地を出ると、しばらくアンコールワットの周辺の道を走りました。2002年のアンコールワット見物の際その道らしきをバイクタクシーの背に乗って回ったことをぼんやりと覚えています。

途中までは観光車の多い道程

その後田舎道をどんどんと走ります。まもなく簡易舗装は終り、赤土を固めた平坦な道路です。意外や意外、この道路は結構交通量があります。観光バスや観光バン、そして観光客が1日、半日と借り上げたハイヤー乗用車がたくさん走行しているからです。バスとバンの車体に書かれた英文字からツアー客用ということが一目瞭然です。日系旅行社のツアー車が結構目立ちます。詰め込まれた座席の窓からそういう車を見ると、冷房付きバス、バン、ハイヤー乗用車の座席にゆったりと座ったツアー客はいいなあ と思わず感じますね。

なぜこの赤土道路を走行する各種ツアー車が多いかはその後わかりました。Siem Reapを発車して約1時間弱、道路際とその脇の駐車場に数十台のバス、バン、乗用車が停車した場所を通り過ぎました。後で調べてわかったのですが、そこはかなり観光客を引き付けるという Bantey Srey への入り口だったのです。だから田舎道をはるばるたくさんのツアー車が走行していたのです。

注:Bantey Srey は10世紀後半に建てられたのヒンヅー教遺跡とのこと。Siem Reapから約40Km離れている。


赤土の平坦な道路を砂埃を巻き上げひた走る

そこを過ぎるともう観光バスも観光バンもその姿が見えなくなりました。たまに乗用車が走っていますが、旅行者が借り上げた車には見えません。走行している対向車としてすれ違うのは、同種のピックアップトラックか地元人らしきを載せた乗用車、さらに古い小型貨物トラックです。Bantey Srey以後の交通量はそこまでに比べて格段に少なくなりました。

道路は上り道はあるが思ったよりずっと平坦であり、両方向で2車線ぐらいの幅広さはある。クメールルージュの武装解除以後、カンボジア政府が道路整備に力を注いだことが感じられる。よって舗装道路ではないにも関わらずかなり踏み固められており凸凹がほとんどなく、大きな揺れを予想していたにも関わらず、それはほとんど感じなかった。これは予想が外れてたいへん良かったのですが、その代りに車走行の巻き起こす砂埃のひどさは相当なものだった。

カンボジアの12月1月は乾季なので、赤土を固めた路面は乾きに乾いている。そのため細かい砂が路面にはずっと積もっており、タイヤがそれを巻き上げることになる。土煙という形容があるが、まさにその通りです。対向車が巻き起こす土煙で前がちょっとの間見えなくなる、大げさでなく本当に見えなくなるのです。しかしそれでも我々の乗ったピックアップトラックも通り過ぎる対向車もスピードを落とすようなそぶりを見せず、普通通りに走行し続ける。このあたりの交通安全感覚は、とても理解できるものではない。もし対向車に続いてまた別の車が来たら衝突の危険性は間違いなく高いのにだ。幸いにもこの道路はごく交通量が少ないので、数台の車と続けて対向交通する場面がなかったのが幸いでした。さらに車内に座席を取って正解でありました。

ところで、カンビジアは元フランス植民地なので、ベトナムと同じく車は右側通行です。SiemReapで見かけた韓国製のバスは左ハンドルに改造してあったし、2002年旅行時に乗ったマレーシア現地法人バス会社のバスも右ハンドルに改造してあった。しかしながら乗用車やピックアップトラック、バンには右ハンドル車が極めて多い。右ハンドル車の多くは日本メーカー車であり、新車もあるし明らかな中古車もある。

このAnlong Veng 行きのピックアップトラックも右ハンドル車である。右ハンドルであろうと左ハンドルであろうと、カンボジア人はそういうことにほとんどこだわらないように見える。要するに車は車なのだ。

僻地を実感させる道路から見える風景

こうしていくつもの集落を通り過ぎていく。集まって立つ家屋の数からいって村とはとてもいえないので、集落と呼ぶのがふさわしい。尚家屋と今ここで書いたが、日本的観点から言えば掘立て小屋というのがより適当な表現でしょう。どの家屋も高床式であり、その大多数が小屋である。Anlong Veng へ向かう道路の行程半ばぐらいまでは一応電気が来ているようだ、しかし水道はもちろんないはずだ、大きなカメがどの小屋の前にも置かれている。そのうち電気もないような場所をしばらく走行した。道の両側はずっと潅木が生え時に草が無造作に伸びた草原のような風景であり、深い森林ではない。

乾季のこの乾いた天候の下車の巻き起こす埃、そして雨季になればこの道は恐らく泥道と化すであろう、そんな道路際及びそこから多少奥に入った場所で潅木の間に立つ集落の生活は想像を超えた大変さであろう。瀟洒な家も並び活発な消費生活とバイクの洪水である、多少の金さえあれば食べ物にはまあ困らないSiemReap と、この道から眺める集落の様子には、まさに天と地の差が感じられる。

注:マレーシアの僻地でも一部のオランアスリがこの種の高床式小屋に住んでいることは知られている、ただそういう場所は町と町を結ぶ主要道路に面した場所ではなく、人里離れたジャングル地のはずだ。


到着したAnlong Vengの小ささに驚いた

そんな光景が次第に集落の多い地区になり、小学校も見えたと思ったら、一応町だと思われる場所でピックアップが停車し、車から人が降り出した。最初私はAnlong Veng 手前にあるどこかの小さな小さな町だろうと思った。そうではなくそこがAnlong Veng であり、この道が町を突き抜けるているのだとわかった。ここまで、Siem Reap を出て約2時間半経っていました。

通常この種の車は町の主市場近くを最終目的地とするはずだから、プサー(クメール語で市場の意味)はどこかと尋ねれば、すぐ近くだと、寄ってきた男たちが答える。カンボジアではこの種の車が到着すると、バイクタクシー屋がわっと寄ってくるのが普通です。まだ車には何人かの乗客と荷物が残っているのでなぜかと尋ねると、どうやら車は町のどこかへ向かうらしい。

そうか、とにかくここがAnlong Veng の中心なんだと思い、とにかく私も車を離れた。そしてすぐにピックアップトラックは走り去っていた。中心地と言ったて100軒を超える程度の家並みしか目に入らない。見渡したところAnlong Veng は予想したよりもずっと小さな町に思えた。どこへ行くのかと煩くつきまとうバイクタクシーの男たちを一切無視し、とにかく市場へ行って見ようと、私は歩き出しました。



カンボジアの辺境地訪問の旅  -中編-

- 東南アジアの広がりの中でマレーシアとの違いをあらためて感じた旅 -


まず宿探し

Anlong Veng の市場(いちば)は道路から50メートルほど中に入った場所にあった。いうまでもなく伝統的スタイルの市場であり、カンボジアを含めて東南アジア各国でこの種の市場をもう数え切れないほど数多く訪れてきた私には全然珍しくない。腹が多少減っていたが、まずその日泊まる宿探しが先であるので、宿を探して市場裏周辺を歩いた。呼び名はなんであれこの町にホテルがあるとはとても思えないので、宿とはゲストハウスのことである。市場から少し離れた場所に多少新しそうなゲストハウスを見つけたが、町の中心部へ飯を食いに出かける際夜真っ暗な道を歩かねばならないだろうと思ってやめた。

ということで町を突き抜ける中央通り?(先ほどまでピックアップトラックで走行してきた道のこと)まで戻ってゲストハウスを探した。この通りには目につく限り数軒ある。どこもいかにも古そうな家である。まず1軒目を訪れて中を見せてもらう。かなり古く汚い部屋だ。小さなバスルーム付きで5米ドル、まあ相場だろう。オンボロテレビのある部屋はそれより数ドル高いがそちらには興味なし。宿の世話人であろう若い男がしきりに勧めるので、とりあえずそこに決めた。ゲストハウス自体が暗くじめっとしている、Siem Reapではこんな古くて汚いゲストハウスがあったら誰も泊まらないであろう。しかしここは辺境の地Anlong Veng である、同じ水準は期待できない。マレーシアと違って、カンボジアは正真正銘の発展途上国ですから、都市部と田舎の差は驚くほど大きい、物と車と人が溢れるSiem Reap とAnlong Veng のような僻地の町の差は ”ものすごい違い”という形容がふさわしいのです。とにかく誰も泊まり客がいないのは気になる。泊まると決めたもののどうも気乗りしない。

注:この種の超安宿に泊まった経験のない方には想像は難しいです。バスルームといたってエコノミークラスのホテルのバスルームを思い浮かべないでください。単に部屋に付属してトイレ便器と水の出るシャワーの一角があるだけです。ベッドのシーツは通常泊り客1回毎に交換しません。床は裸足で歩くのが気持悪いほど薄汚い。ベッドの上には汚いカバー付きの枕と汚い薄い毛布か汚いタオルケットが置いてあります。毛布類はダニの心配がある。薄暗い裸蛍光灯が1本よくて2本部屋についている。古びた卓上扇風機が1台。その扇風機を置ける小さな台または机がある場合もあればない場合もある。それが部屋の全てです。窓には網戸がなく、ガラスのない引き戸。開ければ蚊や虫が侵入してくるのは間違いない。天井や部屋の片隅には蜘蛛の巣があったり、夜になればゴキブリが徘徊します。いろんな国と地でこれまで何百泊もしてきた私でも、この種の超安宿では熟睡は決してできません。


気に入らなかったのでゲストハウスをすぐ移った

宿のその若い男が私の腕時計(カシオ製、買った時4,000円ぐらいかな)を見ていくらだと尋ねて欲しそうな顔をする、片言の英語でおかしな質問をしてくる奴だ。私はこういう態度をする人間は嫌いである。カバンを部屋に置き、昼飯を食べようと通りを歩く、すぐ近くに別のゲストハウスがあったので、中に入って尋ねてみると、1つだけあるバスルーム付き部屋はベッドがしっかりしており、多少広くてあまり汚くない(もちろんきれいとは言えないが、先ほどの部屋よりましだ)、さらに部屋代は同じ 5米ドルだという。だったらこちらの方がずっと良いと思い、すぐ先ほどのゲストハウスに戻り、その男に1米ドルを手渡して、カバンを持ってゲストハウスを出た。即そのゲストハウスに行き、そこに泊まることにしたのである。泊まった部屋のバスルームは多少バスルームらしい。蛍光灯がそれなりに明るい。後でわかったが、その夜このゲストハウスの泊り客は全てカンボジア人であり、1階と2階の合計8室ほどは全てふさがっていた。ゲストハウスとはこうでなくてはいけない。

このゲストハウスはもっぱらカンビジア人主体のようで、オーナー一家とのコミュニケーションがほとんど成り立たないことが残念だ。まあ私はクメール語で数は言えるので部屋代の交渉は直ちに成立したが。AnlonVeng のある地方はタイ国境からそれほど遠くないのでタイ語が多少は通じると予想したのだが、このオーナー一家にもその泊り客にも全く通ぜずお手上げであった。いうまでもなく、英語がこういった大衆層に通じることはまずない。

注:Lonely Planetに載っているようなゲストハウスの場合、多少は英語が通じる。だからこそそういう宿をLonely Planet はまず勧める。しかし私は白人バックパッカー対象や白人バックパッカー主体の宿はどこの国であれ好まない、そういう所を選択の上位にはしない。ただし絶対泊まらないということではありません、同じ値段で施設的にずっと良ければそういう所にも泊まります。Siem Reapのような観光客がわんさかやってくるような地は除いて、私の基本はあくまでも現地人宿泊客相手の宿である。英語が通じることは私の場合、選択順位を下げる要因です。よってこの夜の泊まりは私の目的にもかなっていた。

注:出発前にクメール語(カンボジア語)を1週間ほど自習した。2002年時に学習した記憶はすっかり消えていたし、この短期間ではとても”なんとか最小限のコミュニケーションできる程度”にもならない。クメール文字の認識と数を数えることができるぐらいだが、知識ゼロよりはずっと良い。クメール語は声調言語ではないので、発音の面ではタイ語やベトナム語より難度は落ちるが、文字の読み方に多くの不規則性があってこれには相当てこずります。


タイ国境に近いがタイ語の通用力はごく小さい

ごく少ないとはいえ中にはタイ語が多少話せる人もいる。例えば、町の中心道端でタバコや椰子の実を売っている屋台で、椰子の実を1個買って飲んだとき、その屋台主にはタイ語が通じて、ごく短いおしゃべりできた。後で書くように、バイクタクシーにもタイ語の話せる男がいた。しかし私の予想よりはるかにタイ語が通じなかった。タイ通貨バーツからリエルに自由に両替えできるし、(私はやらなかったが)大衆食堂などではタイバーツだって受け取ってくれるのであるのだが。町での通用レートは 10バーツが1000リエル とわかりやすい。

両替えは町の中央通りに並ぶ屋台式の両替屋兼宝くじうり屋台で簡単にできる。カンボジア政府はこの種の商売をとても規制できないであろう。両替えするための通貨は米ドルが主体であるがタイバーツでも問題なくできる。いうまでもなくこの地でマレーシアリンギットから交換できることはありえない。マレーシア通貨など見たことないであろうし、そもそも一般大衆はマレーシア自体がどこにあるか知らない人ばかりだろう。例えばゲストハウスのオーナー一家の女性は、私の発したクメール語(カンボジア語)での「マレーシア国」という単語になんら反応しなかった。

尚Anlong Veng に銀行などというものは存在しないが、Siem Reap ではいくつかの銀行がきれいな店舗を構えており、そういう銀行ではマレーシアリンギットからリエルへの両替えはできる、少なくとも窓口の為替率表にはちゃんと表示されています。リンギットは両替え率が悪いので、私は最初から米ドルとタイバーツを持参していました。Siem Reapには私設両替え屋台と両替えショップがあちこちに且つ数あるので、しいて銀行で両替えする必要はない。さらに現金からの両替えは私設両替商の方がずっとよいし(1米ドルが 4100リエルぐらい)、極めて簡単、単に現金を差し出すだけで、直ちにリエルを手渡してくれる。当然ながら旅行者小切手は銀行だけが受け付けます。

銀行がないだけではなく、多分新聞も売られていないのでは思った。種類多いとはもちろん言えないが、物売り店はいくつか並んでいます。しかし、新聞を売る店なり屋台を最後までとうとう見かけなかった。ひょっとしたら新聞さえもAnlong Vengでは入手できないのかも知れない(断定はしません)。Siem Reap では販売所は非常に少ないとはいえ、クメール語紙各種、華語紙1種、英語紙2種、タイで発行の英語紙1種 が売られていました。華語紙とは、コラム第304回で詳しく紹介した、マレーシアの華語紙”星洲日報” 社がカンボジアで発行しているカンボジア華語新聞です。

日常の物価の紹介

Siem Reapでの物価を参考までに:
大衆食堂で朝食のお粥 2500リエル、昼食の経済飯 2000リエル、屋台での夕食のスープ麺 2500リエル、屋台での野菜炒め麺 4000リエル、プノンペンで発行されている華語新聞 1部1600リエル、大衆食堂でのブラックコピー 1杯 1000リエル、ゲストハウスでシャツとスラックスの洗濯代 1500リエル、バイクタクシーに短距離1回乗れば1000リエル、菓子パン 1個 1000リエル、椰子の実 1個 1200から1500リエルなど。

Anlong Vengでの物価は次ぎのようです:
昼飯や夕飯に入った大衆食堂で、1食2000リエルから3000リエルぐらい。つまり皿に持った白飯と選んだおかず1種でこの値段です。 椰子の実1個 1500リエル。朝食に食べたスープ入り麺どんぶり で1500リエル。甘味屋台で小鉢1杯の小豆 500リエル と安い。一般に人々は1米ドルを4000リエル と計算しています。

Anlong Vengでの物価はSiem Reapと大して変わらないか幾分安い程度である、しかし選択ははるかに少なくなっている。ミネラルボトルを除けば、椰子の実は1番安心して飲める飲料である。その場で椰子の実の頭部分を削ぎ落として穴を開けてくれるので、ストローを差して飲むだけです。椰子の実売りによっては、アイスボックスに椰子の実を入れている所ももあり、そういう所では幾分冷えた椰子の実水が飲めます。私はカンボジア滞在中毎日最低1個は椰子の実を飲みました。

もっとも身近な食事、大衆食堂の経済飯

カンボジアの大衆食堂またはそれに類似した屋台食堂での経済飯のスタイルはマレーシアともタイともちょっと違う。オカズをいれた容器がテーブルに並べてあり、それを指差して注文するのはほぼ同じであるが、白飯の皿にオカズをぶっ掛ける方式ではない。一々オカズを別の皿なり小ぶりの丼に盛るのです。よってオカズは1種か2種になりやすい。1種のオカズプラスご飯で大体2000リエル。もちろんマレーシアでもこの方式はあるが通常は数人で一緒に注文する時、この方式を取り入れています。個人で頼む経済飯はほとんどの場合、飯の上に複数種のオカズを載せます。

尚Anlong Vengでも明かに華人経営だろうというこぎれいな大衆レストランが1軒だけあった。大衆食堂風ではなく、メニューから料理を注文する形式です。ゲストハウスも併設している。部屋を見せてもらった限り、Anlong Vengの水準からすればこぎれいであった。結局この大衆レストランでは食事をしなかった。理由は大衆食堂より値段が高いのは間違いないからです。

氷を遠慮しても所詮全てが衛生さに欠けるのであまり意味はない

で大衆食堂では、オカズを指差し注文すれば店の女の子がテーブルの上に運んでくれる。テービル上には箸、スプーンとフォークが用意されている場合が多い。しかしこれらのスプーン類はかなり使い古されていて変色している。まあ気にはなるが、あきらめて食べるしかない。お茶色の水なり白湯が入った容器がテーブルに載っている場合が多い。その場合は、店の者が氷をいれたグラスをテーブルに置いていく。そうでない場合は店または屋台のものが氷を入れたグラスに茶色い水のグラスを持って来てくれる。つまり白湯か水は無料ということです。

グラスに氷をいれるか入れないかは迷うところだが、いずれの場合も一応私は要らないと伝えた。氷が衛生的でないことは当然の知識であるが、だからといって提供される白湯やお茶もどきがちゃんと沸騰した熱湯で作られている可能性は薄いし、提供されるグラス自体がどれくらいきれいに洗ってあるか、極めて疑わしい。テーブルに並べてあるグラスを客が飲みそれをまた別の客が飲むことも珍しくない。よって氷だけにこだわたってあまり意味のないことではある。尚Anlong Veng にはプロパンガスがまだやって来ていないようで、見た限り大衆食堂などはどこでも炭や木を燃やしての料理作りです。ゲストハウスのオーナー一家も木々を燃やして料理していた。

カンボジアのこの種の食堂と屋台での衛生度は東南アジアでもかなり低い方だ(でも最低とは言いませんよ)。古びた小屋みたいな大衆食堂の床はゴミだらけと描写しても言い過ぎではない。ましてAnlong Veng のような僻地では水自体が十分に得られないので、どこもタライに溜めた水で洗い物をしている。その水はタライの底が見えないほど濁っているのだから、洗たって所詮汚れが薄くなる程度だ。全てが万事この程度が洗い物の基準である。よって滞在中は毎食私はこの種の大衆食堂か屋台で食事したが、いつか下痢に襲われる覚悟は多少はしていたものです。カンボジア貧乏旅行は決して楽ではないのです。

東南アジア辺境の地旅の危険度を考える

上記で述べたように飲食に起因する下痢などになる可能性は常について回る。それは容器の洗いの不充分さだけではなく、食物そのものの非衛生さ、料理人らの衛生観念の欠如もあるからです。例えば死んだ動物の肉を料理に混ぜたり、多少いたんだ肉類、魚類を料理している可能性は捨てきれない。この種の衛生観念の差はマレーシアやタイと比べても間違いなく落ちる,と私はいつも感じます。

前編で述べたように、土煙の中でも徐行せずに平気で走行して行く、対向車が来るという予想が働かない。交通安全意識は、日本のそれと比べること自体がナンセンスであり、交通事故はいつでも起こり得る。ただ幸いなことにまだ交通量自体がマレーシアやタイに比べてはるかに少ないことと、バイクが小型であり旧型が多くそれほどスピードが出せないため、大きな事故が少ないと想定される。しかし事故率はカンボジア経済成長に比例して間違いなく上がるであろう。

Siem Reapのような大きな町であれば一応病院はあるし、医院は複数ある。しかし医師自体の不足とその水準の低さからマレーシアまたはタイの医療水準にはるかに及ばないのは常識であり、調子悪い時の応急処置を受ける程度と思っていたほうが良い。多少でも深刻な場合はタイへ向かへ というのが、東南アジア旅行者の必須知識です。Anlong Veng には医院はなさそうだ、全く見かけなかった。医療もどきを受けられる場所はあるが、まさか外国人旅行者がそこを訪れることは考えづらいので、とにかく Siem Reapまで行くしかない。といってこれは簡単なことではない。まして夜間は交通さえない。距離的には近い、国境を超えてタイまで行くのはいろんな意味でよりたいへんだ。

このように病気とりわけ事故とけがの場合は辺境の地はまこと不利で劣るのである。病気はまだ時間差があるので、なんとかなる場合もあるだろうが、けがは緊急を要する。大げさではなく、助かるものも助からない場合は容易に考えられます。東南アジア辺境・僻地の旅は何と言ってもこれが1番のリスクである。この面を別にして、僻地・辺境の旅は特に危険ということはなく、且つ快適さや衛生面は犠牲にしなければならないなどいろんな面でたいへんだが、好奇心を満たせられ、旅人としての満足感が得られます。

ところで辺境の地では治安はまず安心である、これはインドネシアでもミャンマーでも同様であり、治安が悪いのは中規模以上の町部であるのが東南アジアの一般です。Anlong Veng のような田舎町ではこそ泥程度しかいないであろう。ただし辺境の地でも、外国人がわんさかと訪れる場所がある、例えばタイのチェンライ近辺のように。つまり地理上の辺境地でも、旅行面では全然辺境ではなくなってしまっています。こうなるとまた話しは別だ、つまり人と物と金の流れが盛んになればそれだけ、いろんな意味でそれを狙う者が増えるからです。

旅人としての告白

長年先鋭的な旅をしてきた私も、40才代半ば前頃からこういう旅するのがだんだんたいへんに感じるようになり (それなりの経験を積んだ若い者でも決して楽ではない)、50才を過ぎる頃からはその気持がより増した。その1番の理由は、旅への情熱が最高時に比べて下がっており、そのためいざという時に耐える精神力の衰えである。どういうことかというと、身体不調や病気になった時、それに耐える精神力が続かなくなったということです。僻地・辺境の地では病院へ行くこともできず、救急車が助けに来てくれません。自分の体力よりも精神力がものをいうのです。不安さに襲われた中で持ちこたえるために必要なのは、まず精神力です。残念ながら私自身これが40才ぐらいまでの頃と比べて落ちたことを、自覚できるからです。といって、旅への情熱がなくなったわけではありませんよ、だから今回こういう旅をしたのです。

元クメールルージュ兵士と支持者の住む地

Anlong Veng の町の一角に大きなしかし薄れた色の看板が1枚だけ立ててあります。Anlong Veng の郊外及びタイ国境に至る地に広がる元クメール・ルージュ(日本では一般にポルポト派と呼ばれていた)の居住地などを示す簡易地図です。つまりクメール・ルージュ指導者の誰々が当時どこに住んでいたかを描いてあるのです。この看板を見つけて私はしげしげと眺めていたが、誰も他にこれに気を向ける者はいない。話しでは、数年前カンボジア政府は、この元クメールルージュの地としてこの地に観光客を引きつけようとしたそうである。この大きな看板はその時描かれて立てられたものであろう。しかしにお世辞にもその試みが成功しているとは思えない。Anlong Veng のこのインフラでは一般旅行者を引き付けるのはとても無理でしょう。

とにかく私はその元クメールルージュ指導者の住んでいた場所を見に行くことにした。ここでバイクタクシーに数台交渉したが、私のクメール語ではほとんど細かな意思が伝わらない、そこで「ピアサータイ、ピアサータイ (タイ語の意味)」と数回訴えると、1人がタイ語のわかるバイクタクシー仲間を呼んで来た。そこで彼と交渉し、出かけることにした。

町の中心部からバイクで4、5分の所に大きな池がある。そのほとりにある、虐殺者との別名を持つ元指導者タモックの家に彼は私をまず連れて行った。家といっても中は空っぽの廃墟であるが、番人がいて中に入る場合は金を払う。私はその場からの池の景色の方がよっぽど興味を引いた、中には入らず。基本的に私はどの指導者がどこに住んでいた、どんな家に住んでいたかなどということに興味はわかない。そこからまた別の場所に移動した。この池のほとりにあった家にポルポトが住んでいたと,バイクタクシーの男は指差しながら話してくれた。Anlong Veng の町中心部からちょっと離れた、しかも凸凹道を数分は走る景色良い池の周りに彼ら指導者は一時居を定めたわけだ。

また町から続く主要道に戻る、偶然 Tourism Cambosia などとぼんやりとした英文字が描かれた小屋を目にしたので、バイクを止めて中に入る。1人の留守番人がいるだけ、恐らく役人なのであろう。しかし資料類は完全にゼロ、1枚の地図、パンフレットさえもない。黒板にAnlong Veng からタイ国境に至る地区の手書き略図が描かれているだけである。参考には全くならない。これじゃ、観光客が来てもなんの役にも立たない。

タイとの国境と最後のクメールルージュ村をバイクタクシーで訪れた

まだ午後の早い時間だったので、これだけで町に戻っても仕方ないと思い、そのバイクタクシーと交渉して、この後タイ国境近くの元クメールルージュ村まで往復することにした。さらに私の目的の一つである国境検問所情報も得られる。往復5米ドルで手を打つ。後で感じたが、この5米ドルは価値ある行程であった。

こうして国境まで赤土の道路を片道約1時間弱かけて往復したのです。道自体は行程の半分以上が幅広く平坦である。後半から山道になり、さすが結構なる凸凹登り道となった。それはいいとして、とにかく砂埃がすごい。ごくたまに対向車とすれ違うと、まともに砂埃を被る。往復して町に戻った私は全身砂埃まみれ、目はしょぼしょぼするし、耳の中まで砂埃に満ちた。頭髪など砂埃でごわつくぐらいあった。

着々と進出するタイ

この道路の半分以上ががきれいに平坦化され両側合計2車線に拡張されていたのは、タイが為している土木工事だとのこと。近い将来この道路にもタイ車が目立つことになるかもしれない。タイは着々とこうしてカンボジアへの投資を狙っている、いや増やしているのです。何せAnlong Veng の町から国境まで距離は約20Kmほどとのことですから、道路さえ完成すれば交易と投資はより楽になるであろう。

カンボジア東部の国境町 Poipet ではありとあらゆる物がタイから運ばれて来ます、その量たるやすごいものです。一方この地は北部僻地の国境ですから、そこまではいかないだろうが、道路完成時には、程度はずっと劣るとも似たような状況がこの地方にも遅かれ早かれやって来るのであろう。こういう状況と現実を眺めると、東南アジアの中心はタイだとつくづく思う。昔タイの西側の国ミャンマーとの陸路国境を超えた時も物皆タイから運んでいた。タイの北部と東部の隣国、ラオスとの国境でも物の流れは圧倒的にタイからラオスである。タイは地政学的にまこと好位置にあると思います。

注:タイとラオスの国境は複数あり、そういう場所の好きな私はこれまで何回も訪れた。そういう時国境の動きを眺めていると、いつも日常品から電化製品までたくさんの物がラオス側に運ばれて行くのを目にします。


ポルポトの墓には花が生けてあった

行程の最後は急な山道、そして小さな村がそこに広がっていた。村民は元クメールルージュの兵士やその家族と支持者のはずだ。カンボジア側国境検問所まで数百メートルの地点である。村に至る坂道から見える風景と村の周囲の景色は荒れている、なぜなら採石と伐採が無造作に行われた様子が感じられるからです。採石工場(こうば)もある。クメールルージュはその支配地区の材木や採石をタイの商人らに売ることで主たる資金源にしていたと、昔何かで読んだ記憶があるので、多分このことかもしれない。

村はみすぼらしい家々が続き、もっぱら物売り商売を営んでいる店が通りに並んでいる。その理由はタイ側からの訪問者相手の商売だからです。タイ人はこの国境一帯だけであれば、国境通行証だけで越境できるからです。バイクタクシーは村の中を突っ切って、私をポルポトの墓の場所に連れて行った。小さな土盛りの立派とはいえない墓であり、脇に花が生けてあった。花が生けられていた、そのことが意外に思えた。当時身体が弱っていたポルポトは自然死したのか、党内権力を奪ったタモク新指導部によって口封じのために殺されたか、未だになぞに包まれている。まあ、そんなことはどちらでもよい、と私は思う。カンボジアはクメールルージュ(日本ではポルポト派と呼ぶ)の国民大虐殺を自分たちの手では今でも裁けないでいる。それは相変わらずの国内権力闘争の故もあるし,国際政治のせいもある(当時クメールルージュを支援した数少ない国の一つが中国であり、中国は口を閉ざしていますね)。

小さな小屋式の国境検問所

国境検問所の柵の前でしばし眺めた。検問所の地名は描かれた文字からChoam と書かれている。小さな小屋が国境検問所である。その日はタイの休日のせいだったからであろう、百人を超えるであろうタイ人がタイ側領土へとばらばらと戻っていた。皆国境市での買い物客のようである。残念ながら私は柵を超えて足を踏み入れられない。多分この国境はタイ人以外の外国人もビザ取得してあればタイ側から入国できるはずだ。またいつかこの国境から入国してみようと思いながら、バイクでその場を後にした。

注:タイ側からカンボジア入国しても足がない可能性が非常に高い。なぜならこのChoam国境にはバイクタクシーが客待ちしていないのだ。これは大きな問題です。

バイクタクシーはそこから険しい山道を15分ほどの見晴らしのよい場所へ連れて行ってくれた。そこにもタモクの家があったとのことである。高台のためカンボジア領とタイ領に渡って極めて見晴らしがよい。軍事上の監視には好都合なのであろう。カンボジアを一時統治したクメールルージュは最後の最後はこの村当りに追い詰められたわけだ。しかしこの地を最後まで政府軍は攻込めなかった。険しい僻地、そして隣はすぐ逃げ込めるタイ領だからであろう。
こうして元クメールルージュの民と兵士の村を後にした。その地から離れることは難しいであろう、元クメールルージュの村人は今何を思うのであろうか。

町の中心部での大晦日夜の様子

また1時間ほどかけてAnlonVeng の町に戻り、ゲストハウスの前でバイクを降りた。部屋に入ってすぐシャワーを浴びたのはいうまでもない。その夜は、ゲストハウス対面当りの大衆食堂で経済飯の夕食。ご飯が暖かでオカズもそれなりに良い味であったし、なかなか可愛い女の子が働いていた。まあ朽ち果てた店の様子を別にすれば、こういうシンプルな夕食もいいだろう。その近くに出ていた甘味屋台でさっそく、小豆を食べた。選んだ品を小鉢に入れてもらい食べます、500リエルは安い。甘味屋台には目のない私は、この種の甘味をいろんなところで頻繁に食べていますので、カンボジアでも同様です。ただAnlonVeng のこの甘味屋台はタイ風でした。スタイルも品揃えもタイ風、多分タイから取り入れたものでしょう。

泊まったゲストハウスのある当りが町の中心部だから、飯を食べる、茶を飲むのはたやすい。日が落ちてすっかり暗くなった。夜数回ゲストハウスを出てその当りをぶらぶらしてみる。街灯がないのでたいへん暗い、10メートル離れれば相手の顔は認識できない。町の一角に装飾豆電燈を飾った家があったので、立ち寄って尋ねると、若い女の子が出てきてカラオケとマッサージだと言って私を誘う。昔ならともかく、わずかの金でも節約第1の私にはそんな”娯楽”はもう一切できませんな。

町の中心部には電燈か蛍光灯を点けた屋台が数軒でている、果物生ジュース、かき氷風、に並んで缶ビールがテーブルに積んである。しかし所得階層の低いこの地で、どんどん缶ビールを飲む奴がでてくるとは思えない。VCビデオ屋にはたくさんの男たちが集まって、テレビ画面に写された映画を見ている。以前ベトナムでもこういう光景を見た。こういったことが町の夜の娯楽なのであろう。町の規模にふさわしく、大人しく小さな規模である。

前編冒頭に書いたように、これが大晦日の夜の光景であった、ゲストハウスにも町にも大晦日はこれぽっちも感じられなかった。朝からの車旅と砂埃にまみれたバイク行で疲れていた私は,早めにベッドに着いたのです。ゲストハウスの居間では遅くまでカンボジアテレビの音がしていました。



カンボジアの辺境地訪問の旅  -後編-

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Samrong へ行くにはバイクタクシーが唯一の交通手段

蚊に2回ほど悩まされながらその都度宿が用意した殺虫剤をちょっとだけ噴射し、そうこうしているうちに朝を向かえた。元旦なのだが、回りにそんな雰囲気はこれっぽちもないので、私もそんな気分はとっくにどこかへ行ってしまっていた。深夜も早朝も騒がしいゲストハウスである。全然暑くないので、身体が寒くなる水シャワーは朝食後に浴びることにして、外へ朝食に出かける。市場まで行って、朽ちかけた構えの大衆食堂で麺類の朝食、1杯1500リエル。10年ぐらい使っているのでは思うようなオンボロ箸である、そういう容器類さえ気にしなければ美味いとはいえないが、まあそれなりの味だ。

市場付近に停まっているピックアップトラックとバンに、今日の目的地であるSamrong へ行くかと尋ねてみるが、なかなか通じない中にも、Samrongへは行かないことだけははっきりとわかった。町を突き抜ける道路上で客呼び込みしている、ピックアップトラックに尋ねるが、いずれもSiem Reap 行きである。尋ねた皆がバイクで行けと言う。昨日聞いた情報と変わらない。これだけ違った男たちに何回尋ねても全て答えは、Samrong へはバイクタクシーしかないとのことだ。もしくは乗用車を1人でチャーターするしかない。これはずっと高つくので、始めから私には考慮外。

Anlong Veng から西へ70、80Kmも離れたSamrong へバイクの背に乗っていくのはつらい、さらにまたきっと砂埃にまみれ且つ凸凹道であろうと推測したので、バイクは最後まで気乗りしなかった。ただ安心したのは、Samrong へ行けないとは誰も言わなかったので、安全な道だということだ。つまりもう地雷は完全撤去されたに違いない。定期交通手段はなく、希望に応じるバイクタクシーしかないということは、地元民もSamrong へ行かないということだ。要するに物はSiem Reap から運ばれてきており、人の流れもSiem Reap との間であり、Samrong へ行くような地元民はまずいないということであろう。

注:クアラルンプールの本屋で立ち見したLonly Planet にはAnlong Veng -Samrong 間にピックアップトラック便があるかのように書かれていたが、事実はないとわかった。まあ、ガイドブックが何を書こうが、現地で情報収集主義の私には影響なし。


結果としてたいへん意義あるバイク行となった

昨日のバイクタクシーをなんとなく探していたら、彼が通り過ぎたので、ゲストハウスへ迎えにくるように伝える。Samrong まで15米ドルだと彼は言う、まあ正直な奴なので私は値切らずそれを受け入れた。彼は AnlonVengへの帰り道は100%客を拾えないので、15ドルでも仕方ないであろうし、後で実感したがこれだけの距離と行程のたいへんさからこの料金はふさわしい料金であった。そしてこの行程のバイク通行は、たいへん有意義なものであった。

注:カンボジアではバイクといってもいわゆる原付自転車クラスがほぼ全てのバイクタクシーに使われている。スピードがあまりでないので、このほうが都合が良い。ヘルメットは当然ないし、交通安全意識の薄い国だからです。尚私がこのように身軽に移動できるのは、荷物が小型カバン1個だけという点も貢献している。私は期間の長短に関わらずどんな旅でもカバンは1個であり、中身はぎりぎりまで軽量にします。よって毎日必ず洗濯します。今回はカバンの自重を入れて重さ 4.5Kg 弱です。そこでバイクの背にカバンを持って乗ってもほとんど邪魔にならない。


通行量のごく少ない、砂埃の舞い立つ赤土の道

こうして8時40分ゲストハウスを出発。AnlonVeng の中心部を離れて数分後三叉路に出る、まっすぐ北に行けば昨日の元クメールルージュ(日本では一般にポルポト派と呼ぶ)村及び国境検問所に至る。そこをバイクは左折した、つまり西へ向かうのです。それから2時間あまりかつての地雷原の中を赤土の道路が延々と続きました。最初の行程1時間弱ほどは乗用車2台がすれ違うのは難しいぐらいの幅の道で且つ凸凹がひどい。道の真中に大きなへこみがしばしばある。普通乗用車でこの道の走行は相当たいへんであろう。この道を雨季に通行するのはたとえバイクでも相当なる労力がいることに違いない。今回の旅の中で経験したもっとも荒れた道でしたが、その後は自動車2台のすれ違える広さの平坦な赤土道路になった。ちょうどブルドーザーが1台、道路を拡張し道を均しているのに出会った。

交通量が極めて極めて少ない、対面方向または後方からやって来る自動車は合わせて、1時間にわずか数台程度でした。バイクと自転車はそれよりも多いが、それでも時々出会ったり追い抜かれたり追い抜いたりという程度です。昨日と同じように乾いた赤土道路から湧きあがる砂埃は相当なものです、自分たちの乗ったバイクの起こす砂埃を見ただけでもよくわかります。運転するバイクタクシーの彼は昨日と同様帽子を被りマスクをしているが、私はどちらも持ってないのでしてないのです。

道の両側には元地雷原が延々と続く

このAnlonVeng からSamrongへ向かう道路の特徴をあげれば、まず元地雷原につきます。道路の両側は潅木になったり、何か作物を植えているらしき畑になったり景色は単調ながら変わる、しかしその奥の方は森林地になっている場合が多い。道の両側には同じような文句の立て札が立ててあるのが見えます。それは Halo Trust という組織名による地雷撤去のお知らせです。" Safe Area . Cleared by Halo Trust. " と書かれている。つまりその立て札が立ててある地区は地雷撤去が終った、よって入居してもよろしいとのことで、そういう近くには集落があります。全ての家屋は高床式だ。家といってもまあ正直に描写すれば小屋というべき家屋ですが。

この道の両側に延々とこの種の地雷撤去兼安全宣言立て札が立っているのです。単に数キロではなく全道程のうち恐らく 50Km前後ぐらいの道程なのです。これだけを考えてもいかに多量の地雷が埋められていたかが推測できます。加えて、UNICEF及び各国のNGOとカンボジア側がそれぞれ共同作業した示しとしての立て札も同じくらい数多く立っている。つまりある国のNGOのロゴとカンボジア側の名前が併記された立て札、また別の国のNGOのロゴとカンボジア側というような形で立て札が道路の両側の敷地内に立ててある。いずれも道路側を向いているので、通行する際に垣間見えるのです。

世界の種々のNGOが援助にやって来たことがわかる

(軍隊かその経験者による)地雷撤去だけではなく、井戸掘り、医療衛生活動などのためにいろんな世界のNGOがこの地にやって来たんだなとわかります。道路の両側にばらばらと点在する集落には電線が来ているところも結構あるが、どこであれ水道がないのは間違いない。どの家屋も大きなカメがその前に並べてある。雨水などを溜めるためですね。そこで川なり井戸が必須となる。川は乾季では枯れてしまうであろうし、どの集落の周りにもあるわけではない。よって井戸が不可欠だと推測できます。そのために井戸掘り活動が熱心になされたのでしょう。

興味深いのは、その井戸掘り活動がなされた場所です。道路際の集落地の一角に囲ってある、井戸の手組みポンプが2、3本地上に立っている、そしてその囲った一画には、井戸の使い方をイラスト及びカンボジア語で示してあります。間違った使い方で井戸を汚したりしないようにということですね。井戸を掘ってポンプを設置して終りではなく、その後の手入れが非常に重要であることがわかります。こうした各国NGOが掘った井戸場も、集落のある場所毎に数多くあります。

集落民の姿

この道路に沿った地区、つまりつい数年前までは地雷原であった地区は、かけねなしの僻地です。1番近い町までバイクで、なければ自転車でそれもなければ歩いていかねばなりません。夜は月夜であっても懐中電燈なしには暗くてとても通行できないでしょう。集落にみすぼらしい小屋の物売り店はありますが、店舗はありません。小さな集落なのでそこまでの商業活動は無理です。カンボジアの数少ない都市である Siem Reapが別世界に思える、いや事実別世界です、そんな僻地なのです。子供たちが道端や敷地内で遊んでいる、裸か裸に近い姿もあるし、擦り切れかかったこれぞ古着というべき衣服を着ている。歩いていたり、小屋の前で子守りしたり所在投げに座っている人、井戸で洗濯している集落の人がいます。太ったような人は一人も見かけない。まず食っていくことがたいへんなこの地でそんな食生活は夢物語であろう。

同じ田舎でも、マレーシアの田舎Kampungでは実に多くの肥満体の人たちを見かけます。カンボジアにはまだそんな時代は来ていません。この道路際に広がる 集落はいうまでもなくAnlong Veng のような田舎町でも人々はスリムです。

道路から見える限り地雷撤去の立て札の地が大部分を占める、人はそういう地の道路に近い部分で集落を作って住んでいる。奥は潅木や森である。どこまでが地雷撤去済みか知らないが、地雷撤去地とはいえ、その地に住むのはあまり気持良いものではないだろう。少なくともよそ者である私はそう感じるし、このコラムをお読みの方もきっとそうだと思います。奥の森林地などへ足を踏み入れる気にはならない。

今尚地雷原である場所に住む人たち

AnlonVewngを発って1時間ほどだろうか、変わらぬ風景の中、それまでとは見慣れない看板を見かけた。バイクを止めて近づいて確認。立て札は赤く塗られた下地に骸骨マークが大きく書かれている、その下に Danger Mines  と書かれている。つまり地雷未撤去地の知らせなのだ。この地雷未撤去地がしばらく続いた。驚いたのはこんな場所にも集落がいくつかあり、人々が住んでいることです。もちろん道路際の場所であり、そこに家である小屋が立っている。こういう道路際の草むらでない一角は安全なのであろう、多分。しかしそこから10数メートル奥は草むらであったり、森林へ入って行く場所だ。集落の人々はそんな場所にも足を踏み入れるのであろうか? この地に住む人たちは、文字通り地雷と隣り合わせの暮らしをしているのだ。この人たちの意識と心理を我我が理解するのは不可能である。

水道はなく、しばしば電気もなく、町の消費生活とは無縁の厳しい生活環境、町まで遠く離れ定期交通便すらない。乾季には砂埃にまみれ、雨季には泥まみれになる地である。加えてすぐ隣は地雷原!

タイが建設中の電力供給

Anlong Veng を発って1時間半ぐらい走った。赤土の田舎道は変わらないが、立派な電柱が間隔的に立つ地域になった。そしてしばらくして三叉路に出た。そこの茶店で5分ほど休憩し、三叉路を左折した。翌日わかったことだがこの三叉路を右折すれば、タイに入国できる国境検問所に至る道でした。この電柱にはまだ電線が架けられていない、つまりまだ工事中ということです。バイクタクシー運転手が、タイ国のプロジェクトによる電力供給架設だと教えてくれた。

三叉路を曲がって以来、道自体は変わらないが、両側の風景に多少変化が出てきた。集落が増え、時には小学校もある村規模といえる地区も通り過ぎた。感覚的に Samrong に近づいているなとわかる。それでもSamrong の町中心までは、50分弱の行程であった。

NGOの支部が並ぶSamrong の町はゲストハウスの質が良い

Samrong はOddar Meanchery州の州都つまり中心町だそうです。といっても初めて訪れたわけです。バイクタクシーの背から見る限り町に入ったなと感じ、新しい家も案外見える、何よりも道路が舗装されているのだ。Siem Reap以来の舗装道路だ。町の中心部に入る直前の場所で、なかなか立派で大きな家を、地雷撤去やヨーロッパの僻地援助の団体だと思われる NGOが借りきって地方支部にしていた。1軒は地雷撤去の Halo Trust の文字、もう1軒はECのマークと共に オランダのNGO ”ZOA"の文字であった。”ZOA"は道筋がらの立て札で数多く目にした。そうか、この町がNGO活動の本拠地なんだとわかった。

NGOの外国人が以前たくさん泊まったからなのかどうかは推測の域に過ぎないが、この小さななんら観光地でも商業地でも、ましてや工業地でもないSamrong の町のゲストハウスは見たところなかなか新しい。私がその日宿を取ったゲストハウスはSiem Reap並にきれいで良かったので、驚いたぐらです。

町中心部に入り、町を突きぬける一本道を行くと必然的に市場にでる、とりあえず市場をバイクの背で回って見る。なんら変哲のない小さな田舎市場であった。Anlong Veng を出て約2時間半たっていた。宿を探すまでもなく、市場近くの道路に面した見ただけでもきれいな作りの3階建てゲストハウスに決めた。バイクタクシーの彼に約束の15米ドルを手渡す。いいバイクタクシーであったので、私は満足であった。「ポムマーイーク ピーナー(来年また来るよ)」 とタイ語で言って彼と分れる。来た道を彼はまた戻って行くのだ。

まだ正午頃のせいかゲストハウスは誰も泊まり客はいなかった。まず宿に働いている(と思われる)女の子に部屋を見せてもらい、通りに面した側の2階の部屋に決めた。ファンとテレビを載せた小さな机付きで6米ドルだ。部屋が新しく明るく、シーツが白くきれいである、床は裸足でもなんら違和感を感じないきれいさがうれしい。しかもバスルームのシャワーは水が問題なく出る。AnlonVeng のゲストハウスとは雲泥の差とはこのことを言う。6米ドルでこの快適さは二重丸です。

ゲストハウスはカンボジア人の宿泊所

このようにカンボジアでは同じゲストハウスでもその質は地方によってものすごく差がある。Siem Reap では8米ドルの非冷房・バスルーム付き部屋に泊まったが、選択のたいへん多いSiem Reap でも、部屋は かなり良 であった。外国人の一般旅行者はまず泊まらないであろう、AnlonVeng ではゲストハウスの質は最低クラスだ。それだけ観光開発がはるかに遅れている証拠でもある。

ゲストハウスは何も外国人旅行者だけのためだけにあるのではない。用事で町を訪れた人、出張のビジネス風の人、役人などのカンボジア人もこういうゲストハウスに泊まります、というか場所によってはカンボジア人が主たる客である。よって5米ドルは決して”たいへん安い”とはいえない金額です。カンボジアの国民1人あたりの平均所得は統計数字の面だけを考えれば、大衆労働者層にとって5米ドルはポケットマネーではありません。

カンボジア人の立場に立っての物価観

こうして考えて行くと、カンボジア人下層大衆層のエンゲル係数は高いことがわかる。大衆食堂でつつましく飯食えば、最低 2000リエルから3000リエルはかかる、つまり 0.5 から 0.75 米ドルだ。マレーシアの地方における大衆食堂ではつつましい飯食が RM 2.5 から 3.0 ぐらい。つまり 0.6 米ドルから 0.8米ドルとなります。世界銀行の2005年統計では、カンボジア国民一人あたり年間所得は 320米ドルだそうです。この数字を信じるとすれば、それはマレーシア国民の平均国民所得の10分の1以下である。カンボジア国民とマレーシア国民の間にある平均国民所得の大きな差を考えれば、1食の値段の持つ重みがはるかに違うことがおわかりですね。東南アジア旅行の時、その国やその地方の物価を考えるとき、日本円に直接換算しては状況が見えてきません。ある物またはあるサービスの価格がその国で持つ重みを考える必要があるのです。

Samrong の町は大衆飯屋が少なく且つオカズの数が数種だけと、お粗末である。そのくせ ご飯とおかずで 3000リエルも取るのだ。いずれもまずくはないが単調な食事である。ここでも椰子の実売りの屋台で椰子の実を飲む、これにつきますね。その日の午後パン屋を見付けたので、フランスパンを2本買った。1本 500リエル。カンボジアはどこにでも自家製パン屋がある。フランス植民地だったせいで、フランスパンを焼いているのだ。このSamrong のパン屋のフランスパンも香ばしくておいしかった。

元旦であることを感じるものがない

部屋に入ってまずシャワーを浴びた、とにかく身体中の砂埃を落としたかった。服上下は宿の女の子に頼んで洗濯に出す。その後昼食に出かけた序でに、さらに午後のひとときも多少町を散策した。といってなんら見るところのない田舎町なので、あまり時間つぶしにはならない。町を突き抜ける道路だけは舗装されているが、道路の端にはずっーと厚く砂が溜まっている。従がって実際の舗装部分は道路の半分に過ぎない。ここも結構埃っぽいのである。

AnlonVeng と違ってSamrong をそれなりの町だなと感じたのは舗装道路と銀行が1軒あることです。もっともその日は1月1日なので、加えて翌日も休みであった。そう今日は元旦なのだ、と私はあらためて気がついた。そのぐらいその日は朝からどこにも、つまり出発したAnlong Veng にも、赤土道路の元地雷原に広がる集落はいうまでもなく、このSamrong にもそんな様子を感じさせるものはこれっぽちも見なかったし、私自身感じなかった。

物売り店や飲食店を営む商売人の家は華人系が多い

夕食を食べた大衆食堂もそうだが、入り口や壁に旧正月(中国正月)祝いの中国漢字入りの飾りがいくつか架けてあったり、吊るしてある。しかし、マレーシアでこの種の飾りを見慣れた目から見れば決して派手な飾りではない。旧正月に備えてこういう飾りをするということは、この家は華人の可能性が極めて高い。これはSiem Reap でもAnlong Veng でも大衆食堂、各種の販売商売をしている家の軒先でよく見かけた。Samrongでは、泊まったゲストハウスの隣の薬局にも目立つ旧正月飾りが掲げてある。こうしたことから、やはり華人層の商売・ビジネス分野への集中は他の東南アジア諸国と同様に顕著であると思えます。

2002年のコラム 第304回 「カンボジアに見つけたマレーシアの姿とそれなのに存在感のないマレーシア−後編−」 で私は次のように書きました。

でカンボジアではどうだろう?それについて筆者は興味心を持っていました。観察からの結論をいえば、現時点では旅人の観測に過ぎませんが、少なくとも筆者の訪れた都市と町のどこも華人コミュニティーが厳然と存在し、華語を教える私立学校が運営されています。ただし華語の運用能力はマレーシア華人よりもずっと落ちることは100%間違いありません。なぜなら日常生活はほとんどカンボジア語でしており、華語を中心に使っているのは極めて小数の華人だと判断しました。

ただこのコラムの後半部分で、私はプノンペンなどでは華人で華語を話す人にしばしば出会ったことから、これとは多少矛盾した記述も書きました。今回は僻地の町2箇所が主たる目的地です。今回もこういう華人経営の店などで数回、「Ni Shuo Huayu ma? (華語を話しますか?)」 と尋ねてみたが、いずれも答えが華語で返ってこなかった。華人の華語能力面ではプノンペンとは明かに違うと実感しました。ですから上記のこの記述はほとんど変更する必要はないように思える。

タイチャンネルが写るテレビ

ここ2日間の強行日程で疲れていた私は、その日はその後1回外出した以外はほとんどゲストハウスの部屋で休養。旅行メモを整理し、ぼんやりとテレビを見てすごす。こういう時こそ、明るくきれいな部屋のありがたさである。ベッドに寝転がっていて、虫が寄ってくるのではと感じたり、臭気に気分が重くなるようなゲストハウスで休養しなければならない時は憂鬱ですよ。

ここでもタイテレビ局が写る、衛星放送ではないのにどうしてなのか。カンボジアの歌番組を見ていると、面白いことに気がついた。時々タイ歌謡ビデオなのに、歌声がクメール語なのです。カラオケ用として画面下に出る文字もクメール文字だ。タイ歌謡をそのまま利用して歌い替えているのです。

ナンバープレートなしに走っている自家用車がある

面白い現象に気が付きました。このSamrong とその道すがら、さらにAnlong Veng でも見かけたことです。町をまたはその近辺を走る乗用車にナンバープレートが付いてない車があるのです。走っている自動車自体の数がごく少ないので、対向して来たり抜いていく自動車を比較的丁寧に眺めます。するとその1、2割ぐらいにあたる率で、ナンバープレートを前にも後ろにも付けていないことに気がつきました。いうまでもなく販売先へ陸送しているのではありませんよ。Samrong やAnlong Veng に自動車販売ディーラは存在しえない。SiemReapではこんなケースは全く目にしなかった、多分許されないでしょう。辺境州のこの地ではこんなことは目こぼしにされるのでしょうと推測するしかありません。

ナンバープレートなし車は新車ではなさそう、かといって古い型の車でもない。それなりに新しいモデルで高級車です。不思議なことにToyota車のCamry の割合が多い。Samrong で泊まったゲストハウスの庭にはナンバープレートのない立派な4輪駆動車が駐車していました。それにしてもなぜCamry が多いのか。
マレーシア情報を専門とする私には国内で盗難されて国外に持ち出される高級車のニュースはお馴染みです。その中でCamry は盗難リストの最上位に入っています。盗難された車は陸路タイへ向かう、またはシンガポールに向かい貨物船に載せられる、と調査記事などに書かれています。

そこで私の推測はこうです:
タイに持ち去られたマレーシア盗難車は、そこでタイの偽ナンバーに付け換える。そしてカンボジア国境まで運転していきカンボジア内でシンジケート仲間に渡す、これを小金持ちのカンボジア人に売る。当然マレーシアでの新車値段の数割程度でしょう。そうでなければ、いくらカンボジアの地方に住む小金持ちといえど、この種の高級乗用車をおいそれと買える訳がない。こういう犯罪シンジケートはまことすごいネットワーク機能を持っていると思います。感心します。盗むグループとそれを運ぶグループと最後に売りさばく者たちの連携ですね。個人が税金を払うなどという意識のないカンボジアでは、車を誰から買おうと関係ない、プノンペンまで行って新車Camry を買うなどとは考えられない。よって安く車を売る話しがあればそれに乗る。ナンバープレートなくて走行できてしまう辺境の地という土地柄。こういう要因がそろっているからでしょう。よってマレーシアで盗まれたCamry は今日もあの赤土の道を砂埃にまみれて走っているはずです。ところでProton車は1台も見かけませんでした、その理由?誰もProton というブランド名を知らないからでしょう。 

タイとの国境の町 O'smachへ行く車が来ない

よく朝市場前の大衆食堂で麺類の朝食、2000リエルであった。なかなかにぎやかな店だ。この店も木などを燃やして料理していた。ということはSamrongでもプロパンガスが到達してないということなんであろう。市場前にある空き地にはピックアップトラックと乗用車が停車して客と荷物を載せている。タイとの国境の町 O'smach へ行くのかと尋ねてみたが、いずれも違う。数十キロ南方にある Serai という町か、または結構遠い Siem Reapへ行くとのことであった。バイクタクシーで行けと言われた。 

ひとまずゲストハウスに帰って休憩。またでかけて、といってもゲストハウスから市場までは徒歩数分の距離、別の茶店でコピを飲む。その際店の主に、タイ国境へ行くピックアップトラックがあるかと尋ねてみた。あるようだ、私の腕時計を指して「10」 というので、10時ごろと理解した。この大衆食堂も間違いなく華人系だが、私のもらした華語にはまったく反応しなかった。昨日2人ほどに尋ねた情報及び私が目撃した車から言えるのは、とにかくSamrongを経由してタイ国境へ行くの車はあるのだ。

そう思ってゲストハウスに戻り、一息入れてチェックアウト。部屋代 6米ドルを手渡す。良いゲストハウスだった、満足満足。昨晩は私以外にはカンボジア人が1人だけ泊まっていたようだ。カバンを持ってその車の発着地兼バイクタクシーのたまり場であるその空き地へいった。対面に銀行の小さな建物がある、その日は1月2日で銀行はまだ休みだ。おかげでそこにあったベンチに腰掛けて、やって来るであろうピックアップトラックを待つ。ピックアップトラックはSamrong 発の車はなく、全てSerai かSiem Reapからやって来るらしい。

待てども待てども来ない、10時過ぎても11時近くになっても来ない。さすがにいらいらしてきた。若いあんちゃんのバイクタクシーが寄ってきて片言の英語で話しかけてくる。私がタイ国境の町 O'smach まで行くとわかると、7米ドルだとしきりに勧める。バイクタクシーで行くつもりはないので、行かないと断る。それでもしつこく付きまとい、そのうち 5米ドルでよいと言出す。なおさら私はこういう男のバイクでは行く気はなくなる。最初に料金を吹っかけてくる態度、且つ私の大嫌いな片言英語で話しかけてくる(いきなり英語で話しかけてくる奴を私はどの国であれほとんど相手にしません)、しかも年若い、この種の運び屋はろくな奴がいないことを、20数年東南アジアを徘徊してきた私はよく知っています。よってもう一切相手しないことにして、隣の木陰で椰子の実を飲みながら待つ。

結局バイクタクシーで行くことになった

11時半近くになった。もう待つのにしびれが切れてきた、いらいらしてきた。とりあえずゲストハウスへ行ってトイレを借りようと思い、カバンを持ってそちらへ歩き出した。そうしたら1人のそれほど若くはない、大人しそうなバイクタクシーが近づいてきて、O'Smach まで乗っていけと何回も勧める、大人しい売り込み態度であり、運賃は4米ドルだと言う。「ブオンドラー(4ドルなんだね)」 と私は念を押す。いくら待っても国境までのピックアップトラックはきそうにない。昨日はOsmach行きのピックアップトラックが午後3時ごろ来たことは、その時偶然見かけたので知っているが、いくらなんでもそれまで待つ気ははない、仕方ない、やっぱりまたバイクしかないのかと,あきらめて彼のバイクの背に乗ったのです。「Go slow、 マイパイレウ(速く行くなの意のタイ語)」 と伝えると、彼はわかったという顔をした。

腕時計で時間を確認、ちょうど11時半でした。朝から実に2時間半近くもかれこれ待ったことになる。所詮皆の言う時間など宛てにならないし、ピックアップトラックも当然ながら時間に沿って運行しているわけではないから、こういう結果になったのであろう。しかし結果として、また砂埃まみれになりながらも、風景をそれなりに楽しめ且つ道の様子がよくわかったので、バイク行は良かったといえる。バイク行の欠点はやはり転倒などの危険性である、ヘルメットなど当然ないし、いくら下が赤土の道でもこれは怖い。そこでできるだけスピードは出して欲しくない。

バイクの背から眺める辺境の地風景

そして昨日Saromg まで来た道をまた走ることになった。5分ぐらいでSamrong郊外に出る、もう舗装道路ではない。そして田舎風景となる。小学校や役所らしきもある。その中に必ずあるのが、”Cambodian Pepole's Party”  と英語でも添え書きされた、カンボジア政権与党の看板とその地方の党事務所である小屋だ。これは地雷撤去お知らせの立て札に次いで多いのだ。道路際の池では数人が腰まで浸かって魚取りをしていた。別の場所では服を着た女性が池にはいろうとしていた、水浴びの替わりなのであろう。昨日見た景色を確認しながら走る。交通量は昨日と変わらずごく少ないので、2回走ったのだからこれが普通の交通量なのであろう、と思った。

Samrong の町を発して50分弱くらいで、昨日の三叉路(中編で触れました)の所に到達。バイクは右折せずそのまままっすぐ進む。私は、あちらはAnlong Vengで行ったとがあると言ったら、彼は驚いていた。彼はちらっと言うに、なんでも夜英語のクラスに通った?通っている? とか。そのためかたまに片言の英語で話しかけてくる。

つづらおりの山道でバイクのタイヤがパンク

三叉路を過ぎると道の右側には、タイが建てたという立派な電柱が延々と続いている、電線がまだかかっていないので、通電はいつになるのだろうか。赤土の道路のごく一部では、小さな簡易木橋が壊れている所もあるし、道がかなり凸凹になった部分もある。Anlong Veng に続く道ほど僻地ではないが、十分僻地を感じさせる行程だ。しばらく走行した後、道が曲がりくねった山道となった。山岳地帯に入ったわけだ。こうしてバイクはまるであえぐかのように(?)坂道を登り続けた。その時後輪が音を立ててパンクした。

彼も困ったが私も困った。彼は国境の町O'smachまであと3Kmぐらいだという、しかし交通量のほとんどないこんな山道を3Kmも歩くのは相当つらい。とにかくゆっくりとバイクを引きながら道を登りかけたら、後ろからバイクがやってきた。バイクタクシーの彼はそれを止めてしばし会話。そしてその男のバイクを借りて国境までとにかく私を送っていくと言う。2人の間での話しの内容は知らないが、とにかく国境までこれでたどり着けると思ってほっとした。そしてその借りたバイクの背に乗ってさらに登り続ける。かなりオンボロのバイクなので、もうあえぎあえぎだ。しかしよくそのバイクを簡単に借りれたものだと感心した。カンボジア人の人間関係のありかたをちらっと感じた。

国境の町O'smah は町らしい町である

こうして登り坂を越えて下り坂に入ると、町になった。道路も舗装されている。家々がちゃんとしている。ここに比べたらAnlongVeng は雲泥の差だ。Y字路にさしかかったとき、彼はここを曲がればゲストハウスも数軒ある一角に続くと言った。なるほどそんな町なんだ。そのY字路を曲がらず真っ直ぐ行くと驚くように広い上り道路になった、幅数10メートルもある。その道路の片側には商店が並んでいる、カンボジア的でなくタイ的雰囲気を感じさせる。その幅広い道路の数百メートル続いた先に、カンボジア国境検問所が見える、ついに国境に着いたのだ。午後1時、約1時間半の行程でした。検問所前でバイクタクシーから降りて、彼には約束より1ドル多い5米ドルを払った。パンクしたことだし、いい運転だったからです。彼が去って行く時、私は”Next Year” と言っておいた。

カンボジア国境検問所はこの広い道路を挟んで、出国検問所と入国検問所に分かれている。検問所は小さいながらもセメント作りの建物だ。パスポートを示してスタンプを押してもらい出国、極めて事務的である、でもそれがいいのだ。係官に、入国時にこの検問所でビザが取れるかと聞いたら、取れるとの返事、つまりどの国の市民でもこの国境検問所から問題なく入国できるのである。

Siem Reap空港でパスポートに入国スタンプを押してもらい入国した時から、この国境検問所から足を踏み出すまでの4泊5日のカンボジア旅で、私はちょうど75米ドルを使いました。手元に残ったリエルはわずか1500リエルだけであった。

国境に建つ2軒のカジノホテルがこの町を性格付けている

このカンボジア国境検問所の両脇に、つまりこの広い道路を挟んで向かい合った位置に,立派な大きなカジノホテルがそれぞれ建っている。1軒はタイ資本でもう1軒はカンボジア資本だそうだ。だからこそこの国境はたいへん広広としており、近代的だ。まだ完成して数年ということをよく感じさせる。タイ人はタイ側を1時出国してもカンボジアには入国手続きせずに遊べるそうで、こうしてタイ人カジノ客が押し寄せるからこそ、このO’smah 国境はこんなに立派なんだと、思わせます。カジノとはやはり大きな集客力を持つものだな、金を落とさせる場所なんだな、とつくづく感じる。

20メートルほど離れたタイ側国境検問所で入国手続き後、タイに足を踏み入れると、その検問所前のきれいなひろい舗装道路には、高級車や新しそうな自家用車類がずらっと数百台も駐車していた。その日がタイの休日であったことも貢献していただろうが、両国間にある大きな大きな経済力の差を目の当たりにさせる光景である。

私はその道路の一角で客待ちしていたロットトゥー(タイ語で乗合バンのこと)で県都スリンに向かいました。
終り



旧正月即ち農歴新年即ち中国正月はいわば”シャレ”で持つ


旧正月ですから、まずご挨拶をしておきます。 「新年快楽」
快楽 といっても日本語の意味とは違いまして、要するに "Happy New Year"  ということです。このことばと同じくらい頻度多く使われるのが、 「恭喜発財 Gong Xi Fa Cai 」 ですね。

華人界の農歴新年の捉え方

この2大新年挨拶を含めて、種々の新年用挨拶・縁起言葉がクリスマスの終った直後から、街や紙面での広告に現れていました。旧正月が来る約1ヶ月も前からとは気の早いことだと感じますが、それがマレーシア華人界の慣わしでもあります。 農歴新年の祝いは新年になってから言うのではなく、このようにずっと前から唱えるのが華人流です。

日本人の新年と華人界の農歴新年の捉え方にはこのような違いが少なくありません。「発財」 というように金銭的目標を直接且つ頻繁に掲げ唱えることが、大切だと捉えられています。華人界は中国や台湾の中国人・台湾人と同じく、太陽暦の新年は単なるカレンダー上の1月1日であり、民族として祝う新年は太陰暦(旧暦)の1月1日なのです。それが2006年は1月29日になります。華人界はこの伝統をかたくなに守っています。東南アジアでは各国の華人界だけでなく、ベトナム人も同様に旧正月を唯一且つ大きく祝いますことを、ご存知の方も少なくないことでしょう。

旧正月の呼び方

よって 旧正月を多くのマレーシア人は中国正月と呼ぶのですが、私はこの呼称を使うのがあまり気乗りしなくなりました。もちろん中国正月が間違いだということではなく且つ私自身も 中国正月 としばしば書いてきましたが、東南アジアという視点で捉えた時、日本語の文面であれば旧正月、または華語表記を取り入れて 「農歴新年」 と呼ぶ方がよりふさわしいように思えます。農歴新年というのは、農業歴が太陰暦に基づくことからでしょう。マレーシアの華人界で華語表記する場合は、農歴新年 と書記し、決して 中国正月 とは書きません。さらに口語としての福建語であれ広東語であれ、旧正月を中国正月とは呼びません、単に「新年」 と言うか、「農歴新年」ですね。マレーシア華人界では「春節」という呼び方は、日常会話では用いられません、書き言葉で頻度少なく用いられます。

マレーシア人一般が中国正月と呼ぶのは、いうまでもなく農暦新年が華人によって祝われるから、これをわかりやすく表現しただけでしょう。よってマレーシアでの英語名は Chinese New Year です、それと同様の発想及び意味でマレーシア語では Tahun Baru Cica  と呼ばれます。東南アジア以外での一般的な英語表現は Lunar New Year  という表現を使いますね。

農歴新年には、正月用品と正月食品だけでなく、様々な言葉や飾り物が付きものです。それらの多くがいわば”シャレ”を発想の基底にして縁起を前面に出したものですね。ほんと? と驚かれる方が多いかもしれませんので、その例をいくつかあげてみましょう。

農歴新年に好まれる果物

この時期最も目立つ食品は、なんといっても蜜柑で、そのほとんどが中国から輸入されています。なぜ蜜柑はこれほど”もてる”のでしょうか?
まずその色が黄色つまり金色ですから、黄金に似ているのは想像がつきますね。さらに蜜柑の発音が金に似ているのです。 華語では黄金を "huang jin" と発音するので似てませんが、広東語では "wong gam " と言い、柑 は" gam" と発音します。よって同じなのです。

注: "g" は 日本語のガギグゲゴの "g" ではありません、 有気音の "k" に対応する 無気音の "g" です。"k" も日本語の カキクケコ の"k" とは多少違います。有気音と無気音の説明はここでは省きます。

蜜柑の親戚にキンカン がありますね。一般に 柑桔 と呼ばれますが、縁起祝いの意味をこめて 金桔(jin ju) とも表記されています。その理由は上記と同じでしょう。このため、日本語で表記の 金柑 は中国漢字をそのまま借用したと、私は推定します。 

この時期果物ではパイナップルが飾りとして好まれますし、年賀カードにもよくパイナップルの図案が印刷されています。なぜパイナップルでしょうか?
パイナップルの華語名は 波蘿 別名が 黄梨(来) です。そこで 黄梨 を広東語で "wonglei" と発音します。"wong" は言うまでもなく黄金の"wong" です。 "梨 lei" が発音の似た " 来 lei" になり、その "wong" が "lei" つまり黄がやって来るという意味に取れます。どうですか? すごいこじつけ、いやシャレですね。

なぜそういう名前なのか知りませんが、水晶梨 というのがスーパーマーケットで売られていますし、買って食べたこともあります。日本でいう二十世紀梨 のことでしょう。広東語で "sui jing lei " と呼ばれ、文字通りの意味が水晶梨です。この果物に関して、これは食べる人に水晶の高価さとそれが発する光を思い起こさせる と解説する人がいるとのことです。でもこの捉え方は多分あまり多くの人は気がつかないのではと思うのですけど。

福 が、富 がやって来る 

家や会社の事務所や店舗の壁に 「福」 の字が上下逆さまに飾ってあるのをご覧になられた方は多いことでしょう。なぜ逆さまか? 
「福」が逆さま つまり 「倒」 ですね、その「倒」は音が似ている 「到」 につながるからです。華語では、「倒」 と 「到」は同じ発音 "dao" で声調だけが違う。よって「福がやって来る」ということです。

余談:ということで、今年は我家の壁には 「女」 という字を逆さまにして張っておこうかなあ。


犬年の到来を告げる人気品に、金色の線香があります。これを 富の神である 財神(choi san) を奉った祭壇の前で旧正月の初日に燃やします。すると金色の灰が床一杯に散り広がります。これはまるで 満地黄金 (mun dei wong gam と広東語で発音する)だ、 つまり床が黄金で一杯になる ように捉えるわけです。これはその年1年の富みを象徴化しているとのことだそうです。

先日面白い記事を読みました。犬が好まれる理由についてです。今年の干支が犬だから好まれるでしょ、というのは当然誰でも分かります。加えてまだ理由があるのです。犬が鳴くと ウオン ウオン と聞えますよね、つまり "wong wong" と似ています。 "wong wong" は 旺盛の「旺」 につながります。盛んである、旺盛であるいう意味の「旺」 を華語では "wang" であり、広東語では "wong" と発音しますから。この犬の鳴き声が 「旺」につながるというのは、華人にとっても恐らく多少こじつけ過ぎる解釈ではないでしょうか?去年まではそういうのは見かけませんでしたし、シャレ通の私も最近まで知りませんでした(笑)。でも今年は犬年なので結構頻繁に用いられてますね。

祝いごとには笑いがあった方が当然良いに決まってますよね。 「蝦」 を広東語で"ha" と発音します。よってこの音は笑い声に似ていますね。このため蝦は華人の旧正月祝いの料理に欠かせない海産物の一つとなっています。

長生のシンボル

スーパーマーケットにはピーナッツつまり落花生の袋入りがたくさん山積みしてあります。 金額が取るに足りない場合の英語表現で、「そんなものはピーナッツだ」 という表現があるにも関わらず、この時期ピーナッツがなぜ好まれるのか?
落花生は 華語で「花生」 と書きます、そして別名を 「長生豆」 というそうです。つまり落花生は 長生 の象徴なのです。

年賀カードや装飾品に よく魚が描かれていますね。とりわけ多いのが 長生を意味する鯉です。魚がなぜ好まれるか?
華語で、「魚」の発音は "yu" です、これは「餘」 という中国漢字の発音と同じです。つまり「魚」は「餘」につながる。よって農歴新年時に非常によく目にする熟語 「年年有餘」 となります、意味は毎年金銭的な余裕がでてくる といった意味合いです。ただ、現実として年々窮乏化している Intraasia には全く似つかわしくない標語ですな (涙)。

注:"yu" は日本語の「ゆ」とは発音しません。発音記号でないと正確な音は示せませんので、アルファベット表示は便宜的な手段です。


好まれる観葉植物

この毎年この新年時期に華人に好まれる代表植物は、菊の花です。その黄色さが、富みを象徴化しているからであり、手頃な値段ということもその理由だそうです。

特定の観葉植物も農歴新年につきものです。好まれる植物にはそれぞれ理由付けがあるからです。ウツボカズラのような食虫植物もその一つだそうです。その理由は 「豚#入水」 "Chu long yap sui"  と発音 、富みが毎年溜まる というような意味だそうです。檻に入れられた豚に水を注ぐ、富みが注がれる という意味合いだそうです。中国漢字の豚は日本漢字にないので豚で代用です。long は漢字が見つかりません。

蓮の根 つまり蓮根 は毎年富みが豊富・十分にある との意味合いがあります。蓮根は広東語で 「蓮gau」 つまり "lin gau" と発音されますので、 lin ngau lin lin yau という縁起言葉で言われるそうです。これを 蓮gau年年有 と表記します。"gau" の字は日本漢字に見つけられませんでしたのでそのまま書いておきます。lin lin と年年 は似た音の韻を踏んだようなリズムです。

さらに植物の例では、竹 です。竹の節を思い浮かべると、 「歩歩高昇」と書いて "po po ko sing" と発音、という言葉の意味もなんとなくわかりますね。竹のように1歩1歩階段を昇進していく という意味合いだそうです。ふーむ、サラリーマン・ウーマンの方に向いている言葉なんですね。尚 Zamia という植物も同じ意味合いを持っており、人気あるそうですが、私はどういう花か見たことがありません。

ところで旧正月に配られるものの代表が 紅包ですよね。つまりお年玉、これは子供に与えるのが主ですが、未婚の青年男女にも配ってもおかしくありません。紅包 はその名の通り紅色です、それは紅が 繁栄と幸運をシンボル化した色だからです。ただ最近では金色の紅包も時にあるようです。紅包を配る期間は、農歴新年の元旦から15日間です、それは旧正月つまり中国正月は15日間と決まっているからです。


ここで紹介したような例はまだまだたくさんありますよ。こうやって農歴新年を祝う飾り物、食品、ことばなどを細かく検討していくと、多くはいわばシャレやかけことばが基底になって、縁起の意味合いが込められているようです。これは、ある面では漢字という文字表記のおかげでもありますね。アルファベットだけの英語やマレーシア語では考えつかない”シャレ”が基になっているのです。 皆さん、シャレを軽んじてはいけませんよ(笑)。

ということで、華人界の旧正月即ち農歴新年即ち中国正月祝いは、民族の伝統・慣習を尊んで従がうことは当然として、シャレ心と縁起担ぎにも満ちているんだなということが感じられるのではないでしょうか。



数字で見たマレーシア、 その28


これまで断続的に掲載してきた 数字で見た シリーズです。マレーシアに関する様々な統計数字を掲載しています。ここでは、数字を視点にしてマレーシアの諸面を知ってください。

経済指標

2005年は経済好調が続きました。
実質国内総生産GDP の伸び率変化 2004年と2005年

農業鉱業建設業製造業サービス業実質GDP
2004年第1四半期3.85.90.912.56.47.8%
第2四半期3.21.2-1.711.97.88.2%
第3四半期6.14.2-3.09.96.16.8
第4四半期7.34.4-2.65.56.55.8
2004年年間5.03.9-1.59.86.87.1%
2005年第1四半期6.03.4-2.45.76.25.8%
第2四半期3.2-1.6-2.03.25.44.9%
第3四半期




5.3%


工業部門での数字

マレーシア自動車産業協会が発表した2005年の自動車販売の統計です。
乗用車
商業車4輪駆動車合計
400835台
79987台37679台551045台
73%
20%7%100%
国産車非国産車


312978台87857台


78%22%



Proton車は乗用車の41%、つまり16600台ほどです。Produa車が33%で、つまり約 13400台です。
注:発表された数字では合計が合わない、つまり商業車の数がおかしい。それとも、この3区分以外の分類があって、それが残りの数万台にあたるのか不明です。

農業部門での数字

農業の部門別 −統計庁出典−
1987年時点での
価格を基準
オイルパーム森林と伐採漁業生ゴムその他全体
2005年成長率推定9.5%3.0%-0.4%-2.0%4.7%4.8%
2005年での比率推定36.5%13.7%11.8%10.4%27.6%100%

その他:畜産、米作、野菜や果物や花などの栽培、茶とタバコの栽培などを含む

小売り部門

マレーシア小売り商グループの統計から
2000年2001年2002年2003年2004年2005年
伸び率10.4%1.7%3.0%3.6%8.0%推定6.5%


労働市場

2005年中頃時点で総労働人口は約1060万人。その内、サービス産業が50.8%、製造業が28.3%、 農業が13.1% を占めます。
統計庁の発表では、2005年中頃の製造業における被雇用人口は 前年同期比1.4%伸びで、102.7 万人です。
外国人労働者(合法)の総数は2005年5月時点で、前年同時期比10%増加で 162万人でした。その内 7割弱がインドネシア人です。

広告宣伝費

マレーシアの宣伝広告支出 2005年の統計から
広告を媒介するメディア毎の広告支出費
多い順1位2位3位4位5位
メディア新聞テレビラジオ雑誌その他

全産業が宣伝広告に支出した総広告費の内、トップ10企業だけで全体の16% つまり RM 7億3500万を占めます。
順位1位2位3位4位5位6位7位8位9位
企業
Proctor &
Gamble
CelcomMaxisUnileverDigiNestleTelekom ケンタッキー
F. チキン
Petronas
化学携帯電話携帯電話化学携帯電話食品電話食品石油


携帯電話の利用者像

マレーシア・コミュニケーション&マルチメディア会議が電話質問による方式で、2005年携帯電話利用者の調査を行いました。実施時期は昨年8月から9月にかけて、応答した携帯電話利用者の数は4925人でした。その内プリペード利用者が実に、80.4% も占めました。

利用者の93.7%がマレーシア国民で、国民の内訳は
民族別マレー人華人 サバ州とサラワク
州のブミプトラ
インド人その他性別男性女性
割合53.9%32.4%6.5%6.3%0.9%
57.4%42.6%


雇用形態被雇用学生失業者自営・自由業雇用者
割合53.1%16.1%12.2%11.9%6.7%






所得階層無収入RM1000未満RM1000-3000RM 3000-5000RM 5000以上
割合25.8%26.7%37.3%6.5%3.7%

利用者像の中からデータを拾うと、1ヶ月の携帯利用代金が RM 50未満の人が 50%強です。

文字通信SMS の利用は盛んです。その内容は
頻度ゼロ1回2回3回4回5回6回以上
割合15.1%7.6%8.1%9.2%3.0%7.4%49.6%

現時点で3G(第3世代)サービスを必要としない利用者が過半数を占めました。3Gサービスに関して
3Gサービスは
現時点で不要
それ用の電話機
が高価すぎる
3Gサービス
が高過ぎる
時期と様子を
見ている
その他
54.8%37%31.2%28.9%15.1%


交通事故と免許証


道路交通庁発行の免許証発行数

2001年2002年2003年2004年
見習い自動車免許444795402932507359353047
貨物自動車免許54036419945262956261

事故件数の統計
事故総件数265175279237298653326817

交通事故統計

2004年2005年
事故死者数6223人5623人
事故発生総数326817件328264件

道路安全部の統計から 車台数に対する死亡率

2000年2001年2002年2003年2004年2005年
車1万台当りの死亡者5.72人5.17人4.89人4.9人4.5人4.18人


犯罪部門での統計

Masterカード国際によれば、クレジットカードの不正行為は、アジア太平洋地域において1990年以来の低率状態にあり、8 百分の1パーセントです。マレーシアでのクレジットカード不正行為は世界の平均発生率より下がっています。マレーシアの不正行為率は 5.17 百分の1パーセント、シンガポールが1.92 百分の1パーセント, タイが 0.9 百分の1パーセントでした。「マレーシアの発生率は近隣諸国より高いが、世界平均より低い」 

マレーシアでのクレジットカード不正行為の額は、クレジットカード使用額 100米ドルあたり 5.17米ドルでした。マレーシアの不正行為を表で示すと:
マスターカード不正行為 2005年の9ヶ月間
不正
種類
カードを
示さない取引
偽造カード紛失・盗難 カード自体
受けてない
カード口座
を他人が使用
他人が勝手に
口座開設
比率55%29%9.5%4%1.8%0.7%


反汚職庁による数字

受理した報告数捜査した件数逮捕した人数起訴した人数
2001年9039663318115
2002年82981063290200
2003年97191058339175
2004年11413977497178
2005年





主要各言語紙の実発行数

調査会社 ABCが 調査・発表した主要新聞の実販売部数です。調査期間は 2004年7月初めから2005年6月までの1年間。

英語紙
マレーシア語紙
タミール語紙
新聞名 The
Star
Malay
Mail
N.Straits
Times
Utusan
Malaysia
Berita
Harian
Harian
Metro
調査に参加せず
調査期間の日平均299,58942,913139,517228,802231,163229,829


合計部数
1,117,674
1,832,482





華語紙
新聞名星洲日報中国報南洋商報光明日報光華日報
調査期間の日平均349,355223,322137,333138,77468,909
合計部数
917,693

注:英語紙は1紙だけ掲載省略しました。華語紙 東方日報はまだ参加してません。
合計部数とは奇妙な統計で、平日の平均と日曜の平均を足したものです。華語紙は平日も日曜日も区別はない。

PMR試験の結果 

(中学校3年課程で受ける全国統一試験)PMR 2005年の結果が発表されました。受験者数は45万弱人。
基準点以上を取った率の比較 (単位 パーセント)

マレーシア語英語歴史地理イスラム教学習数学理科
2004年93.2%70.194.793.891.783.788.5
2005年92.3%73.896.195.191.184.190.1


生活費用の世界の都市比較

英国のエコノミスト誌が発表した、全世界2005年生活費用調査報告を、マレーシアの各紙が掲載しました。
エコノミスト誌の以来で、経済情報グループが2005年に世界の主だった都市128 対象に生活費用調査しました。その結果によれば、高費用順位でクアラルンプールは95位でした。2004年の98位から多少順位が上がったが、依然として低費用都市である、とマレーシアの新聞は評価しています。

都市名オスロ東京レイキャビク大阪パリ
高費用順位1位2位3位4位5位

ちなみに東南アジアでは、シンガポールが最も高い費用都市であり、世界順位では前年が19位でしたが2005年は24位です。

この種の調査はどういう費用をどれくらいの比重で配分するか、調査地のサンプル調査数の多さ、調査者の精度などによって、ものすごく違ってくるので、順位は単なる興味程度にしておけばいいでしょう。ただそれでもある程度の傾向がわかり、都市と都市の比較材料にはなりますから、参考にはなると思います。

労働災害事故 

職業の安全と健康に関する国家研究所の統計 −報告された数に基づく−

2003年
2004年
産業分類事故件数身体障害件数死亡件数事故件数身体障害件数死亡件数
製造業297804383213266904140195
商業133951538151129481450143
農業・漁業・林業694760940567750562
公務員(官庁)7743102310883251073131
建設業465456695444556677
サービス業561778284529573565
運輸業4104631108415162073
電気・ガス・水道51011384969910
鉱業・採石業536838533708
金融保険業57214376051235



822

769


マレーシア映画興行番付

2005年に公開されたマレーシア映画、といってもここではすべてマレー映画、の興行成績ベスト5です。
タイトルGangstar Senario XXLady BossKL Menjerit 1Anak Mami Kembali
興業高 RM 290万250万250万弱250万弱250万弱

ちなみにこの内私が見たのは(もちろんシネマにおいて)、Senario XX と Anak Mami Kembal で、どちらもコミカル映画です。



バレンタインデーは華人カップルが結婚登録を好む日


華人カップルは特定日を結婚登録日に好む

例年バレンタインデーは婚姻登録がぐっと増える日だそうです。いうまでもなくバレンタインデーは西欧発祥であり且つ西欧的思考に基づく意味付けですが、マレーシア華人の若者にたいへん好まれるのは間違いありません。
まず華語紙 「南洋商報」 の2月7日付けの記事をご覧ください。

今月の12日は(Intraasia注:旧正月最後の日である)元宵節です。その2日後は西洋のバレンタインデーです。両方ともカップルが好んで結婚を登録する日に選ぶ日の一つです。2つの内、バレンタインデーの方がより好まれる日です。スランゴール州ペタリン地方の結婚登録官補が記者に語ったところでは、この登録官補の手元に来ている登録予定は12日が 1,2組に対して、バレンタインデーの登録分は20組に達しますとのことです。ちなみに去年の9月9日は90組の登録を受けたとのことです。

クアラルンプールの有名な天后宮では(華人が結婚する際、婚姻登録庁ヘ行かずに替わりに登録できるように認定されています)、バレンタインデーの結婚登録予定は圧倒的に多く、143組が登録申請しています。天后宮ではバレンタインデー当日には集団登録方式でそれぞれの婚姻登録手続きに臨みます。天后宮ではしかし、元宵節の日は結婚登録申請を引き受けないとのことです。

婚姻登録庁の規則では、登録したいカップルは事前に必要種類を婚姻登録庁に提出する必要があります。21日間の処理期間後、宣誓官の証明の下そのカップルの結婚登録がなされます。よってバレンタインデーの日に婚姻登録したいカップルは、最低21日前に申請が必要だそうです。
以上


マレー人若者の中にもバレンタインデーのメッセージを送ったりプレゼントを贈る風潮が多少あることは、活字マスコミ報道からも明かですが、これがどの程度かは私にはよくわかりません。ある有名マレーラジオ局の複数のDJ は、バレンタインデーの当日ほとんどこのことに触れませんでした。普段よくマレー語局を聞いている私は、そのラジオ局がなんとなくその話題を避けていたかのように感じました、もちろん証明はできませんけど。

元宵節をしのいでしまったバレンタインデー

そこでたくさんの華人カップルがバレンタインデーを婚姻登録に選んでいる事実に目を向けてみましょう。15日間続いた旧正月の最後の日は元宵節と呼ばれます。この日はいわば 「中国情人節」つまりバレンタインデーです(華語新聞 『星洲日報』の記事ではこう書いていました)。元宵節はマレーシア華人界ではとりわけペナンのような地では伝統的にチャップゴーメイと言われており、ペナンでは、若い女性が将来の相手が見付かるようにと海岸に向かって蜜柑を投げる儀式が行われますよね、そういう意味では華人界では古くからロマンスに関係した日でもあるようです。それなのに、バレンタインデーの好まれ方は華人界伝統のチャップゴメーをずっとしのいでしまったことも上記の記事から明かです。

中国の漢民族に起源する民族伝統の慣習儀式などを比較的よく維持していると思われる華人界でも、この種の若者を捉える文化は、西欧発祥が影響力を持つ例でしょう。まあいずれにしろ、バレンタインデーに婚姻登録したからといって将来離婚しないという保証など全然あませんから、所詮カップルの自己満足ですな、と厭味も書いておきます(笑)。

ところで、華人界は数字のゴロまたは縁起合わせが極めて好きですから、婚姻時にもこの数字語路合せを選ぶ傾向があります。それが上記の記事でも触れている、9月9日のような語路合せ的縁起のよい日が多いに好まれます。確か8月8日という、縁起良い数字 8の重なりも同様に人気日のはずです。こういう大人気日に結婚登録すれば必然的に集団登録となりますが、それ自体も彼ら彼女らは好きみたいです。ところで華語などでは 4 は「死」 と発音が似てることから嫌われ数字ですから、4月4日のような”縁起悪い”数字の日を選ぶ華人カップルはいるのかな。

登録して初めて認定される結婚

結婚は登録しなければ合法的な婚姻と認定されないのは、当然マレーシアでも同じです。認定されない結婚は法的な面でも保護は得られないのは当然ですが、それを承知の上で結婚を登録する、登録しないはカップルの自由であり、選択できる権利のはずですし、少なくとも私は若い時からそういう捉え方です。しかしマレーシアではどの民族であれこの種の思想は全然受け入れられません。とりわけ、ムスリムはこういう思考自体を最初から拒否していますね。

非常に重要なことです、マレーシアでは,ムスリムと非ムスリムに適用される、家族法、相続法、婚姻法などは全く別の法体系に基づく、2つの法体系から成ります。よってこれからここで書いていくのは、あくまでも非ムスリムに関する場合であり、 ムスリムに関しては下記の説明があてはまりません。ムスリムの結婚に関する説明はとりあえずここでは扱いません。尚マレーシアでは非ムスリムがムスリムとする場合は、あらかじめイスラム教に入信が絶対条件なので、非ムスリムとムスリムの結婚は100% ありえません。

法律専門家の結婚に関する手続きの説明を紹介

バレンタインデーの話しを読んで、マレーシアにおける結婚の登録と認定はどのようになっているのだろうか?と思われることでしょう。 マレーシア人と結婚をお考えの日本人は時々いらっしゃいますし、すでにマレーシア人と結婚された方も少なからずいらっしゃいますね。

そこでマレーシア法曹協会(Bar Council Malaysia、いわゆる全国弁護士会)が編集し、そのホームページ (www.lawyerment.com.my/family/marriage.shtml )に掲載されている解説文章から抜粋して訳します。これはあくまでもこのサイトをご覧になる方のために便宜を図って、専門家の解説を紹介する意図からであり、参考情報と捉えて下さい。これを持って法律相談とするためでも、商用目的に使うのでもないことは、これをお読みになるかた皆さんがおわかりのことと思います。
以下はその訳

全ての結婚はこの法律に基づいて登録しなければならない

1982年5月1日以降は、全ての結婚は登録官または登録官補によってこの法律に基づいて登録しなければなりません。この法律に従がってなされる場合を除いて、他の法、宗教、慣習、または慣行による結婚は正式なものとなりません。

1982年5月1日以前に合法的に結婚した人は、その日以後他の人と合法的に結婚することは許されません。そういう人の配偶者は合法的に結婚しているとみなされ、その結婚が登録されている、いないに関わらず、相続する権利を持ちます。

結婚がこの法律下で一度登録されたまたは登録されたと見なされた場合は、それは合法であり一夫一婦制に拘束される。その一夫一婦制は次にあげる時まで持続する:

  1. どちらかが死亡する、または
  2. 離婚となるまたは裁く資格を有した裁判所による無効判決

死亡、離婚、無効判決によって結婚が終結しない限り、(夫婦の)どちら側も再び結婚することはできない。

結婚が持続している間に、(夫婦の)どちらかが再び結婚すれば、それは刑法下で重婚の罪を犯したことと見なされます。そしてその法律によって罰金を課され最高7年の懲役に処せられます。

さらにその後なされた結婚は法律上無効です。

結婚に必要な条件

年齢が最低18才であること。

  1. 女性の16才以上で18歳未満者の場合、その州の州首相が承諾した特別結婚認可書を取得すれば結婚できます。
  2. その特別認可書を得ずに結婚しても、その結婚は無効となります。
  3. 特別結婚認可書を得るための要件は:
1.結婚に関してその他の法的障害がないこと、及び
2.両親または法的後見人の同意を得ていること

18才以上で21才未満者の場合は、両親または法的後見人の同意を得なければならない。

  1. その同意がないまたは得られない時は、裁判所の承諾を求めて高等裁判所に申請することができます。
  2. その者が既に結婚したことがあれば、その種の同意は必要ありません。

(結婚する)両者とも、その時点で結婚していない状態でなければならない。

両者が近親関係から結婚を禁止されている関係であってはいけない。

その結婚に対して他の法的障害があってはならない。

双方が結婚に同意している必要がある。

結婚するための手続き

結婚するための手続きには3種類あり選択できます。この3種類はどれも法的に有効です。

  1. 結婚登録官の事務所で結婚する
  2. 寺院または教会の者が結婚登録官補に任命されている、そういう寺院または教会を利用し宗教的儀式、慣習、慣行に従がって結婚する
  3. 州首相からの特別認可を得て結婚する

結婚登録官の事務所での結婚

  1. 結婚する両者はどちらも、その通知を提出する前の最低7日間住んでいる地区にある結婚登録地の結婚登録官宛てに、所定書式で結婚の通知をしなければなりません。
  2. 結婚登録官は登録事務所の掲示板にその通知を掲示します、そして登録官がその結婚証明に同意するまで、または3ヶ月間が経過するまで、この2つの内のどちらかが先に満たされるまでその掲示が行われます。
  3. 結婚する両者が同じ結婚登録地であり必要な期間を満たす居住者であれば、上記の通知は一つで間に合います。
  4. 全ての必要条件に合致し法的障害はもはや存在しないという旨を述べてある、所定書式に書かれた宣誓に両者とも署名しなければなりません。
  5. 掲示板に掲示された結婚通知が少なくとも 21日間過ぎれば、結婚登録官は規定の料金を(結婚する者から)受領することでその結婚の証明証を発行します。
  6. そして、結婚登録官によって正式化される結婚の月日を決めなければなりません。これは通知された日から6ヶ月以内にしなければなりません。
  7. 結婚がその決められた期間中に行われなければ、新な通知が発行されます。
  8. 登録事務所での結婚が済めば、法的に結婚していることになります。
  9. 望めば慣習的儀式を行うこともできますが、その儀式を司る人に結婚証明証を提示する必要があります。


宗教的儀式による結婚

  1. あなたの結婚を、自分の宗教、慣習、慣行に従がい聖職者、司祭、牧師によって正式化できます。

 b.結婚が正式化される前に、結婚登録官補宛てに結婚する両者が署名した所定の法的宣誓書を提出しなければなりません。その中で両    者は全ての必要条件を満たし、法的障害のないことを宣誓します。

特別認可による結婚 

あまり関係ないように思えますので訳は省略します。

外国における結婚

次ぎのようであれば、当該各国にあるマレーシア大使館、領事館で結婚書記官によって、あなたの結婚を正式化してもらうことができます:

  1. 結婚する片方または双方がマレーシア国民である
  2. 結婚する両者のどちらもこの法律に従がって結婚する能力を備えている
  3. 結婚する者のうちのどちらか一方がマレーシアに住んでいない時は、その結婚が正式化されれば、その者が住んでいる国において有効となったと見なされます。
    d.  (i) その結婚前の少なくとも21日間且つ3ヶ月を超えない範囲で結婚通知がなされなければなりません。


マレーシア国民またはマレーシアに本拠を置く者が外国で結婚する登録

a. マレーシア国民またはマレーシアに本拠を置く者が、外国で結婚しマレーシア大使館、領事館にその結婚を登録しなかった場合は、次ぎ  のことをしなけれならない:

    1. その結婚した日から6ヶ月以内に外国またはマレーシア国内の結婚登録官の面前に出頭し、
    2. その結婚を登録すること

b.上記の結婚を登録するためにしなければならないのは:

    1. 結婚証明書または結婚を証明するに十分足るものを結婚登録官に提出し
    2. 結婚登録官が要求する必要事項を提出すること
    3. 所定の書式に記入し、それにある宣誓を確認すること

c. 結婚する両者がその結婚登録の際に出席しなければならない、ただし一方の側が悪意なく十分な理由によって欠席する場合はこの限りで  はない。
d. 外国での結婚を6ヶ月以内に登録しなかった場合は違反行為となり、期限遅れの登録は申請した場合のみ許されます、しかも罰則を与えら  れます。

外国で婚姻関係を結んだ結婚の認定

マレーシア国外で婚姻関係を結んだ結婚は、法に従がって正式化された結婚を除き、次ぎの場合のみ有効であると認定されます:

以上。



KLタクシーの抱える問題とタクシー運転手の立場を考える


はじめに

クアラルンプール及びその近郊にある市または町を運行することを許可されたタクシー(これでは呼び名が長すぎるので、今後このページでは便宜的に KLタクシー と呼びます)に対する、苦情と不満は私がマレーシアに来て以来絶えることなく聞き、且つ新聞で読んできました。さらに回数は多くはないですが自らも経験しました。つまり少なくとも15年間ぐらい、KLタクシーには利用者からの苦情と不満の声があがり続けているわけです。その苦情と不満の声は、マレーシア人の間からだけでなく外国人からも絶えず発せられてきました。監督官庁も政治家もこの事実だけはさすがに否定しません。

つまり、KLタクシーは誠実ではない、態度が良くない、という意識は広く行き渡っているといっても間違いないです。もちろんに、KLタクシーの全部の運転手が不誠実運転手で、態度が悪い、などと皆が皆思っていることはありえないでしょう。あくまでもKLタクシー運転手の何割りかの部分が 不誠実で、態度が悪いのであり、誠実で態度良いタクシー運転手もたくさんいることは誰でも知っているはずです。ただこういう社会問題に関しては、人はしばしば全体をひっくるめて 「何々はこうだ」 と決め付けがちになりますよね。

ですから、ここではKLタクシーの全体像を論じるのであり、善良運転手が少なからずいることは認める、知っているという前提です。

KLだけでなく、ペナンでもJBでもタクシーの評判は悪い

なぜKLタクシーは利用者からの評価がこうも低いのでしょうか?マレーシアの都会の中で、KLタクシーだけが誠実運転手ではない、態度が悪い、ということではありません。ペナンやジョーホールバルのタクシー、とりわけペナンタクシー運転手の不誠実さは広く知られたことろです。都会タクシーの運転手側からの不満に共通するのは、認可タクシー料金が低過ぎるという点です。ペナンタクシーは主張する、ペナンはクアラルンプール及び近郊圏の人口の数分の1だ、よって同じような料金体系ではやっていけない、と。だからペナンタクシーはその使用を義務付けられたメーターを使わない、ほとんどが乗る前の交渉によって決まると言われています。私がいつも思うのは、大多数のタクシー運転手が守らない規則とは規則と言えない、大多数のタクシー運転手が守らない、または守れない規則を定めた監督官庁は一体何を考えているのか、定めた規則が実質的に意味がないだけではなく、監督官庁の威信を落としているだけだということです。

KLタクシーはメーター使用の点ではペナンタクシーほどひどくはないと言えます。それはひとえに利用者が多いからなんでしょう。しかしそれでもKLタクシーは、クアラルンプールの近代都市としての発展度に見合ってない、と言えます。国家が、首都が発展すれば、その住民意識にも公共交通機間サービスにも交通道徳にも進歩があってしかるべきです。私が強く感じるのは、KLタクシーは、ひいてはクアラルンプールの公共交通網は現代都市としての発展度に見合っていないということです。

KLタクシーの認可メーター運賃

距離計算:最初の 1Km RM 2.0  次いで 150m毎に 10セント、 時間計算:最初の2分 RM 2.0 次いで45秒毎に 10セント
そこでこれを基にして、命題を2つ掲げましょう:


監督官庁と同業者団体からそれぞれの見方

2月中旬の新聞記事で、たまたまそれぞれの代表がその立場を語っています。それをまずお読みください。
以下記事

タクシーの免許を発行する商業自動車免許授与庁は次のように認める:免許授与庁は運転手が外国人を騙していることは知っているが、クアラルンプール及びその近郊で登録されたタクシーは28000台もあるため、監視するのは不可能である。
商業自動車免許授与庁の長官は語る、「旅行者が公式なる苦情を提出しない限り、庁は行動に出られません。公式な苦情とは、ナンバープレート番号、起った日時、場所などが必須です。」

スランゴール州及びクアラルンプールラジオタクシー協会の議長は語る、「運転手は乗客を欺かざるをえない、それは低賃金と免許授与庁がタクシー免許を発行しつづけることからの競争激化が起っているからです。」 「マレーシアのタクシー運賃は東南アジアの中で1番安い。しかし車のスペア部品、ガソリン、生活費などは上がり続けているのに、タクシーメーター設定料金は変わらない。運転手はより長時間はたらかざるをえない。」 「運転手はタクシー会社に、日々の車両レンタル料として、毎日RM 35から 45支払います。燃料費として、日にRM 20から 30かかる。1シフトは10時間です。」 「乗客を騙すのを止める唯一の方法は、授与庁がメーター料金を上げ、運転手の賃金状態を向上させることです。」

クアラルンプールのタクシーが騙すことはすでに旅行者の間では悪名高いことであり、旅行者はインターネットなどで互いに警告しあい、情報を交換している。旅行者を騙す運転手はたちは、余計な道のり、メーターを使わない、休日や週末の追加料金、混雑時間の追加料金などを口実に挙げるとのことです。

以上

外国人旅行者は公式苦情を提出するのは難しい

まず「旅行者が公式なる苦情を提出しない限り、庁は行動に出られません」 という説明はまったく旅行者に不向きです。言語に流暢ではない、慣習を知らない、手続きの面倒さ、限られた日程から時間のなさ といったことから、不誠実タクシーに出会った外国人旅行者・乗客の一体どれくらいの割合が公式なる苦情を提出するでしょうか? ものすごい低率だと言っても間違いないでしょう。24時間受け付けの多言語苦情受け付け電話と外国人旅行者が行き易い場所複数箇所に24時間受け付け窓口がない限り、この公式苦情提出は極めて非現実的ですね。

現在の道路交通庁が掲げている、設置している 苦情受け付け電話は曜日・時間限定でであり、応答が悪い、単言語に近い、そうです。つまり外国人旅行者には極めて不適切、不向きです。商業車両免許授与庁の苦情受け付け電話は 1-800-889600

よって外国人旅行者の訴えを基にして商業自動車免許庁が行動に出るということはほとんど期待できませんし、例えあったとしても現実には取るに足らない数なのは間違いないと思います。こういったことからこの対策はKLタクシーのサービス向上のためには考慮外となります。

タクシー免許所有者とタクシー車両は増え続けている

商業自動車免許授与庁がタクシー免許を発行し続けているという批判は以前からありますね。商業車両の運転免許に関する次ぎの説明をご覧ください。

普通の自動車運転免許ではなく)貨物自動車・トラックを運転するには GDL免許、タクシーまたはバスを運転するにはPSV免許が必要です。2005年末現在国内に、GDL免許、とPSV免許保持者は合わせて約7万人です。この2つの免許を得る際または1年毎の更新の際には、医者が発行する、身体状態は運転に適している旨の診断書が必要です。


上記で28,000という数字の意味が今一つはっきりしませんが、とりあえずタクシー運転手の数ではなくタクシー車両という意味だと私は理解します。この車両数が多いか少ないかの判断はまこと難しいです。ちなみに KLRapidバスの車両数は1000台強です。28,000台が多い、少ないは別にして、それを十分に監視できないというのは確かにわかりますね。こんなたくさんの車両を監督官庁の数百人程度の取締官で十分に取り締まるのは不可能です。そこで相当程度までタクシー会社とタクシー運転手の自主的管理と自己規制が絶対的に重要になるわけです。

追記:どうやら28,000はタクシー免許所持者の数のようです。車両数はその大体半分ぐらいです。

そういう場合、認可メーター運賃が低過ぎると常に感じる運転手ばかりでは、運転手の自己規制などとても得られるとは思えません。人間は所詮欲張りだから、メーター運賃をどんなに上げたって運転手は常に不満さという皮肉な見方もありますが、私はそこまで運転手不信には立ちません。需要と供給の経済法則から言って、例えば初乗り運賃 RM 10 に上げたらマレーシア人で乗る人がごく減ってしまうのは間違いありません。

タクシー会社とタクシー運転手の関係

尚タクシー会社はこの運転手の行為に対して影響力は大してないと思います。なぜならマレーシアの一般的タクシー運転手は会社に属していても、水揚げのナンパーセントを会社に納めるという形式ではないからです。タクシー運転手は毎日タクシー車両のリース代を会社に払い、運行上はタクシー会社名を利用します。会社は運転手に保険をかける、被雇用者福祉基金EPFの納付金を納めるなどの面で雇用者の立場ではあっても、タクシー運転手はその会社の従業員というよりも請け負い個人事業主的要素の強い職業です。このため会社のためという意識はまずありませんし、そういう文化はありません。

よってタクシー会社が運転手に影響力を持てるとすれば、リース代の変更を通じてが大きな影響力になると言えるでしょうが、実際タクシー用自動車の値段はほとんど変わりませんので、リース代を数割引にするというようなことは起り得ません。長い年数リースであれば、年間のリース代が下がり結果として日々のリース代も下がり、短い年数リースであれば年間のリース代が高くなり結果として日々のリース代も上がるのです。リース期間が無事終了すれば、その車両は運転手の所有物になります。

燃料費高騰と液化天然ガス(LNG)車両

世界的原油高を反映して、ガソリン代は去年確か3回も値上りました。マレーシアでは、石油燃料即ちガソリン代やプロパンガスなどは公定価格です 。ガソリン車を使っているタクシー運転手には明かに負担増といえます。マレーシアでタクシー車両にLNGガス車を使用しているのは、クアラルンプール圏を走行する KLタクシーだけであり、それもその全車両数の数割に過ぎません。LPNガスはガソリンの半分ぐらいの値段だそうですから燃費が当然良いわけです。

注:レギュラーガソリン 1リットル RM 1.58。 しかしこれが発表即実施という形で、2006年2月28日から RM 1.88に値上げされました。
注:新聞の記事 「昨年12月1日から天然ガス用車両で実施された値上げにより、1リットル当り 81セントになりました。」 しかし、2005年中はもう燃料費の値上げはしないという政府の公約があったので、Petronas は数日後この値上げをすぐ撤回したのです、2006年3月時点で 1リットルあたり 68 セントだそうです。


しかしKLタクシーが全部LNGガス車でないのは、LNGガス車両用に改造する費用がかかる(数千リンギットとか?)、そしてLNGガスを供給できるガソリンスタンドが一部のガソリンスタンドだけに限られているという点にあります。Petronas以外のガソリンスタンドはLNGガスを一切扱いませんし、さらにPetronasガソリンスタンドであっても特定スタンドだけしかLNGガスを供給できないため、クアラルンプール圏といえどもその数は限られたものです。よってそういうガソリンスタンドではいつもLNGガス車両のタクシーが給ガス順番待ちの列をなしているのが目に入ります。

注:LNGガス供給スタンドは首都圏に29箇所とのこと。


バス、電車と比べた時の初乗り運賃

他の公共交通機間の運賃を見てみましょう。クアラルンプール圏を走る乗合バスの運賃は最低 90セントです。現在クアラルンプール圏の乗合バスは全てゾーン制運賃なので、同一ゾーン内で乗り降りすれば 90セント、次ぎのゾーンで降りればRM 1.50 、乗り降りが3つのゾーンにまたがれば RM 2.0 というようになります。クアラルンプールの高架電車の最短区間運賃は RM 0.70、モノレールの場合は RM 1.2 です。

こういう比較をしていくと、KLタクシーの初乗り運賃 RM 2はいかにも安いのではないだろうか。タクシーという乗り物はいわば、個人または2、3人程度で目的地まで貸し切る形の運搬手段であるのにも関わらず、バス、電車の最短区間の2倍程度という初乗り運賃はやはり安いと言えます。
ここで挙げたようにいくつかの要素を考えていくと、タクシーメーター認可運賃は、あるべき運賃よりずっと低いと言えるのではないでしょうか。

タクシーの違反行為を2種類に分ける

その低い料金を余儀なくされたタクシー運転手の少なからずは違反行為に及びます。違反行為には 2種類あります。
1つはいくらかは大目に見てもいいのではないかという場合です。 これは最初からメーターを使用せずに行き先の料金を交渉で決める場合です、まあ交渉というより運転手の言い値にわずかばかり変更できる程度ですが。この場合は、対象が地元マレーシア人の場合も外国人の場合も出てきます。このメーター不使用、言い値料金提示は違法行為ではありますが、騙し行為ではありませんよね。乗客は最初から行き先の料金を承知して乗るわけですから。利用者はその提示料金が受け入れられないのであれば、乗るのを止めるという対処作がある程度取れます。

ある程度というのは、マレーシア人であっても言い値に拒否できない場合もよくあるからです。典型的な例をあげます:クアラルンプール郊外の大衆的な住宅地区などへ行く時です。こういう場所はバス網が極めてお粗末、またはなかったりで、荷物を持った人とか足腰の弱い人などはどうしてもタクシーに頼らざるを得ない。こういう場所へ行くタクシーは帰路客を拾えない可能性が極めて高いので、最初から言い値できます。多少は交渉できても所詮その言い値に近い料金を受け入れざるを得ません。こういうタクシー乗客が最も弱い立場にある乗客といえます。なぜならそういう住宅地は一般に低所得階層向けであり、車のような自分の交通手段を持ってない人、または自分で運転できないような女性、老年層が多いからです。

上のような場合ではないその他の場合は、運転手の言い値がいやならそのタクシーに乗らなければいいのです。別のタクシーを待つなり、バスで行けばいいのです。こういう断固とした態度にでない利用者にも責めがあると私は思います。私はもう本当によっぽどの事情でない限り、最初からタクシーを考慮せずにバスを使います。メーターを使うように要求し、運転手が使わなければ発車前に下りる、そして別のタクシーを待つまたは乗り換えになって手間がかかろうとバスで行く。こういう態度を取らない人が多過ぎますね。言い値で乗っているような外国人在住者、外国人旅行者は確かに違反行為の被害者ではありますが、深刻な被害者ではないですね。所詮その言い値を受け入れられるだけの経済的余裕があるからです。

不誠実行為は許してはいけない

もう1種の違反行為です。こちらは明かに不誠実行為です。つまりその乗客が知らないことをかさにかかって、わざと回り道したり、うそを言ってメーターを使わないとか存在しない追加料金を課すようなケース、または鼻から乗車拒否するケースです(上記の新聞記事中でも言及されています)。騙しケースの違反行為にひっかかる多くの者は、外国人とりわけ外国人旅行者と外国人労働者といえるでしょう。他にマレーシア人のお上りさんのような人たちもいるでしょう。利用者にとって不愉快な鼻からの乗車拒否は、タクシー運転手は本来の職務を放棄していると言えます。 この種の違反行為は悪質なので許せませんし、許してはいけません。

KLタクシーの違反行為が減ると思う人がどれくらいいるだろうか

こうして、当局も業界団体自身も認めているように、KLタクシーは長年違反行為をし続けています。いくら運賃が安すぎるから多少は仕方ない面があろうと、違反行為は違反行為だから、当局の取締官にもし現場を抑えられれば運転手は罰せられます。

KLタクシーの違反行為が全くなくなるなどとは誰も思わないでしょうから、それでは違反行為はこれからもほとんど減らないだろうと思いますか、と問うてみましょう。

私だけでなく、ほとんどのマレーシア人が違反行為が減るとは思わないでしょう。なぜなら、KLタクシーを取り巻く環境が全然変わっていないからです。そしてマレーシア人の公共交通に対する考えと態度が数年程度で変わるとは思えないからです。 乗客側にある 「メーター使わないけどまあいいや」 ですね。

KLタクシーのサービス改善・向上のために、まず初乗り運賃値上げ

それには何が必要か? まず第1に、業界団体とタクシー運転手が長年訴えているように、KLタクシーの環境を変えてあげることが緊要だと思います。これだけ物価が上がったにも関わらず、タクシーの初乗り運賃がわずか RM 2というのは低過ぎる。近距離走行の場合タクシー運転手側が提示する料金で多いだろうと思われる、言い値料金である RM 5 を初乗り運賃に設定すべきではないでしょうか。5リンギット札はよく普及しており、且つキリが良い。よって言い値としても多く、現実に多くの近距離乗客がその程度の金額を運転手に払っているのです。だったら最初から初乗り RM 5 にすればいいのです。そうすればごく近距離に一々タクシーを使う客が減るという、良い効果も期待できます。RM 5 でも構わないという客はもちろんごく近距離だって乗ればいい。

当局といくつかの消費者団体はそれでは運賃の上げ過ぎだ、物価上昇に結びつくと反論するでしょう。当局が行う数年に1回ぐらいあるタクシー運賃改定時には、距離・時間計算の基準を短くするなどの処置で結果として極めて小幅の値上げです。これはナンセンスですね。現実に多くの乗客がメーター使用しようとしない運転手の言い値または交渉値で近距離、時には中距離も乗っているという現実に目をつぶって、建前論を表に出しているからです。短距離走行に RM 5 払っていることは消費者物価指数計算に入ってきませんが、現実は利用者はそれぐらいの運賃を払っているのです。

建前ではなく実質的効果を生み出すことが大切

この初乗りRM 5設定はKLタクシーの状況をある程度変える糸口になると思います。この10年ぐらいの間、タクシー運賃改定の実質はごく小幅に過ぎなかったと言えます。従がってこれまでのようなタクシー運転手をまったく納得させない運賃ではなく、一挙に初乗り運賃 RM 5 にすれば近距離でのメーター不使用、さらに乗車拒否もぐっと減ることでしょう。認可メーター運賃値上げはできるだけ小幅にするといった建前ではなく、実質的効果を生み出させるようにすべきなのです。

もちろん初乗り運賃を RM 5 に上げたからといって、KLタクシーの違反行為の全てがなくなるわけではありません、例えば外国人旅行者を騙すような不誠実運転手はあまり減らないでしょう。世の中ある対策を一つ取れば全てが解決するという、マジックみたいなことはないです。しかし安すぎるタクシーメーター運賃をそれなりに運転手の納得する運賃に上げて、実質的効果を期待することが、より賢い方策だと思います。



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