「今週のマレーシア」 2002年11月と12月分のトピックス

・アジア大会におけるマレーシア選手団の成績から ・ なぜ”我関せずの無責任症候群”は減らないのだろうか
2005年発効のAFTAがマレーシア国産自動車産業に与える影響
かくして小学校1年から理科と数学を英語で教える政策が決定した
ラマダン月にチョーキット、ブキットビンタン、チャイナタウンを歩いて思った
土曜の夜、クアラルンプール中心部で開催された2つのコンサートで感じたこと
ハリラヤ時にマレー地区を歩いた、地方の町を訪れた、その光景を語る ・Intraasia の雑文集



アジア大会におけるマレーシア選手団の成績から


とりあえずメダル獲得数を見てみる

10月に韓国で開催された第14回アジア大会の成績を下に掲げました。メダルの獲得数で国々のスポーツ評価をするのは、各国間のスポーツ強弱を正確に示しているとは思えないし、さらに国威発揚面ばかり強調されるのであまり賛成ではありません。しかし気が引けながらもこの場では一応メダルの数の面だけで他国と比較すると、マレーシアはアジア大会の上から11番目で総数30個でした。この数をまあそんなものだろうと捉えるか、ちょっと少ないと捉えるか、スポーツ全般状況に通じてない限り判断するのは難しいことですね。参考までにマレーシアは前アジア大会では、金5個+銀10個+同4個の合計29個獲得だったそうです。

東南アジアでは2番目

でメダル総数30個は東南アジア諸国中ではタイの43個に次いで2番です。人口面では圧倒的大国であるインドネシアの23個を上回っています。その他マレーシアより数倍程度人口の多い、フィリピン26個、ベトナム18個、ミャンマー12個よりメダル数が多いのは、マレーシアの国としての発展度が高い面を反映している面もあるはずです。なぜなら一般論として、スポーツ振興に金を割り振る余裕がある国ほど、メダル成績がいいといえますから(もちろん、あくまでも傾向としてであり、全てそうだといえないことは知っています)。今回のマレーシア選手・役員団の総勢は207人でした、この数字と比較してメダル30個はどうなんでしょう?この方面の知識のない私には批評できません。

大会に参加したマレーシア選手・チームのメダル成績表 (参加してない種目は表示してない)
種目名 提供メダル数
金−銀−銅
獲得メダル数 参加
選手
マレーシア選手・チームに関するコメント
アーチェリー4-4-4000男女24年ぶりに出場
陸上45-45-450001958年以来初のメダルなし
バドミントン7-7-7001男女男子はたいへん期待はずれ
バスケットボール2-2-2000女子は12年ぶりの出場、全試合負け
ビリヤードとスヌーカー10-10-10000いずれも期待はずれ
ボディビルディング8-8-8010前アジアチャンピオン金取れず
ボーリング10-10-10211男女女子の活躍、男子はメダルなし
ボクシング12-12-12001
自転車20-20-2001032年ぶりにメダル
ダイビング8-8-8003男女これまでに経験ないが、たいへん良い成績
乗馬6-6-6001男女期待より少し悪かった
サッカー2-2-2000本来アジア大会に出場できるようなチームではない
ゴルフ2-2-2000プレーが安定していない
体操16-16-16000男女機械体操は比較的的健闘、リズム体操は1人のみ出場
ホッケー1-1-1001若いチームにもかかわらずよく頑張った
カバディ1-1-10004試合中3敗、1勝は日本相手
空手11-11-22212男女出場した5選手が皆メダル獲得の大好成績
ラグビー2-2-2000全試合負け、国際水準に足らない
ヨット16-16-16010男女前大会より成績が下がった
セパタクロー6-6-6011試合前からスキャンダルがあった。タイには勝てない
射撃17-17-17000男女メダルの期待は最初からなかった、まあ健闘
スカッシュ2-2-4112男女金2個が相当期待されていたが、ちょっと期待はずれ
水泳32-32-32010男女背泳で男子選手が惜しいところで金を逃した
テコンド16-16-32002男女メダルはいずれも女子獲得の好成績、
重量挙げ15-15-15000水準には届かない
ウーシュ(武術)12-12-12100男女マレーシア選手初の金メダル
合計
816



メダルの内訳

男子種目女子種目
金メダル空手、スカッシュ、Wushuボーリング(個人とダブルス各1個)、空手
銀メダル ボディビルディング、自転車(200mスプリント)、ヨット、
セパタクロー(チーム)、水泳(背泳ぎ)
ボーリング、空手、スカッシュ
銅メダル バドミントン(ダブルス)、ダイビング2個、乗馬(チームジャンプ)、
ホッケー、空手、セパタクロー、スカッシュ
ボーリング(トリ)、ダイビング、空手、
スカッシュ、テコンドー2個


やはりマレーシアはスポーツ熱心国ではない

スポーツの主要種目である陸上はまったく良い成績を残せず、競泳でもかろうじて1個のメダルでした。ボーリングと空手とテコンドーで良い成績を残したというところでしょう。マレーシアの国民的スポーツで参加人口も多いバドミントンは、評判とは別にアジア大会で金メダルを取ったのは1970年が最後だそうです。今回も銅に終りましたね。

注:マレーシアがスポーツの中で国家レベルでもっとも力を注いでいるだろうと思われるバドミントンを見ると、マレーシアバドミントン協会の運営指導するトレーニングセンターに、44人の選手、BukitJalilにあるスポーツ学校(中学生5年程度)に54人の生徒がバドミントントレーニングを受けているとのこと。つまり100人ほどの選手が国家トップレベル選手訓練・養成プログラム下にあるということでしょう。


メダル獲得数が多いことが即国民一般の自ら”するスポーツが盛ん”には結びつきませんが、いくらかの関係はあるのではないでしょうか。メダル数など無視してマレーシアという国を観察して見ると、あくまで一般論としていえば、国民がスポーツに非常なる力を注ぐ国ではないといっても間違いではないでしょう。
対抗スポーツの面からみれば、高等教育つまり大学レベルでのスポーツ大会はあるでしょうが、国民の興味を呼び起こさせるような熾烈なスポーツ対抗とは全くなっていません。企業リーグもホッケー、バスケットボールなど数少なく、参加企業もごく限られている。プロスポーツはサッカーのみです。

一般国民の日常スポーツ活動面からみれば、全国津々浦々で地域のスポーツ活動が盛んであるとはいえません。自治体がスポーツ施設を提供するような恵まれた自治体は数少ないはずです。全国に唯一ネットワークを持っているのは、官製の青年向けグループ活動であるRakan Mudaに属する各スポーツ活動ですが、官製という弱点と強みの両面を持っていると思います(これに関してはいつか詳しく調べます)。
さらにムスリム女性は他のムスリム国と同じように、参加するスポーツが限られている、例えば水泳や体操はまず考えられない。あるスポーツ種目の参加者に同民族の者たちが固まる傾向がある、例えば太極拳はほとんど華人であり、シラット、セパタクローはマレー人ばかりですね。プロスポーツのサッカーチームの選手にはマレー人が多いなど。

注:例えば、Malaysian Cup2002年の決勝対戦チームであるスランゴール州とサバ州の各チームベスト11の合計22名中華人選手はわずか1名です。

こういういくつかの特徴が、マレーシアがアジア大会に参加した競技数とその種類にも現れていると言えるのではないでしょうか。



なぜ ”我関せずの無責任症候群” は減らないのだろうか

第144回 「マレーシア社会の責任逃れ症候群を考える」の続編

KomuterのSubangJaya駅を批判するある投書

9月半ば頃の新聞に次ぎのような投書が載っていました。SubangJayaにあるKomuter近郊電車のSubangJaya駅を利用しているというマレーシア人からの苦情投書が取り上げれており、駅で切符を手販売する窓口が昼時に閉まっていて切符が買えず、駅長室を覗いて呼んでも駅長も留守であった。どうして一つしかない切符販売窓口を販売係りの女性は閉めてしまって昼食に出かけてしまうのか?
という内容のものです。新聞各紙に、公共サービスや交通機間や人々の交通マナー、屋台商売人の衛生観念のなさなどを取り上げて文句を述べる、追求する、訴えるといった投書は極めて日常的に掲載されており、上記のような投稿内容は全然珍しいことではありません。

KTM KomuterのSubangJaya駅はその路線の中でも常に乗降客の多い駅であり、中流階層の多いSubangJaya一帯の通勤者や住民、訪問者がよく使う駅のはずです。駅からの至近距離には有名なショッピングセンターやハイパーマーケットもあり、Komuter路線の中でも有数の駅です。ですから筆者もこれまで何年にも渡って何回も利用した駅ですから駅舎の仕組みも覚えています。

切符の自販機が2台ほどありますが、Komuter電車を利用された方ならご存知のように、マレーシアの切符自販機は利用者にやさしく作られていません。具体的に言えば、紙幣の認識率が極めて悪いことと、5また10リンギット紙幣を入れてもまずおつりが出てこない結果になりますので、5または10リンギット紙幣の場合は切符自販機で買えない場合が多分にでてきます。なぜならおつりをこまめに補給してないからです。そこで、1リンギットコインや20セントコインでちゃんと切符代金分用意してない限り、好むと好まずに関わらず販売窓口に並ばざるを得ないのですが、なんと駅によって販売窓口が閉まっている時間もあるのです。

電車が来ても乗れない

自販機は使えない、窓口は閉まっている、じゃどうやって切符買うのか?ということになりますよね。基本的に解決策はありませんね。電車がプラットフォームにやって来て走り去るのを見ているしかないのです。筆者ももちろんそういった経験があります。

この投書者の心理はよく分かります。乗ろうと思った電車がやって来ても切符が買えず、駅構内でいらいらしながら窓口が再開するのを待つ。これは地方の田舎の極小駅でのできごとではありませんよ、クアラルンプール内外を結ぶKomuter路線有数の駅でのできごとです。窓口販売係りは昼時がくれば食事で席を立つ権利は確かにあるのですが、この投書主に拠れば1時間近くも戻ってこなかった、と。その間替わりの者を窓口に座らせることもなく、駅長は何をしていたのだろうか?

日頃マレーシア社会のこうした現象を目の当たりにしたり自身でも数多く経験しているものとして、こういったニュースは例外的な出来事でも、特異な出来事でもないと断言します。

電力会社出張所でのできごと

この記事の数日後筆者も、この種の我関せずの無責任症候群の何十回目かの被害者になりました。
場所は電力会社Tenaga Nasional Berhad (通常はTNBと略称する) の料金支払い出張所です。電気代は郵便局でも支払えますが、TNBの支払い出張所が筆者の地区にあり、そこの方がたいていは待ち時間が少ないので、筆者は通常そこで毎月支払っています。その月9月分の電気代請求書をその前日受け取りました。これは地域のTNBが各家庭の電気メーターを読まずに、それまでの使用経歴から使用量を推測して、請求するオフィス発行推定請求書でした。この方式は昨年から取り入れられて、現在では2ヶ月に1回だけ家庭のメーターを実際に係員がチェックしてその場で発行する係員発行請求書と、そうでない月は地域のTMNB事務所が利用料を推定で発行するオフィス発行請求書の2種があります。請求書はそれぞれ紙質も違うし、メータ読みの蘭に記号でその区別が記入されています。

公共料金の常で、電気料金請求書はずべて100%マレーシア語で印刷されています。推定料金方式は開始した当時消費者に困惑を起こしたと以前TNB職員から実際に聞きました。確かに消費者への広報説明が不充分であり、よくわからないうちに導入された面もあり、私も最初面食らいました。しかし1年も経てばその仕組みは分かったし、マレーシアを解説するものとして、こういった請求書の説明書きももちゃんと読んで理解しています。通常のマレーシア人消費者より理解度は高いと思います。

で今回その推定請求書に、見なれない項目である”推定料金、追加”という単語(もちろんマレーシア語)と共に、金額が印刷されていたのです。この項目ははじめて目にする、つまりわけのわからない項目なので、翌日早速TNB料金支払い出張所へ足を運びました。ちょうど客用相談カウンターに女性職員が座っていたので、質問したいがとあらかじめ断ってから、その請求書を見せながら尋ね始めました(もちろんマレーシア語でです)。

コンピューターがやっているから我関知せず

しかし彼女は私の尋ねことばが始まるや否や、請求書をよく見もせずに、それはオフィス発行推定請求書だからそういう項目があるのは当然だと、答えるではないですか。これはまことよく出会う応答スタイルで、すべて当局、この場はTNBです、は正しい、だからいちいち文句つけるなという態度ですね。そこでよく私の話しを聞けと断って、ことの次第を説明しようと数回試みた後、ようやくその女性は自分が想定していた質問・苦情事項と違うことに気がついようです。そして今度は彼女は、それはTNBのコンピューターが打ち出したものなので、我々職員にも分からない、知らない、すべてコンピューターがやっていることだ、という木で鼻をくくった応答です。

こういう失礼な応答に腹を立てていてはマレーシアでは交渉が進みませんので、筆者はさらに食い下がって、これまでの請求書にない初めて見る項目名だから、あなた(その女性のこと)からTNBの担当部署に電話して尋ねてくれないか、とお願いしたのです。しかし彼女は、電話番号は請求書に印刷してあるから自分で(つまり筆者が)電話しろというのです。再度確認しておきますが、これはお客様窓口に座っているTNB職員の発したことばですよ。

TNBのような公共企業体つまり役所的会社に電話したって、担当者に電話が回らないか、回るまでにどれくらい長い時間かかるかを知っている者として、そのことばに素直に従うわけにはいきません。是非あなた(その女性のこと)からかけてくれと、訴えた結果、彼女はカウンターにある電話を使っていやいやながらどこかに電話しました。そしてまもなく担当者につながった受話器を筆者に手渡したのです。

そこで筆者は電話でまた最初からことのいきさつを説明した結果(もちろんマレーシア語で)、受話器の向こうの担当者の説明から、なぜ突然初めての項目が今回の請求書に現れたかが、ようやくわかりました。受話器の向こうの説明を聞いたことによって、筆者はその項目で請求されていることには同意しませんが、その項目名が突然現れた理由はわかったのです。担当者の説明に拠れば、筆者だけでなく他の消費者にも充分現れる可能性のある又は現れている項目でした。これまで筆者が受け取ったどの請求書にもなく突然現れたこの請求項目に関しての説明など、請求書のどこにもまったく書かれていませんよ。ですから一般消費者はTNBに電話するなり窓口で尋ねてその説明を聞かない限り、誰だって分かりません。第一このTNB支払い出張所の職員でさえ、この項目出現の理由を説明できなかったのです。

施設や設備が発展しようと彼ら彼女らの意識は変わらない

万事がこの調子であり、消費者・利用者に基本的情報を知らしめるという、発想と態度は官庁や公共企業体、さらにある種の私企業にもたいへん欠如しています。上記のKomuter電車のSubangjaya駅職員やこのTNB職員の態度と思考法に顕示されている問題の背景を解く鍵はマレーシア社会の根深い所にあるのです。

ところで筆者がTNB出張所のその電話で担当者と話している間、カウンターに座ったその女性職員はなんとクイズか何かに応募する用紙に記入していただけです。もちろん勤務時間中の私事ですが、TNB料金支払い出張所の職員であれば当然知っておくべき情報なのに我関せずとまったく興味を示さず、私事に打ち込んでいる姿に、筆者は腹が立つよりもちょっと悲しくなりました。

10年以上もの間マレーシアの官公庁やそれに準じた機関を利用したり、時には交渉したり、あれこれと尋ねてきた経験を持つものとして、なぜ彼ら彼女らはこれほどまでに我関せずの責任逃れ症候群なのだろうか(この態度をマレーシア語でTak  apaと表現する)と思わざるを得ません。単にその企業体の性格に起因するのではなく、彼ら彼女ら、しいては社会全体にも関係する深い深い意識にその根があることが感じられますね。



2005年発効のAFTAがマレーシア国産自動車産業に与える影響


マレーシアの国産製造業で最もよく知られているのが自動車産業であり、具体的にはProton社ですね。1986年(と記憶しているが85年だったかもしれない)生産開始のProton車はまさにマレーシアの工業化の花形であり、誇りであると形容しても間違いではないでしょう。さらに1996年に生産開始した第2国産車メーカーPerodua社は乗用車部門で販売数の3割を占めるまでに成長しています。両社併せて国内乗用車販売台数の約9割を占めています。この数字だけを見ても国産自動車がどれほど大きな需要を持ち且つ産業としても非常な大きな位置を占めていることがおわかりになるでしょう。

参考:9月29日付け新聞記事より
マレーシア自動車協会MAA発表の数字では、国内自動車販売は前年比で6ヶ月連続伸びを示す好調です。8月は4万1千台を記録しました。国産車市場では今年Produa社製がシェアを伸ばしています。このためPerodua社は今年国産車市場で3割を達成することができるとしています。


関税引き下げ・撤廃協定であるAFTA

さて、東南アジア域内では、東南アジア国の製造製品に関しては互いに関税を劇的に下げる協定であるAFTAが2005年から発効することになっています。”AFTA”とは”アセアン自由貿易地域”の英語頭文字をとった単語です。この影響はアセアン各国にたいへん大きな影響をあたえると捉らえられています。そしてマレーシアにとって最も大きな影響をこうむる産業の一つが自動車産業であると一般に考えられています、それは上記のようにマレーシアが東南アジアでほぼ唯一の自国製自動車生産国であるからです。

AFTA発効にとなれば、ある製品の40%が東南アジア国で生産されたものであれば、東南アジア域内輸入関税を0%から5%の低率にすると定められているそうです。これは現在完成車輸入に対して最高300%もの輸入関税を課しているマレーシア自動車販売市場に劇的に影響を与えることになる、と考えられています。下記の表に明らかのように、Proton車の属する普通乗用車カテゴリーでは、完成輸入車つまり外国製自動車に対する輸入税の高さは歴然としていますね

自動車に対して現在課されている輸入税の税率表

普通乗用車
4輪駆動&MPVS車
バン車

完成車輸入完全組立て車完成車輸入完全組立て車完成車輸入完全組立て車
国産車存在しない13%-------------------
1800cc未満140%42%60%10%42%5%
1800cc−2000cc170%42%80%20%55%10%
2001cc−2500cc200%60%150%30%100%30%
2501cc - 3000cc250%70%180%40%125%40%

注:3000cc以上は所略しました


2005年の見通しはまだよくわからない面もある

上記の輸入税以外に2種の税金があり、その一つである販売税は全ての種類の車に対して10%課税されます。もう一つの税は物品税で、完全組み立ての普通乗用車の場合、非国産車は25%から65%の幅で課税されます。完成車輸入の場合は物品税は課税されません。ですから、非国産車の価格を相当高くしているのはやはり輸入税がその主たる要因だ、ということがおわかりになることでしょう。
このためAFTA発効による輸入関税の限りないゼロ化は、東南アジア製車に価格面で大きな競争力を付与することがわかりますね。

ただマレーシアはAFTAの協定内容を自動車産業に完全適用する期限を2年遅らす合意も得ていますので、現時点では上の表のような輸入課税が2005年に全廃されるのかどうかは、まだはっきりしていません。最終的には、政治経済的状況によって実施時期は判断されのでしょう。輸入税によってではなく非関税処置による国産車保護措置もありえると見ている専門家もいるそうです。

現行の輸入関税とAFTA後の関税の差は大きい

下の表は、2005年が来て現行の高率の輸入課税が撤廃された時、国産車と非国産車で価格がどう変化するかを、試算したものです。たいへん興味深い試算ですので、ここに載せました。

価格はRM 現在の
販売価格
車本体だけ
の純粋価格
左の価格
+ 輸入税
2005年の試算価格
販売税10%と仮定
2005年の試算価格
販売税30%と仮定
2005年の試算価格
販売税50%と仮定
Toyota
Corolla 1600cc
107,58841,64443,72762,04072,03482,029
Proton
Waja 1600cc
63,98238,63138,63153,37462,25971,144

注:2005年の輸入税を5%とし、物品税は0%と推定する。上記の試算価格は、車本体価格に付属品価格と諸費用を加えたものをベースにして、2005年の市場価格を推定しています。


2005年の試算価格の3つのどれをとっても、両車間における現在の販売価格差をが大幅に減少することがわかります。販売税は現在は10%ですが、自動車官営の輸入税撤廃によって国庫の税収減少を補うために販売税の引き揚げもありえることをこの試算は示しています。が販売税の引き揚げは国産車非国産車の両方に平等にかかるので、10%の場合でも50%の場合でも両車間の価格差はたいして変わりませんね。尚国産車と輸入車に差別的税を課してはいけないと、AFTAでは定められているとのことです。

現在の非国産乗用車部門で販売数トップのメーカーはToyotaでありその一番の売れ筋はカローラですから、この試算でそれが代表されていると捉えることができます。両車間のこの価格差約RM1万は、消費者の自動車購買選択に大きな影響を与えうることは想像に難くありません。単に日本人消費者の好みからだけでなくマレーシア人消費者の嗜好からいっても、RM1万前後の価格差ならカローラを買いたいというドライバーが多数派だと、一般にそう考えてもそれほど間違いではないのではないでしょうか。ここではもちろんカローラは非国産車の代表としての意味合いで、Honda車もNissan車も韓国車もそれに含まれます。

AFTA影響を最も受けるだろうとの悲観的推測もある

例えば関税に関して免税の島であるラブアン島とランカウイ島では、国産車は販売数の3割しかシェアを確保してないとのことです。これはマレーシア全国で国産車が乗用車市場の9割を押えているのとは対照的な数字です。この現状を示して、2005年のAFTA完全発効後の国産車特にProton車への需要がずっと減少する可能性を指摘する専門家もいるとのことです。

10月25日付けの新聞記事から
国産車Protonだけの販売会社である(国産販売会社の)EONは2005年のアセアン自由貿易地域協定AFTAの発効をにらんで、Audi 車とVolkswagen車の代理店権利を獲得する最終局面にある、と消息筋は語っています。尚現在の両輸入車の代理店であるAutoDuniaが年末で代理権を更新しない予定です。この意味を消息筋は、2005年のAFTA発効でPrtoton車の販売が落ちる事を予想しての意味も含まれているとしています。

つまりProton車はAFTAの影響を一番直接受ける車だといえるのでしょう、具体的には販売台数がぐっと減るだろうということですね。年間生産能力30万台から40万台程度のProton車は、AFTA後に果たして生き残れるかというのが、悲観論の代表ですね。もちろんそこまで悲観してない専門家もいますから、現時点ではよくわからないというのが正直な感想です。

楽観論もある

楽観論には、Proton社が5、6年前に買収した英国のエンジニアリング会社LotusがProtonの技術面とネームバリューに大きく貢献しており、そういうこともあって、Proton車は競争力を持っているのでAFTA発効は切り抜けられるというのがあります。現在Proton車全てに組み込まれている三菱自動車製エンジンを、2004年までにLotus開発のエンジンに置き換えていく予定だそうです。尚三菱はProton社発行株式の17%を所有しています。筆者はLotusがどのくらい有名で技術力あるのか全く知りませんので、これに関してコメントのしようがありません。

さらにProton車の競争力は英国市場、中東市場にあるという論があります。英国はProton車の最大輸出市場で年間4千台ほど輸出しているとのことで、その少数さはProton工場の輸出需要へに充分対応できなさにあるとのことです。しかしこれも現在建設中のTanjungMalimの工場がフル稼働する予定の2004年には片付き、年間1万台の輸出を期待できるでしょう、と見ている専門家もいるそうです。

注:この楽観論部分のみ10月21日付けStar紙のビジネス記事を参照


一方軽自動車専門メーカーのPerodua社の場合は、Proton社とはまた違っているようです。Perodua社はすでにリストラ計画を済ませ、今年Daihatsu Motor とMitusi による持ち株が27%から51%に増えました。つまりPerodua社は日系資本がその株過半数を所有する会社となったのです。これによってコスト削減を果たし、その軽自動車専門性を生かして東南アジアに独自の市場を見つけだせる、としているとのことです。

このように国の基幹産業の一つである自動車産業を巡るAFTAの影響は、業界だけでなく一般市民にも影響を及ぼすことになりそうです。
このコラムは、The Star紙の経済専門別刷りページ BizWeek が9月28日に掲載した特集記事を参考に及び引用して書きました。上に載せた2つの表はこの記事の中に掲載されているものを一部省略して引用したものです。



かくして小学校1年から理科と数学を英語で教える政策が決定した


今年中頃、確か5月頃、マハティール首相が言出し且つ積極的に推し進めてきた小学校における理科と数学科目を英語で教えるという方針は、9月の時点では国民小学校に関してはすでに最終決定していました。つまり2003年より1年生の段階から英語で教える理科と数学科目を新に導入するが、マレーシア語でこの両科目は教えないというもので、小学校教育における大きな変化です。国民小学校はマレーシア語で授業し、タミール語小学校はタミール語で、華語小学校は華語で授業を行っています。

次ぎに7月中旬発表された理数科目英語授業の開始スケジュールに関するニュースを新聞の記事から再録しておきましょう。

理数科目の英語による教育開始スケジュール

来学年度から小中学校で理数科目を英語で教える精細が発表されました。民族小学校である華語小学校とタミール語小学校は暫定的にこのスケジュールを適用されず、「与党連合の間において政治的論議をしなければならない、内閣は決定した。」と教育大臣の発言です。段階的に実施していくのは、教師と生徒に十分なる時間を与えるので、現実的である、と述べました。

小学校と中学校での理数科目を英語で教育する開始年の一覧表

小1小2小3小4小5 小6
UPSR
準備
学級
中1中2 中3
PMR
中4 中5
SPM
2003




英語
で行う




2004








2005








2006








2007








2008










注:UPSR, PMR, SPM, STPM は全国一斉に実施する統一試験です。

大学準備教育期間と高等教育での理数科目英語授業の開始年

中6前期 中6後期
STPM
マトリキュレーション
(大学予科)
ポリテクニック国立大学
2003



2004


2005



2006




2007




2008




この一覧表でおわかりのように、来年1月初めに入学する新1年生は小学校も中学校も英語で、理数科目を学習することなり、そしてその後ずっと英語で理数科目を教わることになります。理数科目を含めてこれまでは民族小学校は華語又はタミール語で、国民小学校はマレーシア語で授業を実施してきたのですが、理数科目に限ってこの原則から外すという、大きな大きな変化です。全てマレーシア語授業であった国民中学校も、新1年生からは理数科目を英語で教えるというように大きな変化を受けるのです。

華語小学校に関しては最後まで決定が遅れた

国民型タミール語小学校に関しては、与党のインド人政党MICが早々と賛成を表明していたので、公にはほとんど議論されずに、タミール小学校でも理数科目の英語教育決定を受け入れると報道されていました。しかし国民型華語小学校に関しては、華人コミュニティーの意向を反映して華語教育界及び華人基盤政党を中心に強い反対論があり、最終決定がずっと遅れ、10月末に与党連合BarisanNasional の最高会議の最終決定を受けて、与党の華人基盤政党(複数)は最終的に理数科目英語教育案を受け入れました。与党華人基盤政党が賛成したことによって、野党や華語教育界からの反対を押し切って華語小学校での英語で授業方針が決定したのです。

理数科目を1年生から英語で教えなければならないというマハティール首相の論理

なぜ小学校の段階から理数科目を英語で教えなければならないという理由を、ほぼ全てマハティール首相の持論を前面に立てて政府与党はしゃにむに国民に”広報”しました。マハティール首相の持論とはつまり、技術発展は国の最重要課題である、理数科目は国の発展の基礎を作る科目である、英語は世界の”共通言語であり科学・技術を発展させる言語である、従って子供の時から理数科目を英語で学習することがマレーシアを発展させることにつながる、という論理です。(これを論理と呼べるかどうかは別として)

この論理自体は与党連合内とマスコミ上ではほとんど公開議論されずそのまま受け入れられ(一部の人にとっては多分受け入れざるを得なかった面もあるでしょうが)、この論理を金科玉条の前提にして、理数科目英語教授政策をどのように施行していくかの面に議論の主点が置かれました。

この論議の過程で、非英語国であるドイツやフランスや韓国や台湾や(もちろん)日本はいずれも初等教育はもちろん中等教育でも理数科目を英語で教えてなどいない、それにもかかわらず技術面では世界のトップクラスである、といったしごく当然の反論がマスコミにわずかに現れましたが、こういう正論に対しては正面から反論を試みた記事やニュースを筆者は一つも目にしませんでした。まあ当たり前ですが、非論理的な理由を前面に出しているので、正論には反論できないのでしょう。

卑近な例をだせば、今年のノーベル化学賞は日本人研究者2人に授与されたそうですが、この2人が小学校から英語教育を受けた可能性はありえないはずですし、2人とも高度の英語を自由に操ることができるのでしょうか?推測するに、研究上英語文献は読めるし読まなければならないが、高度の英語を自由に操ることはできないし、第1その必要性自体がない、と筆者は思います。
ノーベル賞の獲得数だけでその国の科学技術レベルを計るのはおかしいし、単なる一つの目安だと思いますが、ノーベル賞対象のように高度又は独創的な研究の面においても、非英語教育を受けた研究者が充分活躍できるという例を示していると思います。

ところで、ただひたすらに、英語は世界の”共通”言語であり科学技術で発展するにはまず英語に通暁しなければならないという、英語崇拝を信じて疑わない意見や主張を載せていた英語紙に、筆者はへきえきしたものです。マレーシアの英語紙と一部マレーシア人は、英国人や米国人より”英語を愛す”という事実を改めて実感しました。

華語小学校の新1年生授業における大きな変化

さて華語小学校は原則として華語で教育します。これは華語小学校の発足以来の伝統と権益であり、華語教育界を中心にした華語主体華人の誇りと防波堤です。華語小学校に通う生徒は華人の子供が大多数ですが、全体の1割弱はマレー人、インド人など非華人の生徒も混じっています。

国民型華語小学校の1日の始業と終業時間には学校によって多少違いがあるとのことで、全国的に華語小学校の多くは午前部と午後部の2部制を敷いています。これは華語小学校で学ぶ生徒数が小学校とその校舎の収容能力以上に多いことつまり需要に供給が追いつかないのが一番の理由でしょう。
現在ほとんどの午前部は7時半から7時45分の間に始業し、1年生の場合は1日9授業時間制が標準ですので、12時20分頃終業です(休み時間含む)。来年1月に始まる新学期から、1年生は1日10授業時間制になるので、午前部の終業は12時50分頃になる予定です。一般に午後部は午前部が終業した10分後に開始するそうです。そして午後部も1日10授業時間制ですから、午後6時20分が終業になる予定です。

国民型華語小学校1年学級の1週間の授業時間割りあて
授業科目華語 マレー
シア語
数学道徳体育美術音楽 校長
選択
集会英語理科合計
現行1597532210
45
2003年から
(英語授業数)
129 10
(4)
422201(2) 6
(3)
50
(9)
変化時間数-30+3-1-100-10+2+6+5

Intraasia注:1授業時間は1時間ということではなく30分間です。( )はその科目の内英語で教える時間数

このように1週間の基本授業時間数が5授業時間つまり2時間30分増えることになります。1日平均1授業時間すなわち30分です。何をおいても英語授業の時間がゼロから一挙に9授業時間に増えるわけです。英語科目の授業が2時間、英語で教える数学が4時間、英語で教える理科が3時間という内訳ですね。体育、美術、音楽集会といった非書籍学習科目を除けば、週43時間で、その内英語での授業が9時間、マレーシア語授業が9時間、華語での授業が25時間ということになり、実質的には3言語教育です。

注:国民小学校とタミール語小学校は理数科目を英語のみで教えるので、授業時間数の変更はほとんど起きないとのことです

満6才で入学する華語小学校1年生に3言語学習は負担であるのは誰でも認めるところでしょう。単に小学1年生だけに負担ではなく、子供の家庭学習や塾通いを一層考慮しなければならない親にも負担であり、教師にももちろん負担です。なにせ新学年は2003年1月初めに始まるのです。わずか2ヶ月間に、英語で理数科目を教えることができる華人教師を確保又は養成しなければなりません。
今後小学校入学前に幼稚園に通園させる段階から、中英マレーの3言語教育をうたった幼稚園がより優位な地位を占めていくことは容易に想像できます。つまりここでも豊かな家庭はより有利なわけです。

教育的観点でなく政治的観点からの決定

この最終決定をしたマハティール首相と与党連合BarisanNasinal最高会議では、教育観点から決定したと述べられていましたが、まさかこれをそのまま信じる人は少ないでしょう。現に教育省の長官は、「BarisanNasinal最高会議の決定は純粋に政治的なものであるから、この華語小学校における理数科目2言語教育の精細に関しては教育省が責任をもって精細を決めていく。」と語っていました。

いくつかある非論理的な点の内、その教育的見地からもっとも理解し難いのは、次ぎの2点でしょう。幼ない生徒に物事を教えるにはその子供の一番馴染みある母語又は擬似母語を用いて教えるべきだという、教育上の通論を無視している点、次いで二言語で理科と数学を1年生から教える点でしょう。数学を6時間華語で教え4時間英語で教える、理科を華語で3時間教え3時間英語で教える。董教総のみならず、まともに教育を愁う人間ならば、このばかげた授業割り当てに賛成できる人はいないでしょう。さらに例えば、第1章を華語で教え、第2章を英語で教えるのか、華語で教える第1章を再度英語で教えるのか、理屈は華語で教え単語だけは英語で教えるのか、こういったことがまだ全く決まっていません。新学期は1月なのです、つまり教科書さえできていないはずです。

華人の反対派はこの2点を前面に出して政府決定を強く非難しています、母語教育を捻じ曲げてしまう、小学生にはものすごく負担であると。家庭で英語を常時話しているかまたは家庭内で幼児時代から英語と華語の2言語生活をしているような家庭は、都会の中流層以上の家庭に偏重していますが、そういった家庭の子供を除いて、一般華人家庭の子供には相当大変なことになるであろうと推測できます。

華人基盤野党DAPの批判点

野党の民主行動党DAPの党首は次のように批判する (ニュースグループで配布されている11月2日付け声明文より抜粋)。
「理科と数学の分野で優れていると世界的に認められた国の内で、英語が母語又は家庭内言語でない国で、この両科目を小学校の第1学年で英語を含む2つの言語で教えている国があればそれをあげて見なさいと、教育大臣に私は挑戦しますよ。
この英語2:数学4:理科3式の英語教育は華語小学校の生徒に負担にならないか?の質問にマハティール首相は次のように答えた、この方式は華人基盤政党の提案を完全に否定するのではなく、与党連合がもっとも良い方向に妥協したものなのです、と。つまりこれが明らかに示しているのは、生徒の教育利点を第1に置いたのでなく、与党連合の関心を優先させたものです。」 以上引用。

この有名な党首は決して華語教育断固死守派ではなく、むしろ華語小学校での英語教育時間の増加を主張しているぐらいのいわば英語教育歓迎派なのです。その彼も非論理的な、理数科目の2言語教育を批判する。それは次ぎの主張にも明らかです。

「もしこれ以上カリキュラムに変更がないことを前提にすれば、華語小学校1年生向けに新しく導入される9授業時間をむしろ全部英語を教える授業にすべきだと、DAP党は真剣に提案したいぐらいだ。なぜなら小学校の第1学年から理数科目を英語で教えることが英語と理科と数学の水準を上げるために最良でもっとも効果的だという、しっかりとした教育的事例はないからです。」引用終り

100歩譲って英語力を子供の時からそれほど向上させる必要があるとするならば、この野党党首の主張する、9時間授業をすべて英語を教える授業時間にまわすべきだという主張の方がはるかに理屈に適っていますね。英語を家庭で話したり英語が日常的に使われない環境出身の6才児、数はこの方が圧倒的に多い、にいきなり英語で数学と理科を教えることがどれくらい不合理かは常識でわかるはずなのに、この常識はマレーシアのマスコミからは消えうせていました。インターネットニュースグループでの意見ではマスコミは反対論を載せていないと訴えていましたが、まさにその通りです。華語紙が目立たない形で多少載せてはいましたが、英語紙ではごく一部読者の投書という形で載せていただけです。まこと見事なマスコミの自主検閲・規制だと筆者も同じように感じました。

華語教育界の要 董教総 は当然反対する

もう一つの反対論は華語教育界からのものです。華語教育界の要である董教総はその代表ですが、まず何よりも華語の授業の時間数が現行の週15時間から来年から12時間に減らされてしまったことに、強い不満を示しています。しばしば政府与党の方針・政策に批判的態度を取ることで知られた董教総としては当然といえる態度でしょう。華語の授業時間数が3時間減らされた分は理科を華語で3時間教える形に変わったように見えますが、英語が一挙に9時間も増えたので、週の総授業時間数50時間に占める、華語を使う授業時間数の割合は64%に落ちるわっけです。マレーシア語が9時間で18%占め、英語も同じように18%ですね。授業を生徒の母語である華語で教えることが華語小学校の根本的理念であるとし、それを守り且つ強く進めてきた董教総は、この華語教育時間数の減少はとても受け入れられないという態度を表明しています。

インターネットニュースグループで配布されている董教総幹部の声明は次のように訴える。
「この決定が政治的観点からなされたことは明らかだ。我々教育家はこの決定を非常なる非論理的とみます」 「小学生がその学習の初期段階で言語それ自体よりも2つの技術的科目にもっと多くの時間を費やすのは非合理的です。」 「理数科目が授業時間数の3分の1も占める。小学校の1学年の生徒対象にこういったことをさせる政策を持った国は世界にありません。」

董教総を組織する教師団体である教総の議長は、華語授業が15時間から12時間に減らされることに反対だとして、道徳や体育が減らされるのは受け入れられるが、華語授業が3時間も減らされるのは受け入れられない、だからこの決定は華語小学校にとって最適だとはいえないと、11月3日付け華語紙 星洲日報で語っています、「華語授業3時間の減少は多すぎる、1時間ならまだ受け入れられる。」 「華語小学校は理数科目を華語で教えなければならない、これが教総の立場です。BarisanNasional最高会議の出した、引き続き母語(華語)を授業の媒介言語に用いてもよいという決定は人々を慰めることばに過ぎず、実際に決定されたのは華語授業を削ってしまっている、だから我々は反対するのです。」

尚付け加えておくと、董教総は小学校での理数科目の英語授業が話題になった時点から、英語力の向上には賛成だが、英語での授業を取り入れることには反対であるとの基本姿勢を打ち出していました。董教総は自らのあり方を説明する中で、英語教育に反対しているわけではない、それどころか董教総は華人生徒の英語力の向上に力を注いでいる、華語と英語力の両方を高めることを目的とし奨励している、よって例えば独立中華中学校の学生で卒業後英語圏の大学教育を受ける者は全然珍しくない、ということを強調しています。

UPSR試験では伝統的に華語小学校は良い成績を収めてきた

さてこうした出来事が続いているうちに、小学校6年次の終りに毎年全国一斉に行う統一試験UPSRの成績が発表されました。次ぎに示したUPSRの今年の結果からも明らかのように、華語小学校は他の小学校より好成績を収めています。この傾向は例年同じだそうで、華語教育界からの理数科目英語授業政策に対する反対の一つの根拠にもなっています。

2002年UPSR試験の結果(教育省11月発表)
教科
数学
理科
試験の成績ABC 合格
合計
不合格ABC 合格
合計
不合格
国民小学校24.2 26.731.182.018.016.933.929.980.719.3
華語小学校52.73.2 16.7 92.67.4 23.940.7 21.3 85.9 14.1
タミール語小学校15.929.7 35.5 81.118.98.0 28.7 37.974.625.3


済んだ問題をこれ以上提起するなとの政府の警告

董教総は11月中旬に、通称2‐4‐3方式と呼ばれるこの理数科目英語教授方針に正式に反対する声明を発表しました。しかし与党華人政党は董教総の”狭い考え方”に失望を表明しました。政府は副首相談話で、もう片付いた問題にこれ以上問題視してことを荒げるな、法律に照らし合わせて処罰対象にすることも考慮することになるとの強烈な内容を伝えていました。この意味は国内治安法または扇動罪を適用して逮捕するぞという脅しだと、一般には受け取られています。

注:この種の治安法を適用すれば、人を逮捕して裁判にかけることなく拘置し続けることができます。マレーシアの治安問題に知識ある人ならこういった発言が単なる脅しでないことは当然知っていることです。

こうして華語小学校における理数科目英語授業開始は、いよいよ民族にからんだ政治問題化させられてしまい、結果として公開で議論することはますます難しくなってきました。

ということで筆者はことを荒げるつもりはないので、ここらでこの問題に関して書くのを止めることにします。



ラマダン月にチョーキット、ブキットビンタン、チャイナタウンを歩いて思った


ラマダンザールでにぎやかなチョーキット

ラマダン月である11月のある日曜日の午後、筆者はぶらりとチョーキット界隈をぶらついてみました。まだ開通してないモノレールのチョーキット駅舎下付近から始まってクアラルンプール中心部方向に向かってTuank Abdul Rahman通りの両側、特に左側にはぎっしりとラマダンバザール用のマレー屋台街が並んでいます。どの店も雨除けと日除けのための簡易テント張り屋台です。この屋台街はRaja Alang 通りまで続き、そのRaja Alang 通りにはKampong Baru の入り口までまたたくさんの屋台が並んでいます。

Tuank Abdul Rahman通りのもう一方の側(KL中心方向に向かって右側)で交差して中に入る形のHaji Taib通りは、1年中毎日午後遅い時間からマレー屋台街が立ちますから、ラマダン月だからといって大きく変わることはありません。ラマダン月でなくても常時人が絶えない狭いRaja Bot通り、これはチョーキット市場の入り口に続く、はいつも物売り屋台がひしめき合って人と暑気で混んでいます。

これらの通りをざっと歩いて気が付くことは、マレーシア人の買い物客と単にぶらついてる人々で界隈は混んでいるのに、一目で外国人旅行者とわかる姿が皆無に近いことです。白人のバックパッカ−も見かけない、チャドル姿のアラブ系旅行者も見かけない、いかにも日本人風もいない、口うるさい台湾や香港からのグループ旅行者にも出会わない。こういった旅行者の姿がないばかりでなく、気取った非ムスリム系マレーシア人の姿も見ないし、タンクトップで闊歩する華人女性やマレー女性の姿もありません。この現象は数日後の平日の夜早い時間に歩き回った時も同じでした。そしてこれは別に今回だけでなくいつ訪れても基本的に変わらない光景です。

ラマダンバザールはごく少ないブキットビンタン通り

同じくラマダン月の平日の夜、筆者はブキットビンタン界隈を久しぶりに夜間ぶらついてみました。筆者はブキットビンタン界隈は日中はしょっちゅう出かけるのですが、夜間は最近は滅多にいきません。Sultan Ismail 通りと交差する角にあるMay Bank前の一画には場所に似つかない感じのラマダンバザールが数少なく店を出しています。対象が地元人半分観光客半分のような感じですが、この界隈のにぎわいからみて取りたて客で混んでいるとはとても言えません。いうまでもなくブキットビンタン界隈はクアラルンプール有数の観光客ぶらつき地、夜間でもあちこちにその姿が目に入るし、その話し声が耳に入ります。そしておしゃれなマレーシア人やファッション雑誌を真似たヤング女性が人目を引きます。

特にラマダンを感じさせないチャイナタウン

同じくラマダン月の別の平日の夜、チャイナタウンをちょっと歩いて見ました。筆者はここも日中はしょっちゅう訪れたり通りすぎるのですが、夜間はあまり訪れません。ただそれだからといって以前と変わった光景は特に目につきませんでした。場所柄ハリラヤ前のバザール雰囲気と装飾はほとんどなく、いつものチャイナタウンですね。中心路に面した大衆レストランがその前の道にテーブルを並べて客の呼び込みをし、そのテーブルでは多くの白人がビールを飲んでいる光景はいつもと同じですし、テント張り物売り夜市の方では、いろんな国からの実に多くの一目でわかる旅行者が買い物またはひやかしながら押し合いへし合い歩いています。この光景は昔から変わらない光景ですね。

チョーキットが他の2界隈と違いを際立たせる面

こうしてクアラルンプールの3大有名界隈をラマダン月の数日、目的を持って夜間中心に歩いて見ました。いうまでもなく、どこが優れているとか良いとか比べるためではありません。それぞれに持ち味があって、マレーシアらしさをかもし出している界隈なのです。しかし、とここでやはり多少残念な思いはあります。別に意外なことでは全くありませんが、チョーキット界隈は”一見で旅行者”をどうしてこうも引きつけないのでしょうか? チョーキット界隈では、チャイナタウンには一杯いる白人バックパッカーや日本人カップル、アジア人旅行グループは滅多に見かけません、ブキットビンタン界隈にたむろしているアジアからのグループ旅行者や日本人女性、上品な白人カップル、アラブ人などこれらの姿は全くありません。

チョーキットは極めてマレー的雰囲気に満ちており、集まってくるインドネシア人の多さからそれに加えてインドネシア的雰囲気があります。数年前まではバングラデシュ人に代表される南アジア系も目についたが、その絶対数そのものがマレーシアから減って最近はぐっと目にしない、一時チョーキットのHaj Taib一帯を我が物顔にしていたアフリカ黒人も、問題を起こして最近はマレーシア入国が制限されて激減している、こうしてチョーキットは本来のマレー・インドネシア的雰囲気を保っているのです。それなのに、なぜ”一見で旅行者”はチョーキット界隈にやってこないのか?
その答えはこのコラム最下段で書きますが、その前にこの3つの界隈をもう少し歩いてからにしましょう。

チョーキット界隈

チョーキット界隈の名前の由来である短いChow Kit通りには屋台街はほとんどないので、特に人通りは多くありません。チョーキット界隈とは上記であげたいくつかの通りに囲まれた一帯をいうのであって、単にChow Kit通りの両側のことではありません。

さてこのチョーキット界隈、昔から何かと評判が悪い、いわく多くの安宿は売春宿みたいである、売春人やポン引きが客引きしている、麻薬患者が徘徊している、すりかっぱらいの小犯罪が横行している、怪しげな物を売っている、汚い、非衛生的だなどといったあらゆる非難と悪口がチョーキット界隈には付きまとってきました。確かに単なるいいがかりとは言えません、多分に誇張した非難ではありますが、これらの悪口にはそれなりの裏づけがあるほど、確かにチョーキットはこういった面を持っていたし、現在でもその悪口の根源を完全に拭い去ったとはいえません。

ただチョーキットに興味ある者の立場から言えば、HajiTaib一帯は90年代中頃までの”認知された非公認赤線地帯”ではなくなりました。この意味は売春産業がこの界隈から消えたということではなく、今も立ちんぼやポン引きは常時活動していますが、”非公認赤線地帯”というほどの集中はなくなった。スリかっぱらいが特にチョーキットに多いというのは間違いでしょう、クアラルンプール内外、様々な所での発生率とたいして変わらないはずです。つまり、スリかっぱらいがないことはないだろうが特に際立って多いようなことはない(はず)。

麻薬常習者の徘徊、これはなくならないですね。Haji Taib通り付近の路地裏やゴミ捨て場の付近で今でも常習患者はたむろしている、長年に渡って数え切れない回数の警察や麻薬取り締まり部隊、市の関係当局の取締りに関わらず、麻薬常習者を撲滅できてないのは事実です。尚麻薬常習者の出没は何もチョーキット界隈に限りませんよ、例えば筆者の居住地区でも日常的に見かけます。彼らはいないに超したことはないですが、しかし麻薬患者即狂暴危険という差別観を持った見方だけは拒否したいものです。

怪しげな物、いわゆるマレー・インドネシア民間伝統薬みたいなものがよく売られています、こういう民間薬に馴染みのない者、筆者を含めて、から見れば当然怪しげな物と思えます。しかしこれらを好んで買う人々は怪しげな物だなどと思っていることはありえないでしょう。批判する人たちの文化的、慣習的偏見が多分にこもっていますが、伝統民間薬の多くが科学的根拠に欠けることも事実でしょう。屋台や大衆食堂の飲食物が衛生的でない、これはクアラルンプール内外の通常の街角と比べて何ら違いは感じませんし、チョーキット界隈だけから疫病、病気が発生している、したなどというニュースは聞いたことがありません。こういった下町の屋台や大衆食堂が大変衛生的であるなどと思っている人はいないでしょうし、もしいたらよっぽどおめでたい人ですね。屋台と大衆食堂などどこだってほとんど似たり寄ったりです。でそれがどうした、と多くのマレーシア人は毎日飲食していますし、もちろん筆者も同様です。だからチョーキット界隈のみを特に批判するのは的外れですね。路地や路地裏が汚い、これもクアラルンプールの一般的街と郊外などの町とたいして変わりません。それどころか、チョーキットよりひどい汚さの郊外の町はいくらでもあります。

ブキットビンタン界隈

ブキットビンタン界隈というのはBukit Bintang通りの両側とそれに交差するSultan Ismail通りの坂を下る部分を合わせた一帯をいう。具体的にいえば、Bukit Bintang通りはJ.W.Marriot Hotel あたりから Novotel Century Hotel あたりまで、Sultan Ismail通りは Sungei Wang Plaza あたりからBukit Bintang通りとの交差点を多少過ぎた場所にあるHong Kong Bank ビルあたりまでをいうのであるが、通りの両側だけでなくその背後も含んだ一帯です。ブキットビンタン界隈はクアラルンプールの紹介いやマレーシアの紹介には、必ずといっていいほど常に載る、官も民もお勧めのショッピングと食事と宿泊・休憩の街ですね。オープン以来25年を迎えたブキットビンタン街のしにせSungei Wang Plazaは各地に続々と現れたショッピングセンター何するものぞと、依然としてマレーシアで最も幅広い人気を誇っています。いつもほとんど空きテナントがないというほぼ完全なるテナント充足率を誇る国内数少ないショッピングセンターですね。

マレーシアの巨大経済集団であるYTLグループがMarriottホテルとLot 10ショッピングセンターを買収した数年前からブキットビンタン街の一部が高級且つトレンディー指向に急変しました。YTLグループはもちろんそれを期待したのでしょうが、J.W.Marriotlホテルとそれに隣接するStarHill からLot 10ショッピングセンターまでの一画はBintang Walk と名づけられ、カフェとオープンスタイルのレストランが連立する華やかさで、夜遅くまでにぎわっていますね。一方この通りの交差点からFederal Hotel があるまでの一画はちょっと華やかさに欠けますが、歩道や商店街の化粧直しでずっと明るくきれになりました。さらにBBパークも全面改装したので、夜間もこの部分を歩く人が増えたように思えます。

しかし変わらないのはこの部分、つまりBukitBintag通りのBBプラザを過ぎたあたりからFederal Hotel あたりまでの部分で、午後遅くから夜遅くまで男1人または数人連れと見ると滅多やたらに声をかけてくるポン引きの活動ですね。11月のある夜ぶらっと歩き見て回ったたった15分間ほどに、何人が声かけて来たのだろう、5人か6人か、「中国人いるよ、タイ人いるよ、ベトナム人いるよ」 と聞きもしないのに、うるさく売り込んでくる。このポン引きはどうどうと声をかけて来て一言でも答えるとうるさくつきまとう。このスタイルは全然前と変わっていない、つまり少なくとも筆者の知る限り、10数年来この一画でポン引き行為が行われているのです。

現在ブキットビンタン界隈には交差点に面して円筒型の小さな交番が設置され、常時2人、3人組みのツーリストポリスが巡回している。婦人警官が半数近くもいるのではと思えるほど多いのがツーリストポリスの特徴であるが、夜は警ら活動が日中より少なくなる。。ベテラン警官なら当然この地域のポン引き活動は知っているはずだが、ポン引きが警ら中の制服ツーリストポリスに声をかけることはありえないし、まして女性警官ではあまりこういうことに気が付かないであろう。まあ本気で取り締まる気がないだろうし、根絶は無理に決まっているが、夜間も警らして不愉快な活動を多少でも減らすべきではないかと思いますね。

多分今年になってからであろう、夜間BukitBintag通りのこの部分の歩道に簡易長いすを持ち出して、足マッサージ(reflexology, 脚底按摩などと書かれている)または身体マッサージをしきりに勧めている商売人が増えました。筆者が商売人と呼ぶのは彼らは別に医療従業者ではないからです。こういった足マッサージは特に保健省の管轄下にあるわけではないし、医療関係免許が発行されているわけでもありません。だからもし十分な医療訓練を受けたマッサージ師がいても、それをどう権威つけるかに問題が出てきますね。で、商売しているのは、主として通りに面したビルの階に店舗を構えている足マッサージ屋の出張”ビジネス”だと思われる。

この種のビジネスはクアラルンプールではこの数年確かに増えており(数字的にはわかりません)、いくつかのショッピングセンターや商店街のビルの1室に店を出し看板を掲げています。ただ一挙に5、6軒にも増えたブキットビンタン街の足マッサージ屋は、たいてい日本語の添え書きもしてあるところから考えて、客層に多分に外国人と旅行者も加えて狙ったものでしょう。タイの有名地にはこういう外国人旅行者向け足マッサージ屋が多いが、向こうは圧倒的に若い女性がマッサージ師を務めている、マレーシアは観察する限り、人員構成が違っていますね。
尚外国人でなく主として地元人を対象にしたマレー人の足マッサージ屋が街頭で日中集団営業しているのは、マスジットインディア通りです。彼らはブキットビンタン街の足マッサージ屋とは違って、店を持たない街頭マッサージ師ですね。興味ある人はマスジットインディア通りを訪れて試して下さい。

チャイナタウン

Petaling通りを核にその外側である2本の通りTun H.S.Lee通りとSultan通り、その3本が交差する大通りであるTun Cheng Lock通りに囲まれた地区とその背後の一帯を、チャイナタウンと呼びます。それほど広くない長方形状の地域に、築100年近い建物がたくさん残っている。しかし空家が目立ち、中には廃墟もある。極めてごちゃごちゃしており、裏路地は汚く、浮浪者もうろついている。古い街並み構造と施設の老朽化のため排水設備とゴミ回収面で常に問題を抱えています。クアラルンプール市庁は長年この地区の美化計画を押し進めようとしてきたが、なかなか地元商売人の同意と協力を得られないなどの理由で延び延びになっていた。今年それが本決定したにも関わらず、また延期されました。

この地区の訪問者は地元人の範疇では華人中心だがマレー人とインド人もたくさんいる、日中特に多い学生、マレーシア国内各地からの旅行者、そして外国人旅行者範疇の自由旅行者と小グループ旅行者の姿、これらが常に雑然と混じっており、その人気の高さは誰でも確と感じます。このチャイナタウンに唯一見かけないのは観光バスでやって来る比較的多人数の外国人団体旅行者ですね。

旅行者にとってチャイタウンといえば午後からPetaling通りに出店するテント張りの物売り屋台に尽きるでしょうが、実際のチャイタウンは朝の顔と日中の顔と夜の顔に違いがあるのです。朝は奥まった路地にある市場が地元人で賑わい、古くからある茶店の点心でこれも地元華人でにぎわう。午後は学生や通りがかりのマレーシア人が目立ち、数軒ある華語書籍店が華人の若者や学生をひきつける。夕方からは勤め人、マレーシア人旅行者、外国人旅行者がぞろぞろと夜市街をぶらつき、路上の屋台で食事している。もっともどこもHalal料理ではないので、食事客にマレー人はまずいない。Petaling通りの屋台には外国人の姿が見られない替わりに、 Hang Lekir通りの路上のレストランは外国人が多いなど、”すみわけ”ができています。

90年代後半から物売り屋台街では歌謡、映画、ソフトウエアを3本柱にした違法コピーCD、VCD売り屋台が、他品種の物売り屋台を圧倒するようになり、これがますます客を引きつけてもきた。まあ違法コピー版・品はCD、VCDに限りませんが、その数と種類の多さは他の偽ブランドアクセサリーや偽ブランド時計売りの屋台を圧倒しているかに見えます。違法コピー版が絶対にいけないとはいいませんが、VCDとCDという単品目に固まりすぎるのは街の屋台構成からいってちょっと残念に思います。さらに違法コピーCD、VCD売り屋台で働く若者らの横柄な態度が目につきます、彼らは当局の取締り部隊と日々いたちごっこを繰り返していますが、道のど真ん中や歩道の入り口で通せんぼするかのように品並べ台を出して商うその横柄な商売スタイルは、背後に控えるギャング組織の存在を推測させます。

チャイナタウンの目印の一つであり、クアラルンプールに最後まで残っていた単館興業映画館のREXが、ついにその幕を11月中旬閉じました。違法コピー映画VCDの氾濫によってその落日は長く続いていましたが、ついに廃業となりました。廃館直前まで長年この映画館で頻繁に映画を見てきた映画ファンの筆者には非常に残念なできごとでした。

なぜ一見して旅行者はチョーキットにやってこないのか

その答えは、基本的に欧米の白人も日本人も台湾や香港からのアジア人も、泥臭いマレーらしさに強い興味を感じないからです。チョーキットにはしゃれたカフェもオープンレストランも1軒もない。飲食店としてはほとんどが屋台か大衆食堂であり、その多数はマレー料理かインドネシア料理またはマレー風タイ料理です。ただ華人大衆食堂・屋台はHaji Taib地区に結構あり且つチョーキット市場内にも多少ある。これらの屋台と大衆食堂のどこも外国人向けに英語のメニューを置いてあるような店はない(はず)。

小型のショッピングセンターはあります。内部はたいへんごちゃごちゃしており、スーパーも入居していますが、ブキットビンタン街のLOT10にあるIsetanやSungei Wan PlazaのTopsみたいに高級感を供えていない。クアラルンプール有数の古さと規模を持つチョーキット市場は品の豊富さと人ごみに驚くが、その雑然さと猥雑な雰囲気と暑気に上品な旅行者はまず足を踏み入れられない。

そしてチョーキット界隈の中で最も偏見が取り巻くHaji Taib通り一帯の悪評とうわさに、マレーシア人自身が外国人に対してチョーキットを観光地として勧めない。クアラルンプールの5星、4星、3星級ホテルでフロントなどの従業員に、旅行者がチョーキットへ行きたいがと尋ねたら、恐らくほとんどはお勧めしない意味合いの返事が返ってくることだろう、と推測します。さらにダマンサラ、バンサ、スバンジャヤ、モンキアラなどといった高級中級居住地区に住む中流マレーシア人も、チョーキットをまずお勧めしないでしょう。彼ら自身チョーキット界隈を突き抜ける大通りのTuank Abudul Rahman通りを、自家用車で何回も通りすぎたことはあっても、その車を降りてまたはバスでやって来て、じっくりチョーキットを歩いたことなどほとんどないはずだ、と筆者は断言します。
つまりマレーシア人自身でさえ偏見と先入観でチョーキットを捉えているのです。そうでなければ、クアラルンプール内外のマレーシア人なら誰でも知っているほど有名で且つ繁華街として代表的なチョーキットを、一見して旅行者風の外国人がなぜこれほど訪れないかの説明がつかない。

筆者はマレーシアに長く住むことにつながったサラリーマン時代の90年代初期の約半年間、チョーキットの市場近くのエコノミーホテルにずっと滞在した。この猥雑な地域を自分で選んで、朝晩チョーキット界隈で食事し、何十回も夜歩きした。筆者のマレーシアにおける基礎の一部を取得した街でもある。チョーキットを離れてからはチョーキット界隈との縁は薄くなったが決して切れていない。その後は筆者は下町の華人街に定住して、どちらかといえば華人街の方がお気に入りであり、特にマレー・インドネシア人街が好みではない。しかしチョーキットの猥雑さとそのマレー・インドネシアさは時に私をふらっと寄ってぶらつかせる気分にさせる。

翻って一般旅行者を眺めてみると、適度にきれいでちょっと高級そうでハイセンスな街、つまりブキットビンタン界隈、或いはごちゃごちゃと猥雑だが外国人を好んで相手にしてくれる華人主体の界隈、つまりチャイナタウン、こういう場所を人々はやはり好むのだ。旅行者はエキゾチックな雰囲気は好むが異国環境そのものとか民族性丸だしは好まない。これはタイのプーケットでもインドネシアのバリでも同じですね。旅行者は同じ外国人旅行者の姿がないと不安になる、外国人をおだてたり、好んで相手してくれない街は敬遠して、外国人のたむろする街に集まりたがる(バンコクのカオザンやペナン島のペナン通りやチュリア通りを見ればよくわかりますね)。こうしてチョーキット界隈は昔も今も、一見して旅行者からは興味を持たれず、マレーシア人は旅行者に勧めず、ガイドブックは危なさを強調して旅行者の足をより遠のかせる。結果として旅行者は一向にチョーキットを訪れないし、訪れようとしないのです。

注:ある例を書けば、筆者が以前関わったあるガイドブックでチョーキットを他の繁華街並に扱おうとしたが、最初に編集者から抵抗が出た。最終的には調子を落して載せました。

こうして、ラマダン月に歩いたクアラルンプールの3大繁華界隈で、最も多くのラマダンバザールが出てムスリムで混んでいたいかにもマレーらしい街が、予想通り最も外国人旅行者の少ない界隈でした。



土曜の夜、クアラルンプール中心部で開催された2つのコンサートで感じたこと


ことのいきさつ

10月26日土曜日の夜、クアラルンプールの中心部で開催された2つのコンサート現場を筆者は訪れました。その対照的な様子とそこに集まった人々の顔ぶれにマレーシアらしさをまざまざと感じたのです。一つはMerdekaスタジアムでのインドネシア歌手によるkonsert Serumpun、もう一つはMerdeka広場でのKRUによる"Empayar Krujaan Concert 2002"です。両方とも夜8時半開始と書かれていました。

新聞のお知らせ記事を読んで、この2つのコンサートに興味を持った筆者は両方訪れるべく家を出ました。Merdekaスタジアムを埋めるほどたくさんのインドネシアダンドゥットのファンがいるのだろうか?観客のほとんどはインドネシア人労働者だろうか? マレー人ファンがどれぐらい集まるのだろうか?などの興味もあったし、滅多にない機会であるプロのダンドゥット歌手の歌声も聞きたいと思いました。
独立広場で開かれるKRUのコンサートは、グループの人気とその好場所から多くの人々でまず舞台にはとても近づけないのだろうな、と予想していました。

切符販売窓口は全然混んでいなかった

さて筆者がチャイナタウンからちょっと外れた位置にあるMerdekaスタジアム前に徒歩到着したのは9時少し前、どうせ時間通りに始まることはないだろうと思ったとおり、スタジアムの入り口には関係者と見物客が三々五々ぶらぶらしています。さらに警備らしき警官が4、5人立っていました。切符販売窓口で切符を求めて会場のスタジアム内に入っていく者が時々いますが、窓口が混雑しているなどということはまったくありません。スタジアムの壁に掲げた数枚の小さな横幕広告には"Konsert Serumpun Indonesai" と書いてあります。これはインドネシアの同族の人々のコンサート とでもいう意味でしょう。

スタジアム外壁に数カ所貼られたポスターに載っていた顔写真と名前から、出演歌手はいずれもインドネシアからの女性ダンドゥット歌手5名です:Rita Sugiarto, Cici Faramida, Vety Fera, Conny Nurlita, Minel Sudarwatiningsih 。もちろん筆者は誰も知りませんが、そんなことはどうでもいいのです。実質的にはインドネシアダンドゥット・コンサートということなのでしょう。だからタイトルにIndonesiaと添え書きしてあったのでしょう。ただ主催はマレーシアの会社です。

マレー人も結構見かけたが多数はインドネシア人だろう

で筆者の興味の一つはどれくらいマレ−人観客が集まるのだろうということでしたが、正確にはわかりません。というのは、会場内つまりスタジアム内部に入るには当然入場料を払わなければなりませから、それが払えない筆者は会場外で観察するしかなかったからです。入り口近くでぶらついている者や切符を買って会場内に入って行く者の姿から判断して、それなりにマレー人もいるようです。

彼らの身につけている衣服のスタイルと体つきと振るまいから、筆者は相当程度インドネシア人かマレー人かは判断できます。もちろん彼らの話し声を聞けば90%以上は区別できます。こうしたことから判断して、それなりのマレー人観客も筆者の到着前にすでに会場内部に入っていったことでしょう。あくまでも単なる推定ですが、観客の多数はインドネシア人ではないかと思いました。

Intraasia注:インドネシア人をはじめとして外国人労働者は街を警らする警官の尋問対象にしょっちゅうなる。バイクに相乗りして警ら中または徒歩で警ら中の警官がインドネシア人を見止めて、彼らの身分証明証をチェックしている光景をよく見かける。特にインドネシア人の集まってくるチョーキットのような地区では日常茶飯事です。つまり警官は彼らの外観からすぐインドネシア人だと見分けがつくからできるわけです。そうでなければ滅多やたらに通行人を停めてチェックしなければならないことになる。マレーシアでは道路の一斉交通検問と重大犯罪時の一斉検問は別として、歩道やショッピングセンターなどでの無差別一斉検問はほとんど行われません。

もちろんそのほとんどが外国人労働者としてマレーシアに在住している者たちですね。土曜日の夜ということで仕事現場は休み、そこで彼女だろうか妻だろうか、いっしょにスタジアムに入っていく姿もありました。しかしスタジアム前の壁付近にたたずむのは若い男ばかリであり、切符を買って中に入っていく客も数からいえば男が圧倒的に目立ちます。インドネシア人女性も何十万とマレーシアで働いていますが、やはりこいう催し物に出かけて行くのは男性が圧倒的に多いということを実感しました。

尚華人は物売り商売人と主催者の関係者らしきの5、6人を除いて、全く見かけませんでした。華人がこういう場に現れることがないのは当然すぎるほどのことですから、不思議ではありません。その他インドネシア人でない外国人労働者らしきもいくらかスタジアム前にうろついていましたが、数からいえば取るに足らない数ですね。

ダンドゥットはマレー歌謡界の主流ではない

ダンドゥットはマレーシアでもマレー人にはそれなりに人気ある歌謡でしょうが、マレー歌謡の主流ではまったくありません。ミュージックショップにはもちろん並んでいますが、例えばマレーラジオNo1局のERAで明らかなダンドゥット曲がかかったような記憶はまずない。私はDangdutといえばやはりインドネシアが本場と感じます。ですからまたとない機会ですので、その歌声と乗りのいいリズムに是非接したかったのですが、いかんせん入場料のRM35は私には高すぎる。そこでスタジアムなのでその歌声が当然外に漏れるだろうから、多少は聞いてみようと思ったのです(我ながらみじめだなあ)。多分同じことを狙っていたであろう、数十人の男たちがスタジオの汚い壁の脇に腰を下ろしていたので、コンサート開始を待っているように見えました。

そこで筆者はスタジアム外で人々を観察しながら始まるのを待っていたのですが、いつまでたっても始まる様子がない。仕方ないとあきらめて9時半過ぎ、Merdekaスタジアムを後にしました。こういう催しはまこと時間にいい加減な例ですね。

チャイナタウンの小さな一画にある通称文化街

Merdekaスタジアムと次ぎのコンサート会場であるMerdeka広場は、チャイナタウンの淵を横切って歩くと徒歩15分ほど離れています。筆者はチャイナタウンのはずれに位置する通称文化街を通り抜けましたが、通りすがりに目に入った音楽喫茶店内と音楽パブ店内と、路上の屋台は華人で埋まっていました。土曜の夜だからでしょう。外国人観光客がたくさんぶらつくチャイナタウンの屋台街及び店の外にテーブルを出して商売している中国料理店のある通りとは全く雰囲気の違うのが、この”文化街”です。物売り夜店は1軒もなく、地元アマチュア華人歌手の生演奏を売り物にした喫茶とパブ、ニョナレストラン、華文書籍専門書店などがあるのです。ただ文化街という呼び名がはずかしいほどの数の店舗しかないのは残念なところです。

セントラルマーケット脇を通りぬける

その華人客集合地域であるごく短い文化街を過ぎ、しばらく行くとセントラルマーケットに出ます。この一帯になるとが然とマレー人主体の街になります。セントラルマーケット内部とその隣接した歩行者通りはマレー人が多く、多くの自由旅行観光客の立ち寄る場所ですね。しかし団体バスの客はまずほとんど見かけません。ツアー催行者にコミッションが入らないからだろうか? 残念な慣行ですね。
セントラルマーケットを過ぎる頃から人通りがぐっと多くなり、独立広場に通じる通りに出ると人の行き来がより増しました。これから独立広場付近へと向かう人と、もう行って来た人なのでしょう。独立広場に面したSultan Abdul Samad ビルに近づくに連れて、広場のコンサート会場からの響きがだんだんと聞こえてきました。

2つの場所は”独立”にちなんだ名前がついている

MerdekaスタジアムもMerdeka広場もその名に”Merdeka”つまり独立という名前がついています。歴史的には、独立当時独立宣言の式典が開かれたMerdekaスタジアムの方がより歴史的由緒ある場所でしょうが、現在では、8月31日の独立記念日の会場であることをはじめとして、様々な国家行事はこのMerdeka広場を主会場として開催されています。政府の指導者らがこの広場の特設会場で国民のパレードや催しを閲覧するのは年に何回もあります。つまり政治広報的に最も重要な場所なのです。そのためマレーシアを紹介するほとんどの公式パンフレット、ガイド書類にはこの場の写真が載っていますね。たいへんよく手入れされた芝生の敷き詰められた広場と高さ100mの国旗掲揚塔とJalan Raja通りをはさんで広場に面した瀟洒な歴史建造建物であるSultan Abdul Samad ビルの3つが三位一体になった写真は、もっとも多くの人の目に触れるマレーシアの姿ではないでしょうか。

なお筆者の知る限りMerdekaスタジアムで国家的催し物が開催されるとこはまずないはずで、マレーシアサッカーリーグの試合が定期的に行われている以外は、時にマレーシア公演を行う外国人有名歌手のコンサート会場にもなりますが、稼働率は低いはずです。この場所は市内中心部とは言えバスなどの便が不便で、且つスタジアムの外観はあまりよく手入れされているとは思えません(内部は知りません)。

注:KerdekaスタジアムはPNBが所有はしているが、現在しっかしりた管理者(社)がいない状態なので、マレーシアサッカー協会はその運営を引き取ると決めたという、ニュースが10月30日現れました。


有名ボーカルグループKRUのこと

さてその権威ある且つもっとも有名な場所で、その夜無料コンサートを開いたのが、マレー歌謡界の有名な兄弟3人組みボーカルグループのKRUです。筆者はマレーラジオでマレー歌謡はほぼ毎日ぐらい聞いているので、マレー歌謡界の歌手、グループ名や曲の感じは知っていますが、特にマレー歌謡ファンではありませので、詳しいことは知りません。

そこで新聞の記事を抜書きすれば、1992年にデビューしたKRUは今年10周年なので、その記念コンサート"Empayar Krujaan Concert 2002"を各地で行いました。その記念コンサートの最終回を首都の有名場所で行う、それも無料にしてより多くの観衆に楽しんでもらうという趣旨だそうです。このコンサートのスポンサーは国産軽自動車メーカーのPeroduaです。さらにKRUは10周年記念のアルバム"Empayar Krujaan V2.0" をつい最近発売したとのことです。
その夜のコンサートにはPretty Ugly とPhyne Ballerzの2つのグループ及び多分KRUお抱えと思われるバックアップダンサーズ2組も出演するとありました。

KRUはボーカルグループとしての成功だけでなく、自身でプロダクションを設立して何人・何組かの人気あるマレー歌手・マレーグループを擁していますね。筆者も知らなかったのですが、最近ではテレビ番組のショーの共同製作にも手を伸ばしているとのことです。KRUは単なるボーカルグループでなく芸能企業家としての面も備えた実力グループですね。だから10年間トップクラスの地位を守ってきたのでしょう。特にKRUファンでない筆者ですが、ラジオから流れてくる彼らの乗りのいい曲、ラップソングというそうですが、はいいなと感じます。最近ではマハグルとかいうヒット曲がよくラジオで流れています。

KRUにさらに触れておけば、兄弟の長男はマレー与党UMNOの党員であり、マレー音楽界の実力者的活動もしているように思えます(あくまでも部外者の感じる印象として)。だからこういう特等場所でのコンサート会場許可も得られたかもしれないなと、筆者は思いました。なぜなら、人気あるとはいえ他の1マレー歌手や1グループがMerdeka広場を借りきっての単独コンサート開催はまず無理ではないでしょうか。何々祭りという名目で多くの歌手・グループの無料コンサートが行われることはあります。
次男はこのところマレー映画に続けて2本出演しており、マレー芸能界の人気者だそうです。3男は兄弟中の唯一の既婚者です、筆者はそれ以上のことは知りません。

Merdeka広場はまこと良い場所である

さて広場の端に設けられた大きなステージではKRUの歌唱活動がバックダンサーを従えてずっと続いています。舞台付近はとっくに観衆で埋まっており、近づくことはまったくできませんから、舞台上の人間は単に形がわかる程度にしか見えません。そこで広場の中間から後方の観衆は、舞台横に数カ所設置された大きなスクリーンを交互に眺めています。大音響は広場一杯に広がっています。

広大な芝生広場の3分の2は観衆で埋まっています。さらに広場に隣接したJalan Raja通りでは実に多くの観衆が地面に座り込んで、大音響の音楽を聴きながら、連れと話したりぼんやりとたたずんでいます。Merdeka広場は通常は立ち入り禁止ですが、このような催しがある時のみ立ち入りが許可されます。またJalan Raja通りは毎週土曜日の夜は通行止めの歩行者天国になります。広場で何の催しもない土曜日の夜は広場回りにばらばらと人が集まって来て、夜涼みなどをして時間を過ごしています。土曜日夜のMerdeka広場周辺は、家族連れだけでなくマレーカップル中心のデートスポットでもあります。しかしその夜は恐らく万を越えるであろう観衆が広場とJalan Raja通りを埋め、ある者は立ちある者は地面に腰を下ろしていました。KRUは「Merdeka広場を選んだのは好場所であることと、何千人ものファンを呼べるからです」と説明していたとのことです。

集まった観衆は圧倒的にマレー人が占める

確かにその通り、人が集まりやすく且つ憩いしやすい場所がMerdeka広場なのです。ですから、その夜広場付近に集まった万を超えるであろう人々のすべてがKRUのコンサート目的に来たとはいえないでしょうが、無料だし散歩や憩いを兼ねてひとつ行ってみようか、という人々も多かったことでしょう。家族連れは多くなく若者が圧倒的に多いのは、歌謡ファンの層を示していますね。でその場所に集まった観衆は、意識的に集まった非意識的に集まったに関わらず、マレー人が圧倒的に多い、間違いなく9割以上がマレー人です。インド人や外国人労働者らしき、観光客風の外国人もぱらぱら見かけましたが、そのマレー人の比率の高さは特筆ものですね。一方見かけるのが珍しいほどごくごく少ないのが華人の姿です。一体華人はどこにいるのだろう? 普段でもMerdeka広場で行われるイベントに華人の姿は少ないのですが、その夜は私的なマレーコンサートであり、公的なイベントでありません。だからこそ華人には興味がまったく湧かないということでしょう。

ここに典型的に見られるのが、民族による嗜好の違いという現実です。これが意味するのは、マレー人が華人をあまり好まないとか、華人がマレー人イベントを敬遠するといううがった見方よりも、純粋に互いに嗜好が合わないということでしょう。マレーシアをよく知らない旅行者がその夜のコンサート会場を眺めれば、マレー人ばかりで華人とインド人はクアラルンプールにはほとんどいないかのように感じることでしょう。しかしもちろん実際はそうではなく、彼らは単純にMerdeka広場まで足を運ぶ気がない、興味が湧いてこないのです。その証拠に、例えばブキットビンタン街へ行けば各民族の姿はもっと混在しており、さらに華人地区へ行けば土曜日の夜だけでなく普通の日の夜も多くの華人が夜遅くまでうろついています。

なんとマレーシア的

コンサートの舞台から大音響で流れてくる音楽を聞きながらMerdeka広場とJalan Raja通りを埋めるマレー人の姿と顔を眺めていると、つくづくとマレー民族主体の多民族国家マレーシアの”マレーシアらしさ”を感じます。筆者は30分ほど広場で大音響の歌声を聴きながら広場内外の人々を眺めていました、その後広場をゆっくり離れて、LRT高架電車駅に向かいました。その途中Lorong Tuanku Abdul Rahman路地の入り口をちょっと覗いたら、ヒンズー教祭典デーパーバリ用の買い物客であろうたくさんの人の群れが目に入りました。

その夜Merdekaスタジアム、文化街、Merdeka広場、Lorong Tuanku Abdul Rahman路地、その夜それぞれの地に集まっていた顔ぶれの主体はすべて違うのです、なんとマレーシア的なんだろうか!



ハリラヤ時にマレー地区を歩いた、地方の町を訪れた、その光景を語る


今年のハリラヤはマレー居住地区とクアラルンプールから少し離れた地方を歩いてみようと思いました。そこで初日の6日はクアラルンプール市内のマレー地区を歩き、2日目はスランゴール州のはずれまでバスを乗り継いで出かけました。

最も知られた伝統あるマレー地区

6日訪れたのはまずクアラルンプールのマレー地区として最も有名で由緒あるKampung Baruです、 その後Kampung Dato Keramat地区へバスで移動しました。

注:ここでいう kampung は田舎・村という意味ではなく、ある民族がまとまって住む地区のことです

昼少し前Putraline電車に乗ってKampung Baru駅で下車、車内は恐らくKLCCへ行く客で満員でしたが、Kampung Baru駅で降りるのは地元のマレー人ぐらいです。この駅は地下駅ですが、地上に出ればすぐペトロナスツインタワーなどの近代的なビル郡がまじかに眼に入ります。Kampung Baruの端あたりに位置するこの駅の場所からKLCCまでは、直線距離なら多分数百メートルしかないでしょう。Kampung Baruには高層建築物は一切ないので、KLCCとの対比が面白いのですが、そういった開発を呼ばないまたはさせないところがKampung BaruのKampung Baruたるところでしょう。

カンポンバルはたいへん静かだった

ハリラヤ前日までは午後から夜遅くまでさぞにぎやかであっただろうラマダンバザールと大衆食堂は見事に全部閉まっています。バザールのテント後だけ残っています。筆者はこれまでにもKampung Baruは何回も歩いていますので地理はわかりますが、細かい路地全部まではもちろん知りません。とりあえずKampung Baruの主たる道路をしばらく歩きましたが、まこと静かである。道歩く人は少ないがいる、男性がマレー正装であるBaju Melayu姿であるのがハリラヤらしいが、女性はいつものBaju Kurung かKebaya 姿だから、例えそれがハリラヤ用にあつらえたものであっても他人からはわからない場合もでてきます。ハリラヤであるのはさらに、小グループで固まって歩いている小学生から中学生くらいの子供がBaju Melayu姿であることからも感じます。

マレー家屋の前に駐車している数と入り口に並ぶ履物の多さに、多分親戚や友人がハリラヤ祝いに訪ねてきたのであろうと推測するしかない。こうしてきょろきょろしながらずっと歩いてみた。それにしても街自体が静かである。途中で唯一店を開いていた屋台式の小さな雑貨屋で、Kampung Baruのどこかでオープンハウスありませんか、と尋ねたが、”tak tahu”(知らないよ)といういつもの返事が帰ってきた。マレー人の発する”tak tahu”とは否定の意味が強いので、つまりないということなのでしょう。ひょっとしたら小さなオープンハウスがあるかもという筆者の淡い期待は、まあこの質問をする前に歩き回った感じから分かってはいたのだが、やはり単なる希望にすぎなかった。

飲食店・屋台という店・屋台は全部閉まっている。この点は筆者の居住する華人地区とは大違いである。Kampung Baruはマレー地区なのだから、開いていると期待してはいけない、それが当然なのです。Kampung Baruの有名で由緒あるモスクも外から覗いた限り、金曜日の礼拝には時間が早かったからであろう (12時過ぎであった)、がらんとしていました。

こうして、もっと正装したマレー人がぞろぞろと歩いているだろうとの期待が見事に外れたKampung Baruを後にしました。思いのほか静かであった理由は訪れた時間がちょっと遅かったからかもしれません。もう少し早い朝のうちだったら多少状況は違っていたかもしれない、がそれでも道路に人が絶えないような光景はありえないだろう。

さて5分ほど歩けばチョーキット界隈の入り口です。よく知られたパキスタン・モスク付近は人はまばら、屋台も全部閉まっている。チョーキット界隈中心部に入るとようやく、人の往来がある。テント張りのラマダンバザールも店を開けているのは、サテ屋1軒と海賊版VCD屋ぐらいであった。市場前の大衆食堂は数少なく営業していたので、マレー人かインドネシア人に間違いないと思われる客で混んでいた。昼食場所を探してチョーキット市場併設の華人屋台コーナーへものすごく久しぶりに行ってみたら、数軒が営業していた。「ラッキー」と早速昼食にしたのです。

軍隊基地もあるダトゥクラマット地区

その後別のマレー地区へ行こうと、チョーキット界隈対面のバス停でバスを待ちながら考えました。マレー地区ならどこでもよかったので、やって来たバスでKampung Dato Keramat地区へ向かったのです。Kampung Dato Keramat地区は軍隊の駐屯基地、警察学校・訓練所、UTM大学などがありますが、それ以外は一般的居住地域です。軍隊と警察の施設とマレー居住区という組み合わせから完璧に近いマレー地区といえるかもしれません。尚Kampung Dato Keramat地区はクアラルンプールのはずれに位置しスランゴール州に接しています。

Dato Keramat地区の多分中心地ぐらいでしょう、モスクのそばでバスを降りて歩きはじめました。午後1時半頃だったのでモスクは外から見ただけでわかるほど多くの信者で一杯でした。ハリラヤなので一瞬その日が金曜日であることを忘れていましたが、そうです金曜日の礼拝のために地区のムスリムは集まってきているのです。しばらくモスク内を眺めていました、この時間になってもまだぼつぼつとやって来るムスリムがいます。モスク前の道路に停めた車の何台かの車中では、モスク内で祈っている男たちの家族であろう女性が所在なげに待っていました。ハリラヤなので何か特別の講話でもあるのだろうかと、拡声器を通して外に響くImamの声に聞き耳をたててみましたが、アラビア語文句を混ぜた難しいマレーシア語で詳しい内容などとてもわかりません。

バス窓から眺めた光景も、このモスクから離れて歩き出した地区の光景もまこと静かなという形容がふさわしい状況です。Dato Keramat地区は通常の日の午後であれば、多くの車がうるさく行き交い、人の往来もある地区なのです。その静けさは金曜日の礼拝時間だったからだろうか、それとも都市のマレー地区のハリラヤ日の午後とはこれが当たり前の光景なのかもしれません。そこからLRT高架電車のJelatek駅まできょろきょろしながら歩いて見ましたが、ここでもハリラヤ用に着飾った男女の姿は全くといっていいほど見かけなかったのです。最初バスを待ったのですが、全然来ない、そこでバスをあきらめ高架電車に乗りクアラルンプール中心部に戻りました。

1日中車の騒音と排気ガスに包まれた一画

クアラルンプールのJalanSilang (シラン通り)はチャイナタウンからほど近く且つセントラルマーケットから徒歩数分ほど離れた位置にあり、よく知られた古いKotarayaショッピングセンターの裏側に出るごく短い狭い通りです。セントラルマーケット付近には実に多くの市内バスと近郊バスが集まってきます。この狭い一帯に忙しいバス発着所が5、6箇所存在します。その発着所に集まるバスの大多数が通る通りがこの JalanSilang (シラン通り)なのです。そのためごく短い狭い通りながら朝から晩まで常にバスを主体とした車で混雑しており、夕方のラッシュ時など数珠つなぎがしょっちゅう起きます。

でこのハリラヤ初日、筆者はクアラルンプール有数のマレー地区2箇所を歩き回った後、高架電車のMasjid Jamek 駅に戻り、徒歩でこのシラン通りにやってきました。それは筆者の居住地区を通る Intrakotaバスが発着するバス発着場がこの通りの外れにあるからです。

その一画に外国人労働者向けのよろず屋が集まっている

さてこのJalanSilang (シラン通り)に足を踏み入れたとたんびっくりしました。それは通りの中心の両側歩道とさらに車道の半分くらいまでを、ものすごい数の男集団が占領していたからです。この通りに面した建物はすべて古いビルであり、いずれも商店街、大衆食堂、安宿などに用いられれていますが、通りのいくつかのビルとシラン通りに交差する2本の通りにあるビルには、外国人労働者向けのよろず屋が何軒もあって、いわば外国人労働者向けよろず屋の集中地帯です。バングラデシュ人向けの店が2軒、ミャンマー人向けの店が3、4軒、そしてまだできて新しいはずのネパール人向けの店が2軒あります。店数はたまに変化しており、バングラデシュ人自体が減ったからでしょう、バングラデシュ人相手の店でもネパール語カセットなども扱っています。地上階の店もあれば2階または3階に構えた店もある。

注:ネパール語はバングラデシュの国語ベンガル語とは語派も違う別の言語であるが、文字はヒンディー語にも用いられているデヴナグリー文字を使用している。そのためどちらかの言語に多少通じていないと見分けがつかないはずです。筆者はどちらの言語も習ったことはありませんが、調べたところベンガル語とわかりました。さらにネパール語看板の店に気がついたのは最近です。
A言語とB言語が共通のある文字を使用しているからといって、この両言語間に直接的因果関係はない。例をあげれば、日本語と漢語(中国語)は系統的に全く関係ない言語だが、日本語が漢字と語彙を取りいれたことから、言語学に通じてない人は両言語に関係があるのではと考えがちですが、それは違うのです。


店はどこもそれぞれの国の人間が運営しているようにみえます、ただ持ち主なり名義人は地元人かもしれませんが、そこまではわかりません。看板はベンガル語またはネパール語、ビルマ語で書かれているので意味はわかりませんが、筆者は文字識別できるので、その店が何人向けかはわかります。これまで何回か足を踏み入れて内部見学したことがありますが、その国製の日常品、食品、雑誌新聞、カセットとCDなどがたくさん並べてあります。外国人労働者の文化、言語、慣習などに全く興味を示さないマレーシア人はまったくこういう店には出入りしませんし、その存在を知っている人はごくわずかでしょう。

千人をはるかに超えるネパール人が集まっていた

通常のこの一角は日曜日に彼らが集まってきてたいへんにぎやかになることは何回も遭遇して知っていましたが、この日の人の多さは異常でした。人を掻き分けないと歩けないほどの多人数です、それも全て男性。顔と身なりから判断してバングラデシュ人とミャンマー人とネパール人が混じっているのかと思い、しばらく立ち止まって眺めていました。しかしどうもバングラデシュ人ではなさそうに感じ、何人か判断できなかったので、近くの4、5人連れにマレーシア語で尋ねたところ、ネパール人だとの返事です。さらに、全部ネパール人なのかとの私の質問に、彼はそうだと答えたのです。これには驚きました。千人をはるかに超すでしょう。更にやって来る者もいれば、立ち去って行く者もいますから、この日この一角に集まったネパール人は数千人に達するのではないだろうか。

マレーシアにおける外国人労働者としてのネパール人は、大グループではありません。インドネシア人が圧倒的多数を占め、バングラデシュ人、タイ人が第2グループでしょう。そして第3グループがネパール人やミャンマー人ではなかったかな。ただ今年前半政府はインドネシア人への依存率を減らすことを決め、それ以来外国人労働者のより多国化を計っていることから、現在ではネパール人やベトナム人やミャンマー人が以前より相当増えたはずです。

ハリラヤ連休で工場や町工場、ビルの清掃現場、プランテーション農園が休みのため、外国人労働者が、どこにでもというのではなく決まった場所ですが、通常よりぐっと目立ちます。それにしてもネパール人がこれほど多数1箇所に集まってくるとは驚きました。私は念を押そうと、別の男子2人組みにも同じ質問を尋ねてみましたが、答えは同じでした。彼らのマレーシア語が不充分なことがその口調から分かったので、話しがそれ以上進まないのが残念でした。

彼らはこういうまとまった休日でもないと多くの仲間と会う機会が見出せないことでしょう。結構遠くからも来ていたに違いありません。何を話しているのやら、筆者は30分ほどその場に立ち止まって眺めていましたが、一向に集団の輪は減りませんでした。
マレーシアのハリラヤ祝祭の話題にはほとんどならない、外国人労働者のハリラヤ休日の過ごし方を見事に示してくれた出来事でした。


クランバスステーションの乗客に社会階層を見る

ハリラヤ2日目はクアラルンプールを離れてスランゴール州内の地方町を訪れてみようと決めていたので、朝早速クランバスステーションからバスでKlang へ向かいました。Klang方面のバスは複数のバス会社によって便数が非常に多く、例えあるバスが満席でも次ぎのバスまたは他社のバスがすぐやって来るので、多少待てば必ず乗れます。ただ、排気ガスが充満しうるさいエンジン音に包まれた暗いプラットフォームは、いつもながらの場末のバスターミナルのイメージはぬぐえません。バスが満席になって発車になるまで暗い座席でしばらく待つ間、乗客の顔ぶれを見ていると、こういうバスの乗客の顔ぶれの主対象がよくわかります。いうまでもなく車の持てないいかにも低所得者層の人々と学生風の若者、そして外国人労働者ですね。ハリラヤで工場や農園が休みだからでしょう、男性外国人労働者風が目立ちます。

その時制服警官が1人乗り込んできて、暗いバス車内の後方座席で男性外国人労働者風を尋問、その後3人を車外へ連れだし、改めて身分証明証をチェックしました。2人は無事車内に戻りましたが、警官は残った1人を連れて去りました。もちろん見ている者にはその理由はわかりませんが、身分証明証または外国人労働者であることを示す証明証が怪しかったのか、期限切れなのか、大体そんなところでしょう。。一般に警察の外国人労働者風に対する路上尋問は日常茶飯事です。ハリラヤで外国人労働者の利用度がぐっと高くなっているであろう近郊バスターミナルは尋問には好都合の場所かもしれません。

いつもと変わらないクランのバス乗降場の雑然さと無秩序さ

さてKelangに着きました。次ぎに向かうつもりの Banting行きのバス乗り場はここだろうと待っていました。その場、つまりバス乗降場に面した飲食店や販売店は3分の2以上は閉まっていましたが、開いている店はどこも満員に見えます。歩道に散らかったゴミとゴミ箱からはみ出して周囲に散らかった多量のゴミの臭気が暑気に漂います。いつもの雑然としたKlang のバス乗降場の雰囲気はハリラヤであれ特に変わっているようには感じられません。バス待つ人々の服装に如何にも新しそうに見えるBaju Kurungやマレー男性正装の Baju Melayu姿が全くありません、普段着と変わらないのです。何よりもバス待ち客の3分の1ぐらいは外国人労働者風に見えるのです。

外国人労働者にとって唯一の安価な交通手段は、電車路線はごく限られていますから、必然的に乗り合いバスということになります、(クアラルンプールからKlangまでバス運賃はRM2.5)。彼らは自動車はもちろんバイクにも乗れない、その最大の理由は自動車免許がない、取得できないということでしょう。外国人労働者でも小型バイクであれば決して買えない物ではないでしょうが、いかんせん外国人労働者の立場では免許が容易には取得できないのです。

だから普段でも日曜日などはバス路線によりますが、外国人労働者の姿が目立ちます。国家有数の連続祝祭日であるこのハリラヤの初日もそうでしたが、2日目筆者の立ち寄ったバス乗降場と乗ったバスはどれもたいへん外国人労働者の姿が目だったのです。筆者の行く方面であるBanting表示したバスがまもなくやって来ました。我先に争って乗り口に殺到し押し合いへし合いで乗らざるをえません。祝日の移動でさえ車のない貧乏人たちは(筆者も含まれる)こうしてバス乗りにエネルギーを費やします。

バンティンの町にハリラヤ気分はほとんど感じられない

Banting はスランゴール州の西南部の群であるHulu Langat地方の中心町、特に何があるという町ではない(はずです)。筆者が訪れる理由に特にこの町でなければならない理由はまったくなく、クアラルンプールからずっと離れた位置にある町だから程度の理由でした。Klangからバスに乗って約1時間20分で着いた町はまさに地方のありきたりの中程度の町に見えました。はるか昔通りすぎたことはあったはずだが、記憶にない。多少ぶらついて見たが、店の半数ぐらいは閉まっているが、ハリラヤということを知らなければ通常の日曜日と勘違いして、それに気がつかないのではないだろうかと思いました。町のバスターミナルに隣接したマレー大衆食堂街でムスリムが飲食していた光景を見て、ああラマダン月は終ったなと実感する程度で、町の中心部にハリラヤの雰囲気はほとんど感じられません。通常こういう規模の町の商店街や飲食店は華人コミュニティー中心なので、感じられないのも無理はないでしょう。

注:基本的に、マレーカンポン(村)へ行けばハリラヤらしさはいくらか味わえるだろうとは分かっていました。車があれば村へは比較的容易に到達できますが、バスだと街道の停留所で適当に降りて村まで歩かなければならないので、それほど簡単ではありません。この日はあまり時間に余裕もなかったので、バス車窓から見るという安易な方法を試みました


モリブ海岸でバスを降りていったバングラデシュ人の一群

さて、お昼も過ぎていたので、開いていた華人大衆食堂で昼食にしました。華人町はこういう点では便利なのです。ターミナルと呼ぶほどの規模ではないバス乗降場に戻って、次ぎはどこへ行こうかなと考えた。乗降場の屋根付き待合コーナーのイスはほとんど埋っている。そのほとんどはマレー人とインド人である。どこへいこうかと迷ったが結局、以前別ルートで行ったことのある、スランゴール州最南端の田舎町Sungai Pelikに行こうと決めた。Sungai Pelikまでは手元の簡易地図を見れば、多少内陸部にあるBanting からまず西行きし、そして海岸沿いを南下する道路である。これならKampung風景も車窓から眺められるであろし、海岸線を走るだろうからマラッカ海峡も見えるはずだと思ったのです。

しばらく待つとやって来た、オンボロとはいえないが充分古くなったSepangバスに乗り込む、もちろん冷房バスではない。地方の町からさらに小さな町へ向かうルートだからなのであろう、乗客はまばらである。こういう田舎バスに揺られて車窓の景色を眺めるのは楽しいものである。発車してまもなく外国人労働者風の男の一群が乗り込んできて、その内1人が筆者の隣座席に座った。手にした薄っぺらい本を読み出したので、確認を兼ねて尋ねたらバングラデシュ人であった。

バスルート沿線の居住地にでも戻るのかなと思っていたら、道路が海岸線に出た所にあるMoribで皆バスを降りて行ったのである。ああ、休みなので海水浴地で知られたMoribに行くんだなとわかった。Morib はこじんまりとした海水浴地であるが、休日には首都圏の行楽客を引きつけているそうだ、車窓からは海岸の人の群れがいくらか見えました。常に男たちばかりのバングラデシュ人はMorib海岸で休日の一時を過ごしたことであろう。

マラッカ海峡も見える車窓からはハリラヤが感じられない

車窓から眺める景色はパームオイル農園が延々と続くが、所々それが切れて田舎の家々が目に入る。典型的な高床式マレー家屋も、粗末な小屋のような家も見える。しかし車窓からでは全くハリラヤ祝いを感じさせる光景は目に入らない。バス車中の10人ほどの客もマレー人は数人程度、インド人の方が多い。さらに筆者の後部には服装と顔つきからみてインドネシア人だろうと思われる男が座っていた。

Moribから最終地Sungai Pelik の手前まで道路はずっと海岸に沿っている、つまりマラッカ海峡に沿ってバスは走るのです。海岸線ぎりぎりを走るわけではないから海岸が常時見えるわけではなく、たまに垣間見える程度である。しかしそれでも遠浅の浜辺や、遠く沖に青っぽく見える海が眼に入ると、なんとなくうれしくなる。沖には船も浮かんでいる。この道路際の集落や村にはインド人が比較的多く住むのであろう、ヒンズー寺院がぱらぱらと建っていたし、タミール語小学校もあった。工場があるわけでもないので、多分パームオイル農園で働くインド人がその主体なのであろうと推測しました。

近辺のマレーカンポンを訪れたくても足がない

こうしてBantingを出て約1時間でバスはSungai Pelik に着いた。運賃RM3の田舎バスの旅であった。この町は数年前クアラルンプールから直接バスで訪れたことがある。小さな町で回りは村に囲まれている。前回近くの村まで頑張ってたどり着こうと町から伸びる1本道をしばらく歩いたが、その時味わった危なさに懲りたので、今回は歩くつもりはなかった。何が危ないかって? それは狭い田舎道を車が前から後ろから飛ばして行くので、歩行者はおちおち歩いてなどいられない。こういう田舎道は歩くものでははないのだ、人は皆車かバイクか最低限自転車なのである。マレーシアの公共交通網は街道から離れた田舎の村村を結んでいないので、まこと行動しにくいのである。こういうことはほとんどの旅行者は気がつかないし知らないだろうが、筆者はあてもなく地方を訪れることがある、そういう時ある町から近隣の村を見に行こうとしても、足の確保ができないことに何回も直面してきた。町に常駐している数少ないタクシーに高い金を払うしか方法がないのだ、それは筆者の予算ではできない相談です。

注:タイではこういう場合、いわゆる乗り合い小型バンまたはピックアップトラックがその地方の中心町と周辺の村村をくまなく結んでいる、タイ語が話せ且つやる気さえあれば辺ぴな村でもごく安価な運賃で訪れることができるのです(ただし決して簡単ではない)。しかし乗り合い小型バンまたはピックアップトラックが存在しないマレーシアでは(違法のシロタク行為をしている車はある)、この方法が使えない。


隣のヌグリスンビラン州まで直線なら恐らく数キロぐらいしかないこの小さな町Sungai Pelik は記憶にある限り、華人町だ。バス停の対面の奥の広場で、中国オペラの音が聞こえたので見に行ったら練習中であった。町の中心道路に面して小さなモスクがある。商店街はほとんど閉まっていたが、いくつかの華人飲食店は店を開いていた。ここでも感じたのはハリラヤ?どこにそんな様子があるの、他の祝日と何ら変わりのないような光景の町であった。

30分ほど待つとクアラルンプールのPuduRayaバスターミナルまで直行するバスがやて来たので乗り込んで、一路クアラルンプールに向かった。こうしてハリラヤ2日目のバスぶらつき旅は終った。なんのことはない、ムスリムのハリラヤ祝祭の光景をほとんど目にしなかった。替わりに外国人労働者が目についた日であった。これはもちろんマレーシアの代表的且つ味わうべきハリラヤ風景とはほど遠いものに違いない、しかしこれも実はマレーシアのハリラヤの風景の一つなのです、ほとんど語られないだけなのだ。



Intraasia の雑文集

お断り:この中で最初のタイトルは新しく掲載するものですが、残りの3つのタイトルは以前 「ゲストブック」 に書いたものです。ゲストブックの書き込みは次第に消えてしまうので、ごくわずかに手を加えてコラムに収録しておきます。

[ マレー映画とマレースター俳優に対して言いたい放題 ]


まず英字新聞の娯楽ページに毎週掲載されるマレー芸能界に関するコラム(11月22日付け)から抜粋して翻訳しておきます。
以下記事
マレー映画界の女王Erra Fazira が(人気実力を持ったマレーラップボーカルグループである)KRU兄弟の2番目Yusuryと結婚するといううわさは、熱狂のペースで広まっている。マレーメディアの撒き散らす2人のゴシップに浸っているファンは、今年のベスト結婚 が行われる可能性に興奮している。

しかしアジアの映画ファンの性格からいって大きな疑問が残る。ファンは2人の結婚後もそのファンであり続けるのであろうか?最ももてる人気独身男Yusryはその人気を保てるのであろうか?

これらの質問はマレー映画製作関係者にとって大変重要です。それはこの2人が映画の商業的成功の鍵だからです。Erra Faziraは映画批評家の好みの女優ではないが、10年近くもマレー映画の一番売れる女優である。製作者は彼女に喜んでギャラを払う。ファンはErraをテレビで見ることはできないし、彼女は人気を保つためにテレビドラマに出演する必要もない。現在彼女の映画ギャラは1本あたりRM7万からRM8万5千です(プラス映画売上コミッション)今年1年で彼女はMr.Cinderellaなど3本に主演した。多くの俳優が出演する機会さえないというのにだ。さらにErraは来年の映画製作に少なくとも2本主演する予定です。

しかし結婚すればその映画人気の行方に製作者だけでなく彼女も心配感を持っているのであろう。彼女の将来さえ危険になる。製作者の心配はわかる、というのもこれまでErraに匹敵するスターを見つけることができないからだ。

まだ映画俳優としての商品価値が傷つかずに残っている俳優に、Maya karin, Juliana Banos がいる。一方我々は製作者に新しい顔を映画に紹介してくれることを期待しよう。とにかくErra Faziraはマレー映画の女王として10年間近くも君臨し、今でもその地位を保っている。これはマレー映画界の記録でもある。
以上抜粋翻訳。

映画主演料8万リンギットは多いか少ないか

これを読んで、マレー映画界って世界の主要映画産業から見ればやっぱり小粒だなあとつくづく思いました。マレー映画界の女王として有名なErra Fazira でさえ、映画出演料がRM8万程度なのですね。もちろんマレーシア芸能界ではこの額は多い額でしょうが、映画という娯楽の花形の世界から見れば、香港映画界のトップスターの契約するギャラの数割程度ではないでしょうか。ハリウッドスターとは比べる以前の段階であり、出演料米ドル換算$2万程度の俳優は、掃いて捨てるほどの数いることでしょう。日本映画でトップ級の主演俳優はどれくらいもらっているのでしょうか?

アジアの俳優は特に女優は結婚にものすごく影響を受けるのは事実でしょう。ハリウッドスターは常に結婚と離婚を繰り返しているので、結婚したからといって極端にその商品価値が下がることはないはずですが、アジア人は特に結婚にこだわりますね。マレーシアでも同じで、特にマレー社会は女性の結婚をものすごく規範視して見る社会です。当然芸能界にもそれが及ぶ。マレー女性誌とマレー芸能娯楽誌は毎号結婚カップルの写真で飾られています。従がってトップ女優Erra といえどもその影響は避けられないということなんでしょう。

筆者はErra タイプのマレー女優は全然好みじゃないので、Erra が結婚しようが引退しようが全く気になりませんが、なぜErra タイプの女性がスターとしてマレー社会で好まれ、人気を維持しつづけているのか、筆者はそちらに興味があります。少なくともマスコミから感じるErra像は、いわゆる規範的マレー女性像とは似ても似つかない女性像なのにです。
俳優として見たとき、はっきりっ言って彼女は大根役者ではないかと筆者は思います。しかし世の映画やテレビドラマの世界は、演技が上手い、演技が心を打つということが必ずしも人気が出る鍵でないことは、日本もハリウッドも香港も同じでしょう。

例えばタイタニック号映画に主演したハリウッドの若い大根男優 DiCaprio が世界の女性に人気を呼ぶ現象と同じで(彼のファンにはごめんなさい)、Erraがマレー映画ファン、その大部分はマレー人、に人気あることを嘆いたり批判するのはお門違いなことともいえますね。マレー男優に関してもこれはあてはまるでしょう。人気と実力あるボーカルグループKRUの1人といえど、決して芸達者でなく且つすごいハンサムともいえないYusry がなぜ、マレーヤング女性にもてる、これは筆者にはよくわからない点です。25年前の筆者の方がよっぽどハンサムだったはずだ、でも歌は歌ってないから人気も金も全然なかったが(あっ、これ蛇足です)。

徹底した娯楽性が不充分

非商業ベースの社会派映画を撮るUbey のようなマレー人監督を例外として、マレー映画界は、少なくとも現在では、シリアスな社会主題を前面に立てたり、内面性を強調する映画はまったくといっていいほど製作されていないようにみえます。もちろん映画は庶民に夢を売るのが主たる存在理由ですから、娯楽性に富んでいて悪い理由は全くありません。娯楽100%大いに結構です。しかしマレー映画はその徹底した娯楽性の面でも不充分だというのが、非マレー人観客である筆者の感想です。

つまり非マレー人にも訴える何かがマレー映画には欠けているのです。この意味は映画がマレーシア語だから非マレー人に届かないということではありません、現在の10代20代の層は学校教育でずっとマレーシア語を学習してきた世代、映画のマレーシア語が理解できない層ではないからです。マレー映画界の巨人である P.Ramlee の全盛時代と違って、現在製作されるほぼ全てのマレー映画はマレー人観客だけを念頭に置いて製作されているはずです。だから非マレー人を引きつけようとする努力がなされていないのは間違いないでしょう。といって、どういう努力をすればよいだろうか? 映画が興行的に成功し金儲けしなければならないビジネスであるとき、これは非常に困難な問題ですね。

こういったことがErraやYusryに対する筆者のあまり高評価しない理由に結びつくのかもしれませんね、もちろん私個人の嗜好の違いが一番の理由ですけど。

マレー人だけを念頭に置いたマレー映画

ハリラヤ時にコメディータッチのマレー映画 " Mami Jarum" が公開されたので、私もさっそく見ました。いつものように多少の期待感を持って、筆者は郊外のシネプレックスに足を運びました。切符販売窓口で、インド人の切符販売係りが、「これはマレー映画ですよ。」 と筆者に念を押しながら、切符とおつりを手渡してくれました。こういう念を押す行為はさすがにKLCCのような大型シネプレックスではありませんが、他の小型シネプレックスや単館で、その時公開されるマレー映画を見る時に時々経験してきました。筆者は切符販売係りの言語に合わせてその言葉で切符を買うので、係りは筆者を当然華人と思い込んで、多少の意外感で切符を売ってくれるのです。つまりこういった経験を合わせていくと、上記で書いた「現在製作されるほぼ全てのマレー映画はマレー人観客だけを念頭に置いて製作されているはず」ということを裏付ける一つにもなります。

現実に、Midvalley ショッピングセンター内にあるような大型シネプレックスでさえマレー映画の観客はほとんどマレー人とおぼしき姿形です。華人客が多数を占める場所のシネプレックス、または今は廃館となったチャイナタウンの単館でマレー映画を見る時は、観客自体の数がぐっと少なく、回りの観衆は全てマレー人という感じですね。このマレー映画 " Mami Jarum" の総観客数は10人に満ちない数でした。

この映画Mami JarumはUiTM大学の映画部の教授が脚本書き監督した、マレー映画予算としては標準か多少下回るRM100万で製作した映画です。マレーテレビドラマの人気俳優がたくさん出演しています(と解説記事にあった)。さて荒筋や俳優の演技は確かにコミカルであるが、背景全てがマレー社会の慣習や人間模様のあり方を前提にしているので、対象とする観客がマレー人だけであることがわかります。筆者のようにマレー映画そのものに興味を抱いて見る者でさえ時々退屈さを感じるので、非マレー人観客を引きつけるのは難しいなと思いました。この映画は娯楽性は確かにある、知られた芸達者な俳優も出演している、しかし非マレー人を引きつけられないのです。

ボリウッド映画を見てください、インドで製作するときマレー人観客のことなど全く考慮に入れてないはずです。しかしマレーシアではインド人だけでなく、実に多くのマレー人観客を引きつけている。ここに映画製作における娯楽性をどう表現するかの難しさがあると思います。

おことわり

この小文は筆者のマレー映画に関する総批評ではありません、総批評できるほど数多くマレー映画を見ていないのでそんな大それた考えは毛頭ありません。いわばこれまで見たマレー映画の特徴を基に、長年の映画ファンである筆者の印象を”言いたい放題した”のです。


[ 言語の変化が食文化にも影響する ]

言語は同じ名前がついた言語でも性別や年齢だけでなく、地域と階層と時代によって変化します。これは言語学のいわば公理であり、どんな言語にも当てはまります。ですからある言語がその本来話される地域から別の地域にもたらされると当然変化がおきます。もちろん変化の程度は様々ですが、本来の地域でごく当たり前の単語や表現がほとんど使われないことも珍しいことではありません。移入された地域に根ざした単語と表現がその言語に入り込み、本来の地域から来たその言語の話者にそういった部分がよく通じないことも起きてきます。

インド人屋台・大衆食堂でことばの観察

以上の現象と変化はマレーシアの英語ではよく知られていることで多くの人は気付いているはずです。さらにマレーシアの中文(中国語)でもおきています。当然インド系の言語にもおきます。マレーシアのインド系人口比は総人口のわずか8%ほどですが、そのインド系のうちタミール人は約4分の3です。南インド系のテルグ人、マラヤラム人さらに北インドのパンジャブ人、スリランカシンハリ人などが残り4分の1を占めます。政治的にはタミール人が圧倒的に力を持っていますが、このタミール人主導に快く思わない非タミール系が存在するのは秘密でもなんでもありません。インド系でタミール語を話さない人は決して少なくないのは、人口比などこういった理由からです。マレーシアのインド人界でヒンヅー語は共通語では全くありませんし、学校教育の正規科目でもありません。しかしヒンヅー教を通じてヒンヅー語の単語が入っている事は想像につきます。

さらに非合法外国人労働者または正規外国人労働者として、広いインド世界であるバングラデシュ、パキスタン、スリランカからの労働者がマレーシアで恐らく10万人を超える人たちが働いているはずです。こういう中にはインド系マレーシア人の経営する飲食店で働いている者もいます。

インド系飲食店は北インド料理などを売り物にする店は別としてタミール人経営が大多数ですが、一般にタミール語とマレーシア語の併用です。タミール人でない客からとった注文を同僚同士ではタミール語で伝えるというようにです、タミール人なら通常はタミール語で注文していますね。しかしこれも店の場所とオーナーらの日常使用言語にもよります。旅行者がよく立ち寄るとか、中上流階級地区の店などでは英語を多く用いる店もあります。ですからインド系大衆料理店では必ずこの言語が使用されると断定まではできません。

コピはコーフィーではない

ある地域を専門としない人が書いた本には時々間違いが出てきます。それはある言語ではこういう呼び方が定語だからとそれを全てに一般化してしまう場合です。例をあげると、Teh (テーと発音)という呼び方は半島部の多くの地域では、ティーにミルク(マレーシア語でSusu) をまぜずに入れた飲み物を指します。しかしサバ州では主としてteh susu という言い方をします。もちろんサバ州でもそうではない、半島部でもteh susu という地域も中にはあるでしょうから、一般的な傾向です。

中文(中国語)を専門とする人でもマレーシアの状況を知らなければ、Teh(実質的にはミルクティーです)を"naicha" と中国語の定語で書いてしまうでしょう。しかしマレーシアの華人系の大衆店で"naicha" というような呼び方は全くしません。しかしそう呼んで注文しても理解は当然されるはずですが、この客はマレーシア華人でないとすぐわかります。

マレーシアの大衆店で供されるコーヒーはKopi (コピと発音)であってcoffee ではありません、もちろんkopi の訳語はcoffee ですが、マレーシアの常識としてkopi とcoffee は別物です。豆も焙煎法も違うからです。外国人が大衆店や屋台でcoffee と注文してもまあ理解されるはずですが、この客はマレーシア人でないとすぐわかります。華人大衆店でも”カーフェー”と華語で注文するのでなくマレーシア語の"Kopi"といって注文します。

インドネシアではアイスais を"esエス" と呼びますから、Kopi Ais はKopi Es となります。しかしマレー屋台で働いているインドネシア女性は当然 kopi Aisと注文を聞いても理解しますね。しかしマレーシアに来たばかりのインドネシア女性がteh tarik をすぐ理解できるかと言えば、理解できないはずです。

以上は、言語は時と場所と階層によって、このように変化するという例です。インドのチャイがマレーシアのインド系飲食店で通じるか通じないかの参考にしてください。


[ マレーシア語と英語の間にあるもの ]


ゲストブックに書きこまれた次ぎの点にコメントしましょう。 「マレー人はそんなものを読もうとせず、そういうものを読もうとするほどの人なら英語も出来るので英語で読んでしまう」 のではないのです。まずマレーシア語で出版されている分野は極めて狭いので、例外はあるとして、マルクス主義書などが出版される事はありえません(出版法で禁止されます)。例えば、経済学や哲学や音楽を深く学習、読書しようとしたら他言語を学習する以外に方法はないです。その時マレーシアでは有無を言わさずに英語をマスターしろということです。つまり 「英語もできるのではなく」 英語ができなければならない、必然性をマレーシアは生み出してしまったのです。

いうまでもなく書籍文化の豊かなドイツ語やフランス語や日本語や中文(中国語)などをマスターすればほとんどの分野の読書はできますね。そこでマレーシアの華語教育界の中にはだから中文をもっと高めようとする核勢力がありますが、これに対してはマレー民族主義者を中心とした強い批判があります、いや批判というより攻撃ですね。

でなぜ、英語ができなければならない状況をマレーシアは生み出してしまったか?それは当然マレーシアの英国植民地としての歴史があるからですが、もう一つの強い要因に、マレーシア語を本当の国語にできなかったことです。マレー人界の主流がマレーシア語をマレー語のままで国語にしようとしたことがあります。マレー人のことばだからマレー語と呼び、そのマレー語の中にマレー民族の価値観とイスラム教を埋め込んでしまったのです。マレー語がマレー人の言葉である限り、非マレー人は学校教育の義務として習い、官公・役所のことばとしてマレー語を使うが、彼らにとっては真の国語としてみなしていないのです。もちろん建前は違いますよ。

例を示しておきましょう。マレー人自身、マレーシア語の表現と英語の表現において場の違いを表出させているのです。例えばラジオ局で、マレー人がDJを務めながらも、彼らのスタイル・表現がマレーラジオ局と英語ラジオ局では違うのです。傾向として、マレーラジオ局ではとてもできないような西欧流のスタイルを主としてとっているのが英語局です(いずれも民放の場合)。マレーラジオ局では、あくまでもあるべきマレー人の対象からはずれないようにして選曲、話しをしていますが、英語局はマレーDJであっても、その匂いに西欧風味混在を感じるのです(西欧化とも違う)。

マレーシア語はマレー語であることを強調すればするほど、非マレー人にとって建前だけの国語になっていきます。英語がなぜこれほど強いか?その大きな理由の一つは英語を使う時、学習する時に、人は英国人性と米国人性を要求されないからです。他民族にある言語を広めるには、その本来の発祥した民族性を薄めなければ、成功しません。このことにマレー人は気がつかなかったまたは受け入れようとしなかったことが、現在のマレーシア語の実質的には国語になれなかったことに結びついたのです。

もう引きかえしはできないと、私は見ています。マハティール首相もそう見ているでしょう、だから彼は理数科目を英語で教えれば国は発展するなどという非論理的な方針を強引に打ち出しているのです。狙いの中には全科目を英語で教育させる学校を復活させたいこともあるはずです。

読者が掲示板にお書きになった文書 「マレーシア語の出版物でカバーできないジャンルは英語(の輸入書籍)で埋めてしまうので、インドネシア語書籍の出る幕は無い、そもそも本を読む層が限られており、そういう人の英語能力は高い」 に関しては、上で述べましたようにカバーできないではなく、カバーさせる努力自体がないか全く足らないのです。マレーシア語によるパソコンユーザー向けのコンピューター解説書は90年代の終わり頃大きな書店で見かけるようになりましたが、今でもその種類は極めて限られおり、置いてある書店がごく限られている、必然的に英語書を買わざるを得ないでしょう。技術面でのインドネシア語書籍が輸入されない読まれない理由は、前回のゲストブックで書きましたね。

パソコン保有を田舎のすみずみまで行き渡らせたいという国家目標をマレーシアは掲げていますが、これは非常に困難で非現実的なことです。マレーシアのパソコンはほとんど英語Windows、プラスごくわずかの英語Macです。一体カンポンの民、その多くはマレー人です、がこれをどうやって使いこなせるのだ。日本では英語などまったくわからなくても、年配者、家庭の主婦、低学歴者、パソコンに興味さえあればパソコンとインターネットを楽しめる、しかしマレーシアではそうは行きません。英語がある程度わからなければ、Windowsのファイルの意味さえわからない、ヘルプファイルは皆英語で説明ですよ。インターネットの接続設定もすべて英語ですよ。英語力が極めて低い人が、英語Windowsを使ってパソコンを始めようとした場合を想定して下さい。

タイではあらゆる出版物がほぼタイ語だけです。そのため田舎へいっても書店自体は少なく貧弱だが、タイ語のパソコン書も売られている(私のタイ語能力でも何に関する本か程度はわかります)。多少の経済力とやる気さえあれば、タイの田舎の民でもパソコンとインターネットは始められます、Windowsはタイ語バーションです、ブラウザ−も当然タイ語版です。

マレーシアは違う、Windows はもちろん、すべて英語バージョンです。名前の知れた知られないを通じて市販ソフトでマレーシア語版はほぼ皆無です。開発者は最初からマレーシア語版を翻訳、発売する努力も全くしない、ユーザーはマレーシア語化を要求しない。パソコンやりたければ、まず英語を習え、というスタイルです。

都会の中流以上とか、田舎でも回りの環境に英語が身近であればいいが、そうでないものにものすごく負担と不利になります。どんな努力しても、英語がマレーシアの津々浦々、老若男女全てに広がることはありえません。これは世界のほとんどの元英国植民地国家の歴史が証明している。マレーシアは英語に依存しすぎてしまった結果、英語のできないものがものすごく損をする社会に行きつつあります。パソコンは単なる1つの例です。

私はタイ的あり方を望む。日本のようなあらゆる物を翻訳する文化を望む。それは老若男女、教育程度、貧富に関わらずほとんど全部の人が自国語で楽しめ、さらに競争できるからです。日本人ならわかると思いますが、いくら英語を習っても伸びない人はいますし、自身そうだという方も読者にはいらっしゃいますよね。それは英語教育が悪いからだという説明は、全ての人に水泳を教えたら皆すいすいと泳げるようになる、と主張していることと同じです。母語でない第2言語は全ての人に平等に伸びないのです。スポーツといっしょで言語学習には得意不得意、好き嫌いがあるのです。マレーシアの状況はたとえて言えば、100mを14秒以内で走らねば、その他のスポーツ活動はできないと言われているようなものです。

だから私は英語の国語化、母語化、必須化に強く強く反対するのです、英語を習うこと自体や貿易などで使われることに反対ではないですよ。前にも書いたように、言語の平等など現実世界ではありえない、しかしその不平等さをより広げる方向になぜ手を貸す必要があろうか?


[ いわゆる”権威ある”情報にはかなわないが ]


旅の掲示板で、掲示板発足以来何十回目かの、「マレーシアはまたはマレーシアのどこどこは危険ですか、または大丈夫ですか?」類の書き込みがありますね。正直言って私はこの種のお尋ねにもう丁寧に応答する気がなくなっています。といって答えていただく方が誰も出てこないと、主催者としていわば義務感から、答えなければいけないかなあ、という気持ちになります。

しかし私が以前のように、「外務省のまたは外務省外郭団体に属する、自分が無知でまともに旅した経験なく現地状況に疎いということを知らない、あほで傲慢な官僚どもが、パソコンの前に座って、あそこは危険、ここはよろしいなどと権威を振りまわして作文しているこの種の情報など、無視しなさい」といった本音を書いても、この種の心配感を持つ方には全く届かないこともよく知っています。(だから書かないようにしています)

世の中には権威を信じる方、権威を好む方、権威にすがる方がよくいらっしゃるので、そういう方たちに一介の物書き・ホームページが何を書こうと、どう訴えようと、如何に批判しようと、通じないのが現実ですね。

旅行会社や情報会社提供の旅行サイト、旅行ブック・雑誌をご覧ください。こういうサイトの主催者や書籍の編集者は、極めて権威にすがるタイプが多いと見えて、この外務省のサイトをリンクなり印刷して紹介していますね。その情報の質などどうでもいい、質など調べられるわけない、権威ある外務省のサイトだから何でもいいから載せておけばいいのだ、危険でないといったら万が一の時後で責任問題になるから載せよう、他人が載せてるからうちも載せよう、などといった理由でしょう。

ね、絶対多数の旅行者はこういう情報を見て、読んで、または知りも知らない旅行代理店で、あそこは危険ですよ、などとアドバイスされて、思い込みや先入観念が出来上がってしまいます。まあ無理もないと思いますよ、だからこの種の質問者を責めてもいけませんね。大多数の旅行者は何もその国、その地域に深い深い興味を持ってまたは精細に調べてからそこへ是非行くんだという意識はありません、当然です。そういう時、回りの”権威ある”情報がものすごい影響力を持ちます。

さらについ先日このゲストブックで、タイ南部について書かれた有名外国通信社の配信記事に関して、私はこう書きました。「こういう通信社の外電は、そこに生きる名もない民衆も、一部の武力反抗主義者も、すべていっしょにして、危ない地域だとレッテルつけてしまう一例ですね。現代のマスコミはあることに興味も関係もない人々に、ある種のイメージを植えつける点では、ものすごい力を発揮する。」
このように日々マスコミの提供するに一見専門家風の情報によって、その出来事、その国、その地域に関係ない人々は、ある種の先入観念を植え付けられがちです。

この絶対多数且つ超大量の”権威を持った情報”にさらされた一般旅行者に、Intraasiaのような極少数派がいくら現実はこうだなどとと書いても、適うわけありませんなあ。

ところで、大体外国旅行というのは、それが大きいか小さいかは別にして、様々な危険はあるものです。別に外国行かなくても天災は起こるし、人間社会であれば、事故、病気、犯罪などがつきものです。人間テロに遭遇するよりもこれら事故、病気、犯罪、天災に遭遇する方がはるかにはるかに確率は高い。中でも広い意味での交通事故はどこで遭っても不思議でない。実際海外でテロであった日本人の数と広い意味の交通事故に遭った日本人の数を比べてみればよい、答えは自ずから明らかですね。

数年前だったか、極めて安全だと思われていたアルプスの山中で列車が火災で燃えて多くの死亡者が出たように、何でそんなところで事故が、事件がというケースは幾らでもあるではないか。それが外国旅行の現実でもある。東南アジアは安全か危険か?こういったことを物知り顔で論じて、書いて、勝手に他人の国や地域をレッテルつけるやつらの傲慢さに、私は腹が立つ。所詮世界どこにも100%の安全などないのだ。



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