「今週のマレーシア」 1999年1月と2月のトピックス

チャットコーナーのマスターを囲んでマレーシアの新年を語る  ・ マレーシアの稲作と米
マレーシアにおける中国語と「方言」の作られ方 (前編)と(後編)  ・ ランカウイ群島との連絡ボートが離発着する桟橋風景
ハリラヤ祝日のオープンハウスに思う  ・たむろするマレー若者男たち  ・ オランアスリを知っていますか
再びスマトラでマレーシアとインドネシアの同異を考える  ・別の面から見た中国正月の風景から  ・ 客サービス精神と義務感に関する試論



チャットコーナーのマスターを囲んでマレーシアの新年を語る


マスター:皆さん、開けましておめでとうございます、(と言って店のドアを”開けて”入ってくる) マレーシア語でいえば、Selamat Tahun Baru ですが、マレーシア人同士が挨拶としてこれを言うわけではありません。

お客一同:マスター、明けましておめでとうございます。今年も、いや今年こそ商売繁盛でありますように。

マスター:さっそく皮肉ですか。従業員のウエートレス、といっても一人しかいませんけど、はちょっと遅れて来ます。いつもの南海の海に熱帯魚と戯れに行ってるので、遅れてくるそうです。

なぎさ:それなら、それまで私がお手伝いしまーす。

マスター:ありがとう。若い新人はウサギみたいに元気よくていいですね。

ひでこ:マスター、マレーシア人はどのように新年を祝うのですか?

マスター:マレーシアは多民族国家ですから各民族によって捉え方が幾分違います。でも大多数のマレーシア人にとっては、西暦の新年ということで年が新しくなったとかカレンダーを新しくした程度しか感じないでしょう。この日に家庭で正月料理を作ったり食べることはありません。各新聞が新年特集を組みますが、公的な特別な行事はありません。1月1日は国民の祝日ですが、それ以上の日ではありませんね。

ゆみこ:ということは、街にお祝い気分はないのですか?

マスター:ショッピングセンターなどでは、クリスマスといっしょに垂れ幕を掲げ、セールスを行います。また若い者たちが大晦日夜に家とか飲み屋、広場に集まって新年の到来を祝うことはあっても、元旦に家族でまたグループで新年を祝い、互いに訪問し会うことはありません。マレー人は現在ラマダンの最中ですから(98年12月20日から1月18日までの1ヶ月間)、今彼らの頭の中ににあるのは、ラマダン明けのハリラヤプアサのお祝いでしょう。ハリラヤプアサはマレー人最大の祝日ですよ。

ゑぬ:じゃ、正月の特別料理なんてないのですね。

マスター;ありません。高級ホテルのレストランでNew Year Brunchとか Dinnerなどの催しはありますが、新年用の特別マレーシア料理はありません。これはマレー料理でも中国料理でも同じです。

ひでこ:なんか楽しくなさそう、でもおもちぐらいあるでしょ?

マスター: ”もち”ろん、あります。でもそれは新年用ではありません。マレー人はもち米 beras pulutをマレー菓子の材料とか竹蒸しご飯に使ったりしますが、もち米は日常のごはんではありません。この甘いマレー菓子は”Kue" とマレーシア語で呼びます。ですから彼らは”Kueを食え” と言ってお客に勧めるのですよ。

れべ:本当ですか、あやしいなあ。サラワクでももち米は食べますよ。華人はもち米を加工して時々食べますけど、日常食とはちょっと言い難いと思うのですが。

マスター:そうですね、もち米は 糯米と書いて "nuomi"呼びます。でもこれも新年用ではありません。屋台で味付き糯米の姿で売ってますね、何かの節にも食べるのでしょう。それ以上詳しいことは知りません。
華人は中華世界共通で旧暦正月つまり中国正月をずっとずっと盛大に祝いますから、西暦の新年は彼らにとってカレンダーの掛け替えぐらいの意識でしょう。華人の使うカレンダーはほとんど旧暦が新暦の下に併記してありますよ。

ひとし;すると、新年の祝い酒なんてないですね。マレー人はもともと飲まないからあたりまえか。でも中国人はもちろんインド人も酒飲みますよね?

マスター:そう、インド人は酒を飲みます。つまり宗教上許されている人が多いのですね。インド系に人気あるのはサムスという椰子酒だそうです、マスターの住居地近くにはインド人が集まる路上酒場があり、いつもインド人が酒盛りしてます。時々そのなかに華人も混じっています。ただこういうのを飲むのはいわゆる労働者層で、しゃれた都会のユッピーはパブやカラオケでビール、ウイスキーを飲んでいるのです。

ウエートレス:あ、遅くなりましてすみません、皆さん新年おめでとうございます。

マスター:酒の話になると必ずやってきますな。

ひとし:ウエートレスさんが遅いので、さめとデートしててさめに食われたかとみんなで心配してましたよ。

ウエートレス:ふん、サメなんか相手にしません。サメはふかひれスープにして飲むだけです。

お客一同:わあ、ウエートレスさん”さめ”てる。

ゑぬ:マスター、マレーシアの華人もふかひれスープ好きなんですか?

マスター:好きみたいですね、どんなちょっとした中国レストランでもメニューにふかひれスープは載っています。マレーシア旅行の際には是非味わってください。中国料理の材料ってやっぱり中国から輸入が多いみたいですね。

なぎさ:それじゃ、先輩にかわります。マスター、マレー人って魚をけっこう”さかな”に食べますよね。

マスター: そうですね、屋台や大衆食堂の料理には必ず魚(Ikanという)がありますからね。名前が Ikanでも魚を食べては Ikanということではないのですよ。

ひとし:多くのマレーシア人の生活面では、新年はあまり特別な意味を持ってないみたいですね。でも会社とかビジネス関係にとってはどうですか?

マスター:公的なことをいいますと、マレーシアの政府会計年度は1月から12月締めの暦年会計です、これが個人法人の税金算出の基になります。ただ各会社は税金支払い面は別にして、自由に会計年度を設定してもいいのです。尚日本のように3月末に企業会計が集中することはありません。

ひでこ:私子供いなけど、ちょっと子供のこと聞こうーと。学校はいつ始まるのですか?

マスター:小学校と中高学校は1月初めから新年度が始まります。学制は小学校が6年間、中高学校が5年間です。その上に大学入学資格用特別期間、Form 6と呼ぶ、の2年があります。

ゆみこ:マレーシアの生徒はみんな同じような制服きてますけど、あれってどの州も同じですか?

マスター:そう全州同じ制服です。小学校はマレー女子が白いBaju Kurungに紺のスカート部、非マレー系女子は白い半袖ブラウスにスカートです、男子が白い半袖シャツに紺の半ズボン、中高学校は女子生徒が白い半袖ブラウスに水色のエプロンスカート、マレー人ならBaju Kurungですね、男子生徒は白い半袖シャツに紺のズボン。マレー人女生徒は制服に加えてTudungというスカーフをしていますし、スカート部も丈がずっと長いのです。生地は同じだけど型がマレー人以外の生徒とは違うわけです。

但し私立の学校は多少色が違いますね。制服を着なくていいような自由な学校はないみたいですが、はっきりは知りません。

ウエートレス: 私もこの店でああゆう感じの制服にしようかな。

ひでこ:お年をお考えになった方がいいのでは。あっ、お年で思い付いたんですけど、ウエートレスさんは働き者だから、心やさしいマスターから新年のお年玉でませんか?

マスター: マレーシアには西暦の元旦にお年玉を渡すという習慣はありません。ですから本当は渡してあげたいけど、習慣にないところで出すのはおかしいので、残念ながらやめておきます。
マレーシアにはお年玉に似た習慣があります。それは華人なら中国正月の時に紅包(Ang Pou)を親戚身内に配ります。またマレー人はハリラヤ祝日の時に似たような Duit Rayaを配りますね。もちろん小さな袋にお金をいれて渡します。

ウエートレス:私は子供じゃないからお年玉なんて要りません!

ゆみこ:お話を伺うとマレーシア人って新年の休暇取らないんですね。

マスター:そうほとんどの人が新年の休みは祝日の1月1日だけですね、ただ今年は2日が土曜日、3日が日曜日なので3連休する人も多いでしょう。マレー人はもうすぐやってくるハリラヤ祝日(2月19日と20日の予定)に休みをまわすし、華人は2月にある中国正月に休みをまとめて取るのです。工場、会社、店もそれに合わせて休むから、西暦の1月1日は単独の祝日にすぎません。

ひとし:今年のマレーシア景気どうかな、心配だな

マスター:昨年は成長率がマイナス5%ほどだったけど、今年は1%ぐらいの成長を政府は期待してますよ。だからそれに期待しましょう。それじゃ景気つけにケイキを皆さんにごちそうしましょう。

ゑぬ:マレーシア人もお祝い時にケーキを買って祝うんですか?

マスター:そうです、誕生日などはそうするようです。町にはケーキ屋さんつまり洋菓子屋さんが大ていありますから、そういう所でケーキを製造販売してます。このケーキはクアラルンプールで有名な洋菓子屋の”京都”店で買ってきましたよ。

ひとし:店名が京都?日本人がオーナーのケーキ屋さんですか?

マスター:いえ、いえ。マレーシア人がオーナーです。マレーシアでは合弁でなくても、たまに日本名を付けている店とか会社があります。もっとも発音は”きょうと”ではありませんよ。その店は英語名の”King's”というのを掲げてます。おもしろい名前ではマスターの住んでいる近くにSEIKETSUなんて社名をつけた会社があります。つづりが雪潔となってるのがいい加減だけど。

ウエートレス:さあ、ケーキ切りましたから、皆さん一つづつ分けますね。マスターってほんと気がよくきく人ですね。

ひでこ:ですからマスターって素敵です。でもこのケーキものすごく甘い!

ウエートレス:素敵だからといってひでこさん、マスターに手を出さないで下さいね。出すのはお金だけですよ。

マスター:そうなんです。マレーシア人はコーヒーでもお菓子でもものすごく甘くするのです、インディアン菓子など砂糖の固まりみたいに甘いのですよ。カロリー制御の社会通念がまだあまり広がってない面も多分にあるからですけど。ですから厚生省は、"コーヒーに入れる砂糖はスプーン1杯で充分です"、なんていうキャンペーンを新聞ではじめたのです。ちなみに甘いは”manis”とマレーシア語でいいまして、かわいい女性の形容にも使います。

ひでこ:じゃ、私は manisですね。

マスター:いえ、あなたはたんなる甘ちゃんだとおもうけど。

れべ:だから太ってるマレーおばさんって多いんですよね。それだけでなく、あまり運動しないせいも多いと思うんだけど。

マスター:私もそう推量してます。マレーシア人の食生活ってカロリーの多いサテとかミーゴレン食べることが多いし、あまり生野菜取らないって言われてますから。中国料理だとなんでも炒めたり煮込んでしまうし、マレー料理も炒めるか煮てカレー味にするのが一般的ですね。生野菜にサンバルつけて食べる人もいないわけではありませんけど。

でも反面マレーシア人はそれだけ栄養状態がいいという面も示しています。マスターはインドネシアのスマトラとかベトナムなど旅すると、太ってる人はまれにしか見ませんから。

ウエートレス:私ひとつだけマレーシア語知ってます。甘くしないで、という意味で ”Kurang Manis”というんですよね。これマレーシア行く人是非覚えておくと役に立ちますよ。それとトイレの中腰法、私得意です。

マスター:誰もそんなこと聞いてません、ここではその話題はありませんよ。それじゃTeh Tarikを入れてケーキを食べながら、今年も良い年でありますように皆で新年を祝いましょう。

ひとし:うーん、おとそで祝いたいけどまあ我慢しましょう。中国正月までとっておくか。今日はマスターのおごりだからオープンハウスみたいですね。

ゆみこ:オープンハウスって、マレーシアの祝日の時、大臣とかが民族にかかわらず一般人を招いて料理を振るまうことのことでしょ?

マスター: そうです。これはマレーシア独特らしい。オープンハススは単におえらいさんだけがやるのでなく、マレー人はハリラヤなどでは近所親戚友人を呼んで、手料理を振る舞うそうです。ですから今日はチャットコーナーのオープンハススですな。

お客一同:マスターはお金無いけど、心やさしいオープンな方ですね。

マスター:どういたしまして、当店はいつもどなたにもオープンしていますよ。それでは皆さん今年もよい年でありますように。

お客一同:Selamat Tahun Baru!

(敬称略とさせていただきました。)



マレーシアの稲作と米


マレーシア半島部を旅行されると水田をあまり目にしません。でも食事の時には、マレー料理であれ中国料理であれインド料理であれ必ずご飯が供されますね。クアラルンプール付近やジョーホール州などの郊外で目にする風景は、パームオイル農園、ゴム農園が圧倒的で、では水田は一体どこにあるのでしょうか。

半島部の水田は北部州に偏っており、マレーシアの穀倉ケダー州、尚ランカウイ島もケダー州です、その北の最小の州ペルリス州、さらにペナン州に偏っているからです。他州にもないことはないでしょうが、やっぱり上記3州に水田が集まっているのです。そこで日々食べる米のことに触れてみましょう。

以下新聞の記事より引用
マレーシアの米自給率は72%です。農業省の専門家の推定では、平均家庭で月RM65を米代に費やします。つまり家庭収入の3%です。「マレーシアの米作農家は平均耕作面積1haという完全なる小規模農家です。 1ha当たりの1シーズンの米作収入はRM1147、二期作なので月収に直すと月RM191、つまり貧困以下です。」

このため農家はもっと割のいい耕作物に転換します。「それが穀倉地帯に問題を起すのです」米以外の栽培物が国の米供給に影響を与えます。米は値段が適当な価格で簡単に入手できるので、中程度の農家は米作にあまり興味を示しません。

歴史的背景から言いますと、 一般通念とは違って、ほとんどのマレー農家は英国植民者がやってくるまで、水田耕作をしなかったし米を食べなかったのです。当時の稲作は、裏耕作作物として耕作される陸稲 Padi ladangしか耕作しなかったのです。その後マレー半島の植民地化とともに、米食文化をもった中国人とインド人がやってきたのです。マレー零細農民はそのための充分なる米を栽培できませんでした。英国植民地政府はそこで、マレー農家が米作した方が安くつくと考えるまで米を輸入したのです。

これがUPM大学のある教授による、なぜマレー農家が米作に興味をもたなかったか、の理由付けです。米作を管理するために、植民地政府は組織的に陸稲栽培を不奨励したのです。さらに陸稲から水田に変えるため、灌漑計画をすすめたのですが、それでもマレー農家は米作に積極的ではなかった。「かれらは水田耕作文化に欠けていた」のです。

その後ゴム栽培が始まると農家は、ゴム栽培の方が金に成ることから陸稲栽培を自家消費のためだけにし、ゴム栽培に移っていったのです。現在でもこういう傾向はかわらず、マレー農家はゴムやパームオイル栽培に比して水田耕作はあまり労働に見合わないと考えるのです。

現在米の販売価格は生産コストを下回っています。そこで政府は肥料援助と価格差補助の形で米作農家に補助を出しているのです。この補助金額は年間5億リンギットにのぼります。

以上99年1月5日付けThe Starの記事から抄訳

興味深い米作に関する記事です。豊かな土地と恵まれた気候であるにもかかわらず、マレー農民は昔米作をしなかったのですね。まこと意外な事実です。筆者も昔から半島部では大規模ではないものの稲作が盛んだったと思っていました。現在ではサバ州もサラワク州も稲作していますが、これは昔から主要作物だったのでしょうか、残念ながら筆者には知識がありません。サバ州では時々干ばつで稲作農家が大きな被害にあった(っている)と報じられています。どちらにしてもサバサラワク州でも稲があまるほど耕作されているわけではないようです。

スーパーマーケットにいくとビニール袋詰めの米が並んでいます。マレーシアの米の主輸入先はタイですから、その中にはタイ米が目に付きます。筆者は料理しませんので、グレードが高いのか低いのかわかりませんが、こうやってタイから簡単に米輸入できる位置にあるマレーシアが、米輸出国になることはこの先もありません。皆さんが外でお食べになる米はタイ米の可能性も高いのですよ。



マレーシアにおける中国語と「方言」の作られ方 (前編)と(後編)


言語とは誠にやっかいなものです。世界に数千とある言語、その数をはっきりと確定できません。それは話者が消滅して消え行く言語が頻繁に起こっているせいもありますし、調査が済んでない言語がまだ相当程度あると考えらていることもありますが、それだけでなく、もっとやっかいなことがあるからです。それは何を言語と数えるか、別の言い方をすればどのことばを言語と規定するかが難しいのです。単に言語学の面からでなく、政治と国家という面がからむからです。

人間はある特定のことばを話す

言語は人間の生活と文化に直接結びついています、これなくしては人間が人間でなくなることは誰にでもわかりますね。有史以前から言葉を持っていた人類ですから、これが人間の人間足る由縁のひとつであるのでしょう(ゴリラ、イルカの言葉理解はここでは別問題です)。人間は言葉を話します、ここでいう言葉は情報、知識を媒介する手段だけでなく思考の基礎になるものの意味にです、一般に自然言語と呼ばれます。こう意味からはコンピュータープログラミング言語はこの定義から外れますね。

人間はことばを話すと書きましたが、ある不特定の言葉を話すわけではありません、特定の一つの、人によっては3つ4つ又はもっと話す人もいますがそれでも所詮数は限られてます、ことばを話すのです。それだからこそことばはその人間の一生を左右するのです。ある国に生れて育ちながらその国の普及言語が話せなければ、その人にとって決定的に不利ですね。

言語は単なることばでおわらない

また現代では「国際語」と呼ばれる英語を解さないと、「国際社会で通用しない」なんていう脅し言葉が真実味をもって人々に信じられ、非英語圏の人々は英語学習に膨大な時間と金をかけます。そこには英語圏の人間が決定的に有利であるという事実に反対する思想が単なる理想論として片づけられ、経済的実利的利益偏重と、英語話者又は”英語が上手い人”の少数言語軽視が広がっています。(筆者は英語通訳も時々しますからこそこういうのでず)

さらに言語はある国の国民たる又はある民族に属するかを調べるリトマス試験紙でもありますから、「お前は何何人にもかかわらず、何々語が離せないのか」という責め言葉はどこの国でも有りそうです。これは国でなくても国の中の地域によってそれぞれ話される言葉が違う時、出身民族の言葉を充分取得していない時などに聞かれる文句ですね。

言語は国家と関わりが深い

言語はその性格ゆえ太古の時代から政治と深く結びついてきました。支配者民族・層の言葉を話せなければ、被支配民族のものは永久に上に上がれなかったし、支配層エリート層になるにはまず充分その言語が使えなければなりません。中国の科挙試験はその際足るものですね。

どんな昔でもどんな国であれ国というものが成立すれば、その国は公用の言語を決めなければなりません、明文化か慣習化は別にしてです。民を統一するに言語なくしてはできませんからね。その言語が支配層の言語であることが普通は一般的ですが、時には借り物の言語を使って支配言語にすることも行われてきました。中世のヨーロッパでフランス語が支配貴族の中で果たした役割、中国の清王朝での漢語の役割、近代のアフリカとアジアの植民地での支配言語はすべてよそもの言語、すなわち英仏語ですね。例えばマレーシアには宗主国の英国が英語も持ち込んで支配言語にしたわけです。

こういう事実と歴史をみてくれば、ある国の支配層つまり政治経済をつかさどる人々が、その国で話されることばに無関心ではとてもありえないことはおわかりになりますよね。無関心どころかその国の言語を決めるのは国の最大重要時なのです。この意味は何語を国語に決め、何語を公用語と認め、さらには何語を学校で教えるかにも及びます。

ある言語をなんと呼ぶか

ここで何語と書きましたが、この何語という名称自体がもうきわめてやっかいです。ある言葉自体が自身を何語と呼ぶわけではありません。その言葉を使う人がその言葉に名づけてやるのです。ではどうやって?

ある民族が何民族と呼ばれれば、その民の多数が話す言葉をその民族名をとって何語と呼ぶのが一般的です。中国のことばが「中国語」と呼ばれるように。チベット人の言葉がチベット語であるように。日本人の話すことばが日本語のように。でもことは簡単には片付きません。沖縄の言語、琉球語を話すつまり母語にする人ももちろん日本人です。いやわれらは琉球人であって、大和民族でない、国籍が日本だけなのだ、という主張もありますから。

注:母語とはある人が生まれ育つ過程で一番身近に自然に覚える言葉をいう。つまり一般的には母親のことばである場合がほとんど。母語が母国語と同じ場合も違う場合もあるから、直接関係はない。母語と母国語の区別は非常に大切です。

日本のように少数民族の極めて少ない国では一般に、国語の名称決定に争いを呼ぶことはありませんが、世界の国にその国の言語に何を選ぶとかそれを何と呼ぶかで争いのある国はいくらでもあります。
マレーシアでもマレーシア語は総意の上で憲法でも国語と決められていますが、それを如何呼ぶかつまりマレーシア語Bahasa Malaysiaかマレー語Bahasa Mulayuかという問題があります。これは97年の第 40回コラムで扱いましたので参照して下さい。

同じことばが地域・国によって別の名称を持つのはなぜか

しかし民族がその内部で分化していてそれぞれが似た言葉を話す時では、それを如何呼んだらいいのでしょうか。これはまことに厄介な問題です、なぜならそれは国の権益に、面子に直接かかわるからです。民族の居住範囲と国境は一致しません。ある国にそのA民族が多数は住むが国境外につまり他国にそのおなじ民族が住むのは世界至る所にありますね。むしろ一つの民族がどこの国にも分離したグループを持っていないなんてほとんどありません。

マレーシアに関係ある民族でいえば、サラワク州のイバン族、インドネシアのカリマンタンに同じイバン族が何十万か住んでいます。サバ州のバジャウ族、これも同じバジャウ族がフィリピンのスルー海の島々に住んでいます。

その時、A国の政府はその国の言語を普通は多数である a民族の言語にちなんで名つけます。隣接するB国には隣国A国の多数派a民族の一部が住んでいます。もしB国もA国の多数派a民族が多数派を占めれば言語名を同じにしてもそれほど差し支えはないでしょう。しかし普通はB国に住むa民族は少数派で、彼らの言語がB国の国語になることは少ないです。こういう状況下でB国はその a民族の言葉を A国とは別の呼称にする場合がでてきます。民族が隣国に別れていると、その少数民族を抱えるある国にとって不安要因であることは、歴史上だけでなく現代世界を見回しただけでもあきらかですね。

パキスタンの国語はウルドー語、でもそれは隣国インドの国語ヒンヅー語と実質的に同じです。「それぞれの文字と語彙を問題にしなければ、日常会話レベルでの両者の差はほとんどない。実際、ウルドー語ともヒンディー語とも規定することのできない単純化された口語が、パキスタンや北インドにおいては共通語として、実に1億6千万人以上もの人々によって話されている」( ウルドー語学者 麻田豊氏の言葉)

同じとは言えないけど起源と基になった言語ムラーユ語を基にして作り上げたインドネシア語とマレーシア語、どちらも昔からこういう言語があったわけでなく、いずれも20世紀にそれぞれの国でもとの言語を少しずつ整備変化させて国語に育て上げていったわけです。結構違いはあるものの、もともとの基盤言語が同じだから、それぞれの話者が互いに学習しなくても相当程度理解できるわけです。このように言語名が違っているから互いに通じないということではない、という例は世界いくらでもあります。

同類ことばも当然のごとく言語化するヨーロッパ

ヨーロッパのスカンジナビア諸国の言語、デンマーク、スエーデン、ノルウエーそれにアイスランドもそれぞれが国名の言語を国語にしてますが、その違いはインドネシア語とマレーシア語のちがいより幾分小さそうです。書かれた文章をくらべればどこが違うのかがわからないくらいですし、北欧諸国の人たちは別にそれぞれの国の言葉を習わなくても充分理解し新聞も読めるのです。

ヨーロッパ諸言語は互いの類似性近似性が高いので(印欧語族)、例えばスペイン語とイタリア語、どちらかによく通じておれば書かれたスペイン語なりイタリア語を読むのは楽だといわれています。フランス語の知識があれば他のロマンス語つまりインタリア語とかスペイン語の文章内容の推測は決して難しくありません。

このように言語名が即言語間なり民族間の距離を示すわけではありません、ヨーロッパでは民族学的にたいして変わらない民族がそれぞれ別に別れて国を形成しています、またはある国から独立して別の国を作ってきたのです。姿振る舞いを見て、あれはどちらがスエーデン人でこちらがノルウエー人だと見分けることなんて北欧人でもできませんし、チェコ人とスロバキア人を見分けることはチェコ人だって不可能です。

ヨーロッパはこのように民族の細分化と国語の細分化をよんでおり、多少でも違えばそれを一つの国語に格上げするのです。ここで国語と使いましたが、なぜでしょう、国語はある国の基本要件の一つだからです。方言ではある国にとってカッコ悪いからでしょう。

チェコ語とスロバキア語なんて東京弁と関西弁の違いだといわれるぐらいにもかかわらず、それぞれそれ母語にする人は言語と呼びます。「チェコ語とスロバキア語との関係は非常に近い。両者は互いに母語で話してもほぼ完全に理解しあうことができる。」(チェコ語・スロバキア語学者 長輿進氏の言葉)

言語の生れる背景

ここにことばを「言語」と呼ぶ一番の論理があるのです。つまりある民族の自立なり国の独立なりを考える時、その民族の話す言葉を他国の国語又は他国に住む同質的な民族と同じにしないような意識が支配層に、時には民衆にも働くわけです。ですからある言語にものすごく似ている言語でも別の名称をつけて呼ぶのです。

つまり言語の名称はまこと政治的な産物なのです。残念ながら純言語学的に決定されること、区分されることは大変少ないのです。言語はある国、ある民族の心でもあると形容されるぐらいですから、国という垣根が存在する限りこの政治の言語名への干渉はなくならないでしょう。

筆者は延々とこの長い導入を書いたのはまずこういう知識を読者に共有していただきたかったわけです。これがないとこれから述べる本題がまったく理解されないことになりますから。今回は別に言語学入門を書いてるわけではありません、あくまでもマレーシアの中国語とその「方言」についてです。

華僑から華人へ

マレーシアの総人口の3割弱を占める華人、華人系マレーシア人のこと、はいうまでもなくその先祖が19世紀20世紀に中国大陸から移住してきた後世代です。当時の中国は世界各地への労働力供給地でしたから、何百何千万の中国人、そのほとんどは南方中国出身、が東南アジア、アメリカ大陸、オーストラリア、ヨーロッパへ出稼ぎに出かけたわけです、出稼ぎであったたため彼らは華僑と呼ばれたのですが、実際ほとんどの中国人は里帰りは別にして、二度と大陸に戻っていません。やがてその国の国籍を取得して土着か、つまりもう華僑ではなく華人系何々人になるわけです。それがマレーシアの華人でもあります。

近年中国人という国を意識させる言葉より華人という言葉が多く持ちいられるようになったので、筆者も華人という言葉を使います。華人という言葉は中立的な意味合いを持ち、その言語を華語というように、中国つまり中華人民協和国又は台湾つまり中華民国とは一歩離れた存在として使えるからです。

さてマレーシアの華人もその出身地によっていくつかの「方言」を話しておりその「方言」幇(パンと呼ぶ)毎に得意の商売があり居住地も固まっていました。ですからそれぞれが話す「方言」は当時の華僑にはたいへん重要でした。

やがて時代は下りマレーシア独立、それとともにマレーシアに住んでいる華僑もマレーシア国籍を取る人が増え、もう現在では華僑と呼ばれる人を探すのは難しいのです。それとともに学校教育では華語(日本でいう中国語)による教育が公教育として確立し、華人は華語を読み書きできるようになる華人が増大していったわけです。

華人の共通語たる華語

現在では華語教育を受けた華人なら日常生活には困らない程度に使える華人が100%近くなり、文字通り華人間の共通語となっています。ただ小学校から英語教育を受けている華人も少なからずいますから、華人だからといって華語が話せる、読み書きできるわけではありません。一般的な華人の姿を見れば、母語として広東語とか福建語とか客家語を話すが、学校教育では華語を習いそれをコミュニケーションの手段化するという形です。

華語はマレーシアの華人間だけの共通語ではなく、中国では全国の共通語として普通話(プートンホア)と呼ばれ、台湾では国語と呼ばれ、日本では中国語と呼ばれ、海外の華人のなかには北京語と呼ぶ人もいます、また華語では中文とも書きます。このように呼ぶ立場によってこうも呼称が違うことが言語の政治性を叙述に現しています。なお普通話は北京語でなく北京官話を元にして作り上げていった言語です、ちょうど東京方言を元にして標準語を生み出したように。(正確にいえば、普通話と日本標準語の役割は違う)

出身地が即「方言」幇パンとなる

中国語は言語学的にいえば、漢民族、中国は漢民族が9割以上を占める、の言語であるので漢語というのが一番中立的な呼び名ですね。そしてこの中国語は言語学的には5大「方言」に別れます。1.北京方言を代表とする北方語、2 上海語を代表とする呉語、 3 福建語、福州語を代表とするビン語(漢字がでないのでかな書きします、門かまえに虫と書きます)、4 客家語、5 広東語を代表とする粤語です。

よく華人にお前は何人かと聞く時、相手の答えに期待するのは先祖の出身地別に、それが即「方言」地図と一致している、広東人、福建人、客家人などということです。もうそんなことは関係ないと考える人ももちろんいます。この出身地つまりその言語がその人の母語になるのが多いのですが、現代ではあえて華語を母語にしている若い世代も増えているようです。また英語教育を受けた世代の子供には英語を母語化させてもいます。

複数言語生活をよぎなくされるマレーシア社会

こうして現代のマレーシア華人の言語状況は結構複雑になっています。母語として家族友人間では広東語を話し、学校で華語教育受けたから新聞は華語新聞を読み、ビジネス場は英語と華語を話し、マレー人相手にはマレーシア語で話すというように。マレーシア国民である限りマレーシア語教育は必須科目で小学校1年からその授業はあり、上級学校へ進学するにはマレーシア語科目で合格しなければ残り科目がいくらよくても進学できません。

少数民族のごく少ない日本人は単一言語生活ですから、これに驚く人が多いですが、複数言語生活を送らざるを得ない国地域は世界至る所にありますから、それほど特別ということではありません。で華人はこれに負担を感じないでしょうか、そりゃ負担でしょう。いくら子供時代から学習するといっても3言語、マレーシア語、華語、英語ですべて優れている成績を残すのはたやすいことではないでしょう。3言語の負担を訴える新聞の投書を読んだこともありますし、日常的に華人系マレーシア人と接しているとこれはよく感じます。

考えていただければよくわかるように、トゥリリンガルになるのは誰であれ容易ではありませんよね。ですから華人がその話す英語がManglish(マレーシア英語のこと、98年の第94回を参照して下さい)になったり、マレーシア語で日常会話はできても書かれた公文書は読めないという人が結構いても別に不思議ではありません。

日常よく使う口語は「方言」である

で問題の華語と母語である広東語とか福建語とか客家語などの関係ですが、これに関してはそれほど負担にならないでしょう。なぜなら母語は完全に口語として存在し、それで読み書きしません、中国語で読み書きする時は華語を使うわけです。ですから習う必要があるわけですが、マレーシア華人にとって広東語とか福建語はあくまでも俗な口語にすぎず、高級言語としての華語の下に位置します。それで彼らは広東語とか福建語とか客家語などを政府の呼ぶように「方言」と呼んでなんら疑問を感じないのです。

華語は世界の華人にとって共通語的役割を果たすだけでなく”中国人”としてのアイデンティティの源でありますから、華語の重要性と必要性は筆者にもよくわかりますし、それに疑問を挟むものでもありません。もちろん公教育での華語教育にも賛成いたします。しかしそうだからといって、自分たちの母語である広東語とか福建語とか客家語などを俗な方言・口語と考える発想は一体どこからくるものでしょうか。

これを考える前に華語と「方言」とくに広東語の関係に少し触れておきます。マレーシア華人界にはテレビの中国語番組から広東語番組、香港製作もマレーシア製作もある、をなくし華語番組だけにすべきだという根強い主張があります。反対に香港番組は面白いから、それに反対という意見ももちろんあります。

マレーシアの華人界のこの論争は言語対言語という形でなく、高級言語である華語 対 「方言」の1種にすぎず華人の全てが理解できない広東語、という形で現れているのです。たとえば筆者がたまたま見た華語紙「星洲日報」で、マレーシア華語正音委員会主席(委員長ということ)が次のような論旨の意見を述べていました。

以下記事から:
私は「方言」を話すことにに反対するわけではありません。しかし方言は家庭内での母語に限るべきです、華語が文化的な母語なのです。マレーシア各地で種種の「方言」が使われているにもかかわらず、マレーシアの中国語テレビ放送局はなぜ多くの広東語番組を今でも放送しているのでしょうか?(広東語を解さない)他の地域の華人を充分尊重していないことになります。私は各地で華語推進の活動をしてきたが、多くの人が放送局の「方言」使用に不満を持っているのです。

以前中国語小学校では教師が「方言」を使って授業を進めてきましたが、今や華語を使っています。状況は大きく変化したのです。さらに新しい世代の華語水準はずっと進歩しています。

(香港製の番組がよくあることに触れて)確かに香港の娯楽は影響が大きいが、彼らのことばまで取り入れる必要はない。マレーシアもシンガポールのように香港番組を華語に吹き替えればいいのです。

メディア放送は多くの人に大きな影響を与えます。それゆえ彼らは商業的利益だけを考えてはいけない、文化的使命も考えなければならない。

以上、98年12月20日付け「星洲日報」の記事から筆者抄訳

筆者も、マレーシア華人で広東語を解する人は4分の一ぐらいしかいないのに「方言」の中で広東語だけが優遇されることに疑問を持たないわけではありません。広東語と同じくらい話者の多い福建語の放送だってたまにはあっていいのではと思います、しかし華語論者はそういう面からの広東語番組反対でなく、俗な「方言」の番組をなぜいつまでも放送しているのか、中国語唯一の「言語」である華語に統一しろというわけです。ですから上記の論者も「方言」は家庭内にとどめておき、文化語の華語を母語にしろ、と言っているわけです。

文化とかい離したことばは存在しない

こういう主張が主流ですが、そこに流れる思想は、「方言」だから、口語だから華語教育のじゃまになる、華人の文化言語は華語なのだという、非科学的信念です。あることばが文化から遊離して存在することはありません、ことばと文化はきっても切れない関係なのです。「方言」を家庭内に閉じ込め、文化からき切りはなそう(上記の主張)なんてことは不可能です。

コンピューター言語であるまいし、文化を持たないことば、それはなんでしょう。結局こういう論者の言わんとすることは、「方言」の死滅化を願っていることになります。でなぜそこまで「方言」に彼らはハンタイするのでしょうか。ハリウッド映画の放送には吹き替えナシが一般的な国で、広東語番組の放送だけは「華語」に吹き替えろという発想はどこからでてくるのでしょうか。

この主流派の主張に対して、広東語は多くの華人に娯楽面で親しまれている香港歌と映画で使われているから、仕方がないんだ、華語に吹き替えてしまうと面白味がなくなるというのが一般的な反論です。一理はある反論です。しかし残念ながらそれでは相手の土俵で娯楽面だけを強調して反論しているだけで、本質的な反論になっていません。

中華思想が生み出す華人の「方言」概念

なぜ反論がこの段階でとまってしまうかを考えると、そこには華人全体に共通した「方言」概念のせいとそれを生み出した中華思想がその根本にあるのです。それを筆者はここで説いてみます。

広東語とか福建語などの漢語に属する諸言語を、中国は伝統的に上記で挙げたように5大「方言」と呼び習わしてきました。中国人は一つであるという強大な中華思想の最たるものですが、これは近代言語学の分類と定義からは否定されるものなのです。しかしそこは国という権力を基盤にした共同体ですから、学問が如何いおうと、こうと決めればそれを押し通すだけです。歴史学とか言語学のような人文科学は自然科学と違って、政治の影響を受けやすいのは世界共通の現象ですからね。

例えばアルコールは普通液体だから気体のアルコールなんてありえない、それはアルコールでなく別の物質だとは決め付けられませんね。しかし言語は違います、上記でながながと説明したように、言語の呼び名から地位まで国はつまり政治は恣意的に決めるのです。ですからヨーロッパではA言語B言語と呼ばれるような間柄の複数言語が、中国では伝統的にA方言、B方言と呼ばれてきました。これまでこのページで方言を「 」 つきで筆者が使ったのは、このような意味合いからです。

マレーシア政府もマレーシア華人の文化団体政治団体もすべてこの種の伝統的呼称を踏襲しています。なぜならそのほうが彼らには都合がいいからで、別に言語学者に研究を依頼して決めたわけではありません。偉大なる中華思想はマレーシアの地にも生きているのです。華人は一つ、中国「語」も一つ。「多講華語、少講方言」という思想を広めるためには、広東語とか福建語とか客家語が言語であっては困るのです。それらは華語の下に位置する方言口語にしか過ぎないのです、少なくともそういう思想を広める彼らにとっては。しかし実際は、広東語と福建語は書記体を持っており、香港台湾では少ないながらも書記言語としても使われています。

こういう政府の言語プロパガンダに対して華人は普通何ら疑問を抱きません、無理もありません、子供の時からそれは方言だよと、言われつづけてきたし、公的書類にも母語はどういう「方言」か書きなさいとなってますから。

ですからマレーシアの華人の100人に聞いたら100人から広東語とか福建語は「方言」という答えが返ってきます。相当程度言語学の知識があるか、こういう国家の思想を理解する人でないと、この「方言」というプロパガンダには気がつきません。筆者はこれまでに時々このことを華人に話しましたが、理解してくれるのは10人中2,3人ですね。

マレーシアの中国語マスコミでの言語の扱われ方

こうしてマレーシア政府・華人支配層はマレーシアの華人に対して華語の積極利用を推進し、学校教育では華語国民小学校及び中高学校では科目としてだけでなく媒介語としても華語が使われているのです。公営のラジオテレビ局RTMの華語放送は基本的にすべて華語です。ラジオでは10分ほどの「各方言」ニュース以外は華語ばかりですし、テレビでもニュースはすべて華語です。ただし香港映画などはそのまま放送される。民営中国語ラジオ放送局は比較的自由に「方言」を、といっても広東語ですが、使って放送しています。

政府支配層がこういうことにどれくらい神経質であるかを示す出来事の一つにこんなのがあります。去年人気華人系マレーシア人歌手の 阿牛が彼の新曲で, "I speak Mandarin,English, Hokken" という歌詞を使ったため、まもなく彼のその新曲は民営ラジオ局を含めて放送禁止になりました。ただし販売禁止ではありません。Hokkenというのは福建語のことです。阿牛はペナン出身の福建人なので、彼の母語としての福建語を話しますと歌詞に入れただけでしょうが、当局はそれを許さなかったわけです。

中国語諸語の違いは相当ある

ここは中国語学の解説場でありませんから、広東語とか福建語が華語とどれほど違うとかどれくらい近似性を持つかは述べません。いずれにしろ習わなければ又は子供時に自然習得しなければ自分と違う相手の「方言」又は華語はまったく理解できません。例えば広東語を母語とする話者は習ったことのない福建語はほとんどわかりません。英語教育受けた華人なら華語を話せない人は普通です。

筆者の知識からいって、華語と広東語の距離は、あまりいいたとえではありませんが、フランス語とスペイン語の違いより大きいかなぐらいです。又はドイツ語とオランダ語の違いぐらいかなですね。(言語学的にこういう比較はよくないが、わかりやすいたとえです)

中国は超広大でロシアを除いたヨーロッパよりも大きく、人口ははるかに総ヨーロッパのそれを凌駕します。北方漢民族と南方漢民族の違いはよくとりざたされます。この広大な中国にいくつかの類似又は姉妹の漢語が話されていても何ら不思議ではありません、いやその方が自然なのです。しかし中華思想は強い、学問の結果など目じゃないのだ。

筆者の言いたいこと

筆者はマレーシア華人がその母語である広東語とか福建語とか客家語などを言語と呼ばなければならない、それは間違っていると説得してるわけではありません。そんなことは不可能、強大な国家権力と中華思想で固められた「方言」化思想をひっくり返すなんて、大海に沈んだ針を探すようなものです。

筆者がマレーシア華人に訴えたいのは、言語に働く国家の思想にいくらかでも気づいて欲しいということであり、又言語を政治的な道具にしてはいけないというささやかな抵抗の精神です。

筆者は中国語諸言語の専門家ではありませんので、最後に虎の威を借りる訳ではありませんが、専門家の言葉を、読者の皆さんの中の ”それでも納得できない”方のために引用しておきます。著名な言語学者で中国語言語学の権威者であった故橋本万太郎・東京外語大学教授の著書「言語類型地理論」の1節です。

「我々はビン語(上記参照)を”中国語”の”方言”とみなすことに、政治的・文化的な立場から反対しているのではない。ただ言語学的にいうと、ここには大変な矛盾がある、と言ってるにすぎないのである。」

鯨を魚類であるとはいえない、しかし言語は

動物学上から、鯨やイルカは水中で生活していても魚類でなくて哺乳類です、これをある民族又は国がそれは魚類であると規定すればまことおかしなことになりますね。言語学がある言語とある言語の関係を解き明かします。例えばX言語と Y「方言」は同じ語族に属する言語であるとか、X言語とZ言語はおなじ言語であるとかです。しかしことばは所かわれば、A言語がB言語になり、C方言になるのです、つまりそういうふうに国家が規定するのです。言語とはまこと政治的な存在なのです。



ランカウイ群島との連絡ボートが離発着する桟橋風景


ランカウイ本島唯一の町 Kuahのはずれは波止場です、そこは半島部へ/からのフェリー便が発着する大きく近代的フェリーターミナルが相当な場所を占めています。ターミナル内の乗り場からすぐ横手に見える距離に、ヨットハーバーとクラブハウスがその素敵な姿でフェリー乗り場の乗客の目を奪っています。ヨットハーバーに停泊している数十の大小のヨット、ハーバーを見下ろすように建つレストラン付き瀟洒なクラブハウス、いずれもランカウイ島の名を国外に広めるにふさわしい存在ですね。

そのヨットハーバーとフェリーターミナルに挟まれた浜辺の一角に、島巡りのツアー客用の小型スピードボートが離発着する桟橋が1本だけあります、長さも幅も小さな木の桟橋ですが、常時、観光客相手のきれいな小型ボートが停泊しています。この桟橋一帯には建物もなく地面も舗装されてないので、あまりぱっとしませんが、時折発着するボートがそこも波止場なんだなと感じさせます。(このトピックスに関係ある写真は旅行者・在住者のためになるページの「ランカウイ」項目に載せてあります。後でご覧ください)

観光客のためだけでない小さな桟橋

ここまではいかにも観光の島らしい風景です。でもこの桟橋は単に観光客相手のスピードボートの乗り降りのためだけにあるのではありません、ランカウイ島外の小島に住む住民の足である連絡ボートが離発着する桟橋でもあります。しかしこの桟橋の大部分は観光客相手のスピードボートに占領され、島からの連絡ボートは桟橋の根元部の一部を使用しているにすぎません。

連絡便がずっと少ない小さな島とランカウイ本島をつなぐ連絡ボートは桟橋も使えず、それはその船の高さが桟橋に合わないのか係留の権利がないのかはっきりしませんが、桟橋でなく桟橋横の浜辺に直接着きます。といっても完全に水がない場所にボートが止まるわけではわけでないので、10人前後の乗客はひざ下ほどの深さの波打ち際に飛び降りなければなりません。マレー衣装のBaju Kurungのすそを捲って船首から波打ち際に飛び降りる女性や子供、小さな子供を抱きかかえてなんとか足を下ろす女性、この様子だけをみると、一瞬離れ島の浜辺についた連絡ボートを思わせます。しかしここはランカウイなのです。

すそをぬらしながら水際に飛び降りる島民は、カメラを肩からさげサングラスをかけ、桟橋を歩いている、スピードボートで出発を待つ観光客に何を思うのでしょうか。

みすばらしい屋根もまともにないその小さな連絡ボートから数十メートルも離れてないところには、1漕何十万か何百万リンギット知りませんが、瀟洒なヨットが停泊し、白人たちが時折行き来しています。

またそこから数十mしか離れていないフェリーターミナルの桟橋には冷房付きのかっこいいフェリーが碇泊しています。そのターミナルの間際には ”Welcom to Langkawi" の大きな看板。それぞれの島から毎日ランカウイ本島へ渡ってくる島民の目にこの看板はどう映っているのだろう。もっとも島民は多分波止場の風景なぞ気にしないのかもしれませんね。

島民に待合所は木の下の椅子

この島巡りの観光スピードボート用兼渡島連絡ボート用の桟橋の近くにはみすぼらしい小屋があり、木の簡単な長椅子が数個、その前に木で作った椅子が数個、少し離れた所に木の下にも椅子がいくつか、たったそれだけが渡島連絡ボートの乗客つまり島住民の”待ち合い場所”です。雨が降ってもまともに雨除けの場所はありません、暑い太陽の光をどうやら遮る程度です。毎日行き来する島民の待ち合い場所を雨の防げる小屋に”格上げ”しても、ヨットハーバーに碇泊する小型ヨットのいかり1個ぐらいのものではないかな。

筆者はそこに座って新聞みたり人々の様子を見ながら Pulau Tuba行きの連絡ボートの発船を待っていました。いやがおうでも目の前のヨットハーバーが目に入ります。島の住民は一生乗ることはないであろう高価なかっこいいヨットが碇泊したヨットハーバーとクラブハウスが数年前に建設される前から、この木の下待ち合い場所と連絡ボートはあったはずです。ヨットハーバーできたからといって、ランカウイ島へ通学通勤又は買い物に渡ってくる島民にきっとなんの感激も影響もないのでしょう。

島住民の連絡ボートが到着すると、大抵の乗客は浜辺で待っているバンに乗ってどこかへ立ち去っていきます。

なんの表示もない渡島ボートの発着所

さて観光客におなじみの Plau PayarとかPlau Dayang Buntingへはここから観光ボートがでます。ランカウイの何十とある島にはほとんど住民が住んでいませんが、その中で一番島住民の数が多い Plau Tubaへは Kuah 波止場のこの桟橋から連絡船が出るのです。Plau Tubaへ渡る連絡船のほとんど全部は島住民ですし、他の小島への連絡ボートもいずれ島住民専用と言って間違いないようですので、この桟橋付近にはボートの行き先表示とか発着時刻の表示はまったくありません。ですから待っている住民に聞くか、桟橋に着いたボート操作者に聞くしかありません。人が適当に集まったら出発ですから、乗客はただ気長に待つしかありません。

1時間を超える待ち時間後に、PulauTuba行きの10人の乗りほどの小さなボートが出発することになり、筆者も乗り込みました。Kuah海峡を超えてPulau Tubaへ渡る間ゆれるしぶきのかかるボートからみるランカウイの風景は、半島から高速フェリーでKuah波止場につく時の風景とは違って感じますね。それは乗った船の大きさの単なる違いと冷房のあるなしの違いに起因するものなんでしょうか。



ハリラヤ祝日のオープンハウスに思う


オープンハウスとは、マレーシア特有の意味を持たせた言葉です。祭日とか何かのお祝い事時に、住居、宿舎などを民族宗教に関わらず普段は直接関係ない人に開放して、飲食物を無料で供することです。オープンハウスがもっとも盛んな時期は、何といってもムスリムの祝日であるHari Raya Puasaの時です。その他中国正月とかデーパバリ祝日時にもオープンハウスが主に政界人によって開かれますが、Hari Raya時の方がずっと盛んですね。この時は単に政界人だけでなく、普通の人たちも家族友人同僚を招いてオープンハウスを催す、と言われています。

州首相のオープンハウスに行ってみた

さて今年のハリラヤプアサの初日(1月19日)にスランゴール州の州首相主宰のオープンハウスが開かれることを知ったので、筆者は車を持っている友人を誘って行ってきました。場所は州都シャーアラムの高級住宅地の一画にある州首相官舎です。車がないととても不便なところですが、その近くに着いたら、千台をはるかに超えると思える駐車がすでに道路一帯を占領していました。 皆さん、よく知ってますね、というのがまず感じたことです。もっとも官舎でオープンハウスは毎年開かれるのでしょうから、興味ある人なら知ってて当たり前ですけど。

マハティール首相初め政界トップ人のオープンハウスの話題はいつも新聞に載るし、また州首相官舎が一般人に無条件で開かれるのは、恐らくこの時しかないので、筆者はそれがどのような行われ、官舎内部がどれほど大きいのか実際に見てみたかったわけです。昨年マハティール首相のオープンハウスに行ってみようと思ったのですが、首相官邸までの足がなくてあきらめました。

訪問者の多さにびっくり

官舎の門をくぐると、すでに多くの訪問客が食べたりまたは料理を求めて動き回っていました。バイキングスタイルの料理が並んでいる庭のテーブル前は人また人の混雑で、皿とかフォーク類が訪問者数に比してずっと不足していたので、まず皿を手に入れることから始まり、さらにテーブル前で順番を待ちと、料理を取るまでに一苦労です。いつもながらのマレーシア人流の我先現象ですから、おとなしく後ろに並んでいてはいつまでたっても物にはありつけません。もっともオープンハウスの無料飲食自体には初めからそれほど期待してませんでしたが、やはり満足な料理は食べられませんでした。

料理を入手しても庭に取り付けられたテント下のテーブルと椅子は既に満席とゴミの山で、立って食べてる人も多いのです。官舎の冷房付き大ホール内でもバイキング料理が振る舞われており、そこの方が各種料理豊富ですが、まあ料理食べるのが目的でないので、そういうことはあきらめ人々の姿を眺めておりました。とにかく実に人が多い、次から次へと訪問者がやってくるのです。21日の新聞は、1万5千人が訪れたと伝えていました。

無料飲食に引かれてやってきたのか、筆者のようにもの珍しさでやってきたのか、それとも州首相と握手するためにやってきたのか、知るすべはありません。官舎内の1室では州首相が訪問客と握手していたそうですが、筆者にはそういう興味は全くありませんので、パス。

ここにもある見慣れた光景

マレーシアの催しにつきもので見慣れた光景に運転手付き高級車ベンツの群れがあります。官舎の門に立つ警備の警官、意外にもたった2人しか目に入らなかった、の許可を受けて庭先まで入ってきて、我がもの顔で駐車しているベンツの数は10台を超えていましたが、どうせ州かUMNOの高官か又は友人や親戚一族でしょう。たまたまベンツから降りてきたのはきれいなBaju に身をくるんだ子供とその母親らしき一行でした。政治家とか州幹部だけの集まりならともかく、一般向けのこういう機会にもVIP待遇を好む又はそれを許す風潮は筆者には理解できませんが、マレーシア人はそんなこと当たり前さのごとく気にしてないようですね。

各民族仲良く無料飲食を楽しんでいる

筆者はこのオープンハウスに行く前は、訪問者はマレー人が絶対多数だと思っていたのですが、そうではなく華人とインド人の訪問者が合わせて半数近くを占めているように見えました。こういう各民族の垣根なくハリラヤのひとときを、その目的は何であれ、いっしょに祝うことができることがマレーシアのよさですね。きれいなインド衣装、サリーなど、に身をまとったインド人、Baju KubayaやBaju Mulayuを着たマレー人、カジュアル着の華人と衣服は様々ですが、無料料理にありつく心とハリラヤを楽しむ心は互いにどこかでつながっているわけです。

世界に断食月明けのハリラヤプアサを国家挙げて祝うイスラム国はいくらでもありますね。しかしムスリムだけ又は絶対多数の国でムスリムだけがハリラヤを祝うのでなく、ムスリム人口が3分の2を切る国で、少数派民族も混じって、少なくとも表面上は仲良くハリラヤを楽しんでいる、そういうマレーシアの良さはやはり強調すべきですね。いい悪いは別にして、一般に権威を持った者に弱く比較的従順なマレーシア人ですが、民族間の融和を成功裏に成し遂げた利点はやはり賞賛に値する、と筆者は思います。

無料だから行くといういじきたない心理もある

但し下記のような見方もあることを付け加えておかねばなりません。それがなければ今年のマハティール首相のオープンハウスに4万人、アブドゥラー副首相のオープンハウスに3万人もの訪問者があったことはちょっと説明がつきませんからね。

「そういう機会にオープン訪問する人の多くが精神病をわずらっている訳ではない、個人的欲張り心と自己中心主義をわずらっていると考えます。キーワードは”無料”なんですよ。だから多くの会社がマーケッティング手段として販促手段としてその”無料”を利用するのです。 オープンハウスの場合、無料飲食がたいへん人を誘惑するのです、特にハリラヤ時は多くの店が閉まっていますから。」と地元大学のある心理学者は、オープンハウスに集まった人の”我先現象”とマナーの悪さを批評しています。別の学者は「人がやれば自分もやっていいという、群集心理もあります。」

参考:この様子を伝える写真が旅行者・在住者のためになるページ内の「休日とカレンダー」にありますのでご覧ください。



たむろするマレー若者男たち


クアラルンプールで一番観光客に好まれるというチャイナタウンですが、そこから一本道路を挟んだところに位置するセントラルマーケットは、マレー民芸品を中心とした土産店がたくさん入居していることで知られています。それだけでなく有名中国レストラン、パブ、インド料理大衆レストランもあり、屋内ホーカーセンター(屋台風の店が集まっている)も2階にあります。ですからいつも外国からの観光客がうろついているし、マレー人を中心にしてマレーシア人もよく訪れるところです。

セントラルマーケットの裏には小さなステージがあり、時々マレーシアの民俗芸能などが上演されますし、正面玄関前にも特別シーズンには特設舞台が作られ、芸能が演じられます。筆者もそれを見にたまに訪れます。

セントラルマーケット横はマレー人のつどう地

さてセントラルマーケット脇の道路を Jalan Hang Kastriといい、車の通行のないいわば歩行者天国です。ここは平日の朝と昼は別にして、マレー人若者がたむろする場所なのです。土曜日の午後から、祝日を含めて日曜の夜までこの小さな通りはマレー若者に占領されるかの様相を示します。その中にはマレー人カップルや少し年配のマレー男性ももちろん混じっていますが、なんといっても若いマレー男が圧倒的に多いのです。彼らは何をするでもなく歩道の縁や街頭樹の下段に腰をかけ、たむろしています。そのスタイルにいわゆるしゃがみスタイルが結構あるので、なんともおかしく、どこでも若者はこういうことが好きなんだな、と苦笑します。

最近はこのマレー人若者の群れとは別に外国人労働者のグループをちらほら見かけるようになったのですが、それでも力関係はほとんどかわりません。なおこの通りではマレー人のよく物売りが地面に物を並べて売っています、もっともこれは違法なので取り締まりに合うこともあるのです。蛇足ですが、怪しげなマレー香具師を見たければチョーキット地区へ行くことをお勧めします。

それぞれ民族別にある若者のつどう地

華人の若者連れはここを通り過ぎることはあっても、この通り付近でたむろすることはまったくありません。無理もないでしょう、これだけマレー若者が集まってればちょっと場違いに思えますからね。でも華人若者には彼らのうろつき場所があり、チャイナタウンで近頃はやりの音楽喫茶店とかゲームセンターでたむろしており、見事な”すみわけ現象”が見られるので、ちょっと興味深いのです。もっともゲーセンではどの民族の若者も遊んでますけどね。

クアラルンプールの中心街にあって若者中心に集まる場所は、ここに限らずほとんどが民族別のつどう場所があり、マレー系はといえばこのセントラルマーケットとそこから程近い Kota Raya ショッピングセンター、Tuanku Abudul Rahman通りの Pertama ショッピングセンター付近などです。Chow Kit界隈はいうまでもないのでここでは触れません。Tuanku Abudul Rahman通りにある有名な SOGOデパート自体はいろんな民族が買い物とウインドーショッピングするのですが、SOGO玄関前のちょっと踊り場と階段は、セントラルマーケット脇と同じくマレー若者男たちのたむろ場所です。日曜日の午後などその幅ひろい階段に大勢の若者、ほとんどが男ばかり、が腰をかけておしゃべりしたり、何をするともなく時を過ごしているのです。

バスやバイクでやってきた彼らは若年層で間違いなく低所得者層ですから、当然 SOGO内の高級なレストランやちょっとしゃれた喫茶店には手が出ないのでしょう、安上がりな Sogo横の Pertama ショッピングセンターのホーカーセンターなどで飲食し、仲間とSOGO前でつるんでいるのです。

マレー若者男性の服装

この両方のたむろ場所に共通するのがマレー人若者たちの身なりと行動様式です。集まっている若者は圧倒的に男ばかりでその身につけている服装がジーンズに色彩感のない長袖シャツかTシャツ又は襟首シャツという決まったスタイルですから、描写することばは悪いが、電線に集団で停まっているすずめみたいに感じます。若い男ばかりで、「おまえたちはいつもいつもそんな同じ所ばかりに集まって何やってるのだ、彼女くらいいないのか」と心の中で思います(もっとも人のことは筆者もいえませんけど、それは置いておいて)。ただこう思うのは私ばかりでなく華人でも同じようで、あそこはマレー若者ばかりつるんでいるけどあいつら何してるのだろうと、時々言ってますよ。

いずこもおなじ若者は群れたがる

ただマレー若者男性の名誉のためにも言っておかなければならないのは、なにもこういう風に群れたがるのは、マレー人ばかりでなく華人もインド人も同じだということです。いろんなショッピングセンター、映画館、バスターミナルなど人の集まる場所で観察していれば、仕事上は別にして、自由時間はやはり同じ民族同士で行動しているのがごく普通です。そしてマレー人、華人の若者もインド人の若者もやはり同性同士が互いにグループで行動する方が多いですけど、その中では華人が一番男女混じって行動している割合が多いように見えます。

でまたマレー人若者たむろ現象に戻るのですが、それが目立つのはやはり彼らの集まるのが、有名場所だからでしょう。セントラルマーケットもSOGO前もクアラルンプールでは知られた場所ですからね、それにマレー人が一番数が多いから目立つからというのもあるでしょう。少数派のインド人では目立つ所を占有するなんてできませんからね。

単なる取り締まりでLepakはなくならない

先年政府や教育界の幹部が、若者のたむろ現象を非難して、学校教育の欠点を批判していました。こういう風にあてもなく若者が集まってぶらぶらすることを Lepakとマレーシア語でいうのですが、それが流行語になったぐらいです。この頃そのことばはほとんど聞かれなくなりました。別に若者のLepak現象が減ったわけではありません。学校での教育を多少変えたぐらいでこういう若者行動はなくならないでしょうし、禁止しきれるものでもないでしょう。都会の華やかな生活をつかみきれない又はなんとなく違和感を感じる若者が友達と連れ立って、いつもの場所にやってきて、くだらないおしゃべりをして過ごしていく、まあこれも都会の一面といってもいいのではないでしょうか。

そんな風に筆者は理解しようとしてます、でも男ばかりというのこれはどうもなじめませんな。



オランアスリを知っていますか


マレーシアの公的書類とか私企業、例えば銀行の申込書などに、性別と年齢以外に、よくその人の民族の種類を示す欄が設けてあります。次の当てはまるところに ”x”印を付けなさい、Malay, Chinese, Indian, Others という風にです。書類によっては Othersの場合は( )内にその民族名を書きなさいというのもあります。その名を書く欄がない場合、じゃ「私は特定の民族でなくて”その他”なのか、その他のマレーシア人なのだ」というような気持ちを抱いても、その人の立場に立ってみれば、おかしくありませんよね。

この Others つまりマレーシア語の書類なら Lain-lain という範疇に入るのは、総人口2千2百万の約1割ですから、決してそんなに少ない数ではありませんね。しかしそのLain-lainを構成する民族数は数十に上ります。特にサバ州サワラク州は先住民族数が多いので、民族名を全部あらかじめ書類に印刷しておくのはわずらわしい、ということは理解できます。しかし、Others ( )のカッコがないのはどうもいただけませんね。

おことわり:民族とは部族とは何かという定義はここで扱いません。そこまで踏み込むと専門家ならそれだけで1冊の本になりますから。またマレーシアには一つの民族 Satu Bangsaしかないんだという、政治的プロパガンダ又は政治的概念上の民族論の立ち場を筆者はとりません。

半島部のその他の民族であるオランアスリ

さてサバサラワク州はとりあえずここでは扱わないとして、半島部の Othersの筆頭に来るのは、多分オランアスリかもしれません。彼らはマレー半島の先住民族であると言われ、マレーシア政府の定義ではマレー人やサバ・サラワク州の先住民族と同じくBumiputeraつまり大地の子と言う意味の範疇にはいります。尚タイ系マレーシア人、先祖がスマトラから渡ってきたインドネシア系マレーシア人などもBumiputeraに含まれますが、華人とかインド人はこのBumiputeraには含まれません。

オランアスリをマレーシア政府内のオランアスリ関連庁による分類では、オランアスリ、人口10万弱、は3つのグループに分けられています、Negritos 約3千人、 Senoi 約5万人、Protp-Malay 約4万人強です。ただそれぞれのグループで更に慣習と信条と儀式を同じくする下位グループに別れているそうです。

一番少数グループのNegritosは遊牧民で、居住地は半島部全体に及んでいますが、北部州のPerak州、Kelantan州に比較的多いそうです。Senoisは本来は遊牧生活をしていたそうですが、今はPerak州、Kelantan州、Pahang州の丘陵地に定住しているのが多いそうです。それでも焼き畑の慣習は残しているようです。伝統的マレーカンポンの周辺に居住している Proto-Malayは、主にSelangor州、Negri Sembilan州、Malaka州、Johor州に住んでいます。

歴史学者によれば、こういうオランアスリの先祖は1万年前から3千年前までに中国南方から少しずつマレー半島部に移住してきたのです。そして多くのオランアスリは今もその伝統的生活である森の産品の採集生活と陸稲、タピオカ、メイズ、バナナなどを栽培する農業生活を維持しているそうです。このため必然的に彼らの村落・部落はジャングル周辺が主体にとなりますね。もちろんBlowpips(吹き矢)を使った狩猟と罠網を使った魚取りもその生活の一部だそうです。

名前は知っていても会う機会は少ない

「もっと知りたいマレーシア」などのマレーシアの解説・教養書をお読みになった方なら、書中でもオランアスリに軽く触れられていますから覚えてる方もあるでしょう、また国立公園Taman Negaraの案内パンフでもオランアスリ部落訪問などを載せていますから、その名前を聞いたことのある方もいらっしゃることでしょう。でも実際に会った、又は話した方はずっと少ないことと思います。筆者も旅をしていてごくたまに見かけたりする程度で、かるく言葉を交わした以外は、本格的に話しかけたことはありません。

先日人に連れられてスランゴール州のKuala Langat地方にある河川に面したレストランへいった時、そこで何人かのオランアスリの若い男女が働いていました。筆者は初めその姿格好からてっきりインドネシア人と思ったのですが、そうではなく、対岸の Carey島から働きにきているオランアスリだったのです。このようにオランアスリに出会うのは伝統的生活を守って暮らす僻地の村とか町の周辺であるとか、高度技能を要さない単純労働現場になってしまいます。もちろん公務員であるとか会社で働いているオランアスリももちろんありますが、数が極めて限られており、一般人にとってはという但し書き付きです。

それほど一般マレーシア人には接触の少ない民族ですから、ニュースの主流として登場することはありません、ニュースに現れるオランアスリは、開発の影響を受ける部落の民としてであり、就学率が多民族に比べてずっと悪く低所得の民としての扱われ方がほとんどです。それ以外に登場するのは、ジャングルトレッキングのガイドとしての森の人としてのイメージですね。

正直いって筆者も深いことを知らないので、残念ながらそういうイメージが中心になってしまいます。

貧しい極少数民族

オランアスリ人口ははマレーシア総人口の1%にもはるか満たないわずか10万人ほどですが、今だにマレーシアの各民族中で一番貧しいグループで、その8割が貧困層です。この理由からまたはその結果からか、オランアスリコミュニティーは国の発展の主流から取り残された状態にあり、それが時々ニュースに取り上げられるのです。

「オランアスリを管轄する関係当局も一般大衆もオランアスリの活気のない生活態度を非難しているのは悲しい現実です。オランアスリコミュニティーの社会的経済的発展を図って政府が割り当てた金と努力にも関わらず、彼らの発展速度は依然として遅いのです」と新聞The Starの記事は分析しています。

オランアスリ援助に打ち込む団体

この発展への妨げに立ち向かっているのが、コミュニティー研究と開発のための基金の僻地開発部門です。5年前に始まったそのパイオニア計画では、パハン州のPekan地区に住む5000人の Jakunコミュニティーの開発を目指してきました。「私たちの究極的目的は、地区のオランアスリが自分たちでできるようになることであり、発展の流れに統合化されていくことを見守ることなのです。」とこの僻地開発部門の代表は語っています。「彼らに他人依存症になって欲しくない、自立的で自分たちの運命を切り開いてほしいのです。」

この基金が直面する一番の困難な点は、オランアスリの思考法を変えていくことだそうです。基金がこの Jakunコミュニティー向けに起てた発展計画は当初2年計画だったのですが、それが5年に延びました、「思考法を変えていくには思った以上に時間がかかるものだ。一番の問題は彼らは人生をただ与えられたものだと捉え、自分たちの生活を向上させていくということを考えないことです。多くの人はこれを怠けからくる無気力状態と見ますが、これはオランアスリがさらされている情報が不足していることと彼らの生活している現状況から影響を受けていることが多分にあるのです。」 「我々は、オランアスリが自身で生活を変えていけるんだという自信を、なんとか彼らに植え付けようとしているのです、彼らは生活を向上させたいのです。」とこの僻地開発部門の代表は語っています。

この基金の実施するオランアスリ発展計画は6段階からなり、貧困軽減への話し合い、基本的インフラを建設、教育プログラム、収入を得るプロジェクト作り、コミュニティーを構成する、オランアスリ自身による貸付金組合を設立する、からなるそうです。こういう計画とプロジェクト実施にさいして、基金はしばしば公機関であるオランアスリ庁、半島部オランアスリ協会、その他州の保健所と農業部と連携するとのことです。

僻地開発部門の代表は、こういう公的機関のオランアスリへの対処の仕方に苦言を呈して、「物をあげるという方法はオランアスリに慈善への依存症を増すだけだ、発展のための対処法は命令式でなく参加型であるべきです。」と。関係当局がオランアスリに、どんな発展が彼らにいいのかということを課してしまう傾向があるという批判です。

この僻地開発部門はオランアスリからの信頼を得、彼らの思考法を変えていくことに困難を感じながらも、その任務にはやりがいがある、と語っています。

置かれた状況は不利である

こういう話を読むと、確かに少数派で”遅れた”民族のオランアスリ問題は一筋縄でいかないことはよくわかります。オランアスリがその伝統的生活法と思考法を短期間に変えることができるのかどうか知りませんが、それが本当に彼らのためになるのかな、という疑問もわかないこともないではありません。僻地に住み都会の暮らしとは一線を画している彼らが、いくらがんばっても他民族に経済的にかなうことはないでしょう。もちろん政治面でも同じです。わずか10万人の極少数派では政治的に力を持ち得ませんから。

しかしまともな上水設備も電気もなく暮らしていく生活、町の外れで文化生活から切り離された集団のごとく生活している現状を知れば、それではいけないという気も強くします。これは世界至る所にある、主流の繁栄から切り離された少数民族に共通する問題です。いくら考えても簡単にうまい処方箋の出る問題でないことは確かです、決して開発か伝統生活保護かの2者択一では片付かないのです。

このコラムは98年12月27日付けThe Starの「貧困の中で」という記事を参考にしました。コミュニティー研究と開発のための基金は93年に設立されました。基金には研究、訓練、僻地開発、都市開発の4つの部門がありいろんな活動をしています。 Foundation for Community Studies and Development: 電話 03-6169854



再びスマトラでマレーシアとインドネシアの同異を考える


先週(2月第1週末から翌週にかけて)またスマトラ、インドネシアを訪ねてきました。そこでスマトラで考えたマレーシア社会とインドネシア社会、ここではスマトラ社会、の比較を軸に再度そのことお伝えしましょう。当サイトはマレーシア専門を歌っていますから、インドネシアのことを伝えるのはちょっとおかしいのではありますが、広い意味でのマレー・インドネシア社会に関係あるという意味ですから、今回はご理解下さい。

偏ったインドネシアへの興味

日本人だけでなく欧米からの旅行者を含めて、バリを別にしてインドネシアはまだそれほど身近な存在ではありませんね。インドネシア旅行といえばバリ島一辺倒で、その情報はあふれていますね。日本語のそういう情報に疎い筆者でも、本屋へいけばバリのAからZまでを面白おかしくまたうんちくを傾けた雑誌風本やガイドブックが並んでいる事を知っています。これはそれだけバリを売るインドネシアの政策が成功した証拠でもあり、旅行者が何を求めているかの嗜好・傾向をしることができます。 バリ以外に売るものは首都ジャカルタと古都ジョグジャカルタとボドブドール遺跡、バンドンそれぐらいしかないでしょう。それとバックパッカーならロンボク島、ダイバーならスラウエシの一部ぐらいかな。

複雑さはマレーシアを上回る

インドネシアは西端のスマトラのアチェから東端のイリアンジャヤまでの距離 5000Kmは、日本からジャカルタの距離に匹敵するほど離れており、インドネシアの国を構成する島の数は実に1万を超えるのです。それほど超広大でまとまりのない地形で構成されるインドネシアは人口2億を超える世界の大国です、またムスリム人口が世界一というイスラム国家でもあります。超広大で超多数の島からなるインドネシアですから、民族の多様性はいうまでもありません。

これをみると多民族複数宗教のマレーシアも、地理的には半島部とボルネオ島部だけの2分割社会ですから、その構成の複雑さではインドネシアにはかないません。サバ州サラワク州にいくら数十の先住民族が住んでいるといっても陸続きですし、インドネシアのように人口巨大ではありません。幸か不幸かボルネオは植民地列強によって勝手にオランダ領とイギリス領に線引きされ、それが現在のサバサラワク州とカリマンタンの国境になってしまったのです。サラワク州の最大民族イバン族はサラワク州だけに住んでいるのでなくカリマンタンにも住んでいるのであり、サバ州にバジャウ族はスルー海を根城としてフィリピンにも住んでいます。

このように国の境は即民族の境ではありません。歴史の中で植民地勢力や時の為政者の気まぐれで、勝手に線引きされる例は世界至るところにあり、インドネシアの例もそれに漏れません。こういうことを考えると日本はなんと幸せであるかとつくづく感じます。島国としての国境が民族のとしての境にほぼ重なり、不幸な北方領土と沖縄の一部のの例を除いて、まことに均質な社会でありつづけてきたのですね。

非均質社会を見る目

こういう均質社会で生まれ育った日本人には諸民族が入り交じった非均質な社会と交わると戸惑いを感じ、またその社会の非効率さを嘆く事が多々ありますが、よく考えていただければおわかりのように、異質な者たちが互いに交流すれば習慣言語などのすべての面である種の妥協が必要であり、”完全”を期待できないのです。あうんの呼吸で互いが理解できるのはやはり同質的社会か又はある民族だけが絶対的な権力をもった社会です。

異質な交じり合った社会では共通言語も時として流動し、それがリンガフランカの発生を生むのです。リンガフランカはあくまでも交易・交流のための言語であり、それで思想を語り小説を書くものでは本来ありません(例外はある)。マレー語はもともとこういうリンガフランカとしても使われていたのですが、マレー半島ではそれがマレー人の母語であったのと対照的に、インドネシアではそれを母語としたのはスマトラの東海岸マレー部族にとどまっていました。そこからマレーシア語とインドネシア語の生い立ちと発展が違う事になり、現在の同根ながら結構違うという状況を生み出しました。(互いに通じないということではない)

インドネシア語は今でもインドネシアでは多くの人にとって母語ではないのです。国語であり公用語でありますから、通用度は相当高いのですが、低教育層にとってまだまだ各民族のことば、例えばジャワ人ならジャワ語、アチェ人ならアチェ語、が彼らの母語なのです。「それぞれの地域におけるインドネシア語のできない人の割合、中部ジャワ50%、バリ島48%、スマトラ29%など」 (言語学者の柴田紀男氏のことばより)。インドネシア語が民族間のコミュニケーション用言語つまり族際語であることがまだまだ強いわけです。これがマレーシアですと族際語の地位を占めているのがマレーシア語だけでなく英語もそれに加わります。

マレーシア半島部とつながりの深いスマトラ

さて話をスマトラに戻せば、スマトラはインドネシアで2番目に大きい島、28万8千平方キロですから半島部よりはるかに大きいのです(マレーシア全体で33万平方キロ)。歴史的に言えばマレー半島部とのつながりが強く、例えばイスラム教はスマトラ経由で伝来しました。又マレー人がスマトラの東海岸に移住したりスマトラからマレー半島に移住した民族もあるのです。その代表がスマトラのミナンカバウ民族で17,8世紀にヌグリスンビラン州へ移住してきたのです。ヌグリスンビラン州の州都スレンバンに見られるミナンカバウ建築は有名ですね。

当然なが交易面でも半島部とスマトラはつながりが強く、15,6世紀にはマラッカ海峡王国が半島部とスマトラ中部に栄え中国とインドを結ぶ交易の中継地でありました。地図をご覧になればよく分かりますが、マラッカ海峡はたいへん幅が狭く、スマトラの属小島から半島部の一番近いところまでなら小船で1時間ぐらいです。半島部のマラッカからスマトラのドマイまで毎日往復しているフェリー便は2時間ほどで海峡を横断してしまいます。いまではその近さからインドネシアからの不法労働者の半島への上陸があとをたちません。非合法インドネシア労働者を移入するシンジゲートがあることは公然の秘密です。

このところ何回も足を運んでいるスマトラで会った人々のなかにはマレーシアへ出稼ぎに行って帰ってきた人も数人いました。スマトラでそういう人を探す事は決して難しい事ではありません。だから偶然筆者も数回そういう人とことばを交わしたのです。

このようにスマトラはマレー半島部と昔から密接な関係があったことを考えながらスマトラを旅すると、また違った興味が湧いてきます。マレーシア、特に半島部が周辺地域と関係なく存在する事はありえません、マレー半島部と北スマトラ東海岸との民族・言語的緊密さと歴史的つながり、及びタイ南部の数百万人のムスリムとの宗教的面からのつながり(タイは決して微笑みと仏教だけの国ではありませんよ)は、誤解を恐れずに言えば半島部とサバサラワク州のつながりよりも歴史的には深いのではといえるほどです。もちろん現代では一つの国ですから政治的には強いものがありますけど。

筆者はこの3地域、北スマトラの東海岸、タイ南部、マレー半島西海岸をトータルに考察する知識を持ちあわせていませんから、これ以上ここで解説できないのが残念です。

スマトラ全てで騒乱が起きているわけではない

この1年数ヶ月の間に、スマトラでの97年山林火災以後、筆者は4回スマトラを訪れてきました。昨年後半からはインドネシアの不安定社会情勢のもと、多少緊張を感じる場面もありましたが、マスコミが伝えるほどスマトラは不穏ではありません。今回は主に西スマトラとRiauと呼ばれる地域を駆け足で回りましたが、そこでデモや暴動が起こっているわけではありません。いつもながらマスコミの特に西欧マスコミの誇張した報道にはひとこと言いたくなります。

口をかわした何人かのインドネシア人は言っていました、「西スマトラはaman です」つまり平和ですと。確かに社会に緊張は感じられませんでした、しかし町や村にあふれている巨大人口の圧力とインフラの悪さを見ると、完全に安心してはいられません。

ここでひとこと言っておきますと、多くの人は暴動とかが恐いとお考えですが、もちろんそれ自体は恐い、実際はそれよりも人心のすさみが恐いのです。暴動はそういう所へのこのこ出かけていかない限りそれほど恐くないのです。社会状況が不安定で治安が悪いと、暴動とは関係ないところで、つまりなんの変哲もないところでちょっとしたことがきっかけで脅し時には強盗などが起きやすくなるのです。筆者はバスターミナルなどでしつこくまつわりつくインドネシア人には慣れてますからいつも適当にあしらうのですが、一度その若者の態度が急に硬化した時ひやりとしたものです。スマトラの人たちの多くは粗雑ですが心は優しく別に危険など感じませんが、ものすごく刹那的に暮らしている人々が時に目立つので、なんでもないことがきっかけで襲われるという可能性はゼロではありません。完全単独行動する筆者はそれが心配なのです。

前回まで筆者は主にスマトラの最北部ACEHを回っていましたが、ここは東チモールと並ぶインドネシア内でもっとも自治意識の強い地域且つ民族なので、それを押さえつける軍隊の駐留が目立ち、インフラの極端な格差が目に付いたのものです。Acehの貧しさを目の当たりにすると形容しがたい気持ちになります。そのためAcehではこれまでに何回もジャカルタ中央派遣の軍隊と衝突しており数十人の死者が出ていると報道されています。私が訪れた町ではその数週間後に衝突がありましたし、今回もスマトラへの出発朝に読んだ英字新聞の記事にはAcehの一部で暴動が起きている事を伝えていました。そのためもあり筆者はスマトラ内での周遊地を多少変えたのです。

インドネシアの国内テレビ放送を見ていると東チモールの騒乱が何回も映し出され、次の放送ではジャカルタのデモ状況が写し出されるといった具合です。これらに比べればマレーシアで昨年起こったアンワル支持派のデモ・集会行動などほとんど子供の火遊び程度で、これを大袈裟に伝えた西欧や日本のマスコミは何を意図していたのかと勘ぐりたくなります。

肌で感じたかわりつつあるインドネシア

インドネシアの状況は昔筆者がジャワを歩いた頃(80年代)の政治状況とはものすごく変わったと実感しました。今回長距離バスの後ろガラスに、反対野党第一党の有名なムガワティ女史とイスラム運動の指導者アミンライスの写真が掲げてあるのを見て驚きました。又彼らとちょっと話し込んだりすると、時々アンワルはどうなっているのかと私に聞き返してくる(私はいつもマレーシアから来たと答えるしマレーシア語で話すので、彼らは私をマレーシア人だと思っている)そんなことがこれまでに数度ありました。人々がこういうことをある程度オープンに口にする雰囲気が今のインドネシアにはあるのですね。町の新聞スタンドには暴動を伝える新聞や雑誌がこれ見よがしに並べてあります。

その一方、一般人は誠に新聞を読まない、ある程度の町でないと新聞(もちろんインドネシア語紙だけ)そのものが手に入らないのです、村規模では新聞を売ってない、だから読まない、読まないから売れない、そんなところでしょう。もちろん極貧困層は新聞などに金を払う余裕がないせいもありますが、そういう人でもひっきりなしにタバコを吸っている、男の喫煙率は100%近いのです。どうやって人々は情報を得るのか、間違いなくテレビとそれと人口の膾炙ですね。伝統的村社会が生きています。このあたりは新聞ぐらいならどこでも入手できるマレー半島部の田舎とは違うなという気を強くします。

外国人旅行者がいない

こういうある意味では流動的状況ですから、筆者の訪問したいずれの回もほとんど外国人旅行者に出会いません。世界のいたる離島にいる白人バックパッカーにも、離島へ渡る町を除いていろんな所で会う事は極めてまれで、ダイビングスポットのWeh島と今回訪れた高原の町Bukittingiでいくらか見かけたぐらいで、町から町へ村から村へと走るおんぼろバスや乗合いバンでは一度足りとも白人バックパッカーと一緒になりませんでした。安宿でもいっしょになりませんでした。

4回の旅で日本人を見たのは1回だけそれも上記の場所です。これほど外国人旅行者が少ないのは希有の事です。今や東南アジアのどこへ行っても、タイやマレーシアはいうまでもなくベトナムであれミャンマーであれ日本人若者のバックパッカー姿に出会わないのはたいへん珍しいのですが、スマトラは全く違います。有名観光地のレイクトバや離島のバンガロー、メダンなどの都会のホテルを除けば、バスターミナルへ行こうと田舎の町を歩こうと外国人旅行者はいません。20年ほど前の東南アジアの状況ではないかと思えてくるほどです。

近いにも関わらず遠いスマトラ

マラッカ海峡を飛行機で50分渡るだけでこれほど違った状況にあるのは不思議な感慨を覚えます。スマトラ社会が極端にマレー社会と違うとは感じませんが、その粗忽さといい加減さはマレーシア社会に慣れた者にも時としていらだちを覚えさせます。例えばこのいい加減さのため今回筆者はMedanまで戻れなくなり急遽別ルートでマレーシアに戻りました(バスターミナルで待っていた長距離バスが何時間も到着せずそのあげく、バスは故障したとのひとことで片づけられた、向こうで買った飛行機の切符に書かれた時刻が実際の出発時刻より2時間も遅れていたため、間一髪で乗り遅れるところでしたなどなど)。

マレー半島部とスマトラ社会の歴史的緊密さが経済発展度という座標によって隔てられてしまったなと感じたのです。スマトラは多くのマレーシア人それに外国人にとっても近くて遠い国ですね。しかしもう半島部では味わえないワイルドな旅がスマトラには残っているから筆者はまた出かけるでしょう。



別の面から見た中国正月の風景から


中国正月(2月16、7日)の約1週間クアラルンプールの街は普段よりずっと静かになります。それはクアラルンプールの住人に華人が多いため、経済活動が休息し多くの華人が新年祝い、里帰りすることが主要な理由ですが、マレー人など他の民族もこの休日を利用して里帰りや旅行に出かけるからです。他の民族の祝日でもちゃんとそれを利用して楽しむのがマレーシア流なのです。2日間の祝日が終わっても華人はまだ休んでいますから、店、会社、工場ではマレー人とインド人それと外国人主体で少しずつ営業活動を再開するわけです。

外国人労働者の姿がずっと目に付いた

筆者はこのところ、この休日前後も含めてあらためて(何十回目かな)クアラルンプール一帯を歩いていますが、今回特に外国人労働者の多さをあらためて実感しました。工場や店が休みですから、そういう所で働いている外国人労働者は、里帰り旅行もしませんから、自然とクアラルンプールの繁華街とか公園をうろつくという事になります。普段うろついているマレーシア人が減った分彼ら外国人労働者が増えるのです。

このため中心部へ向かう市内・郊外バスの乗客にずっと彼らの比率がたかくなりました。時には半数以上がそういう外国人労働者と思しき乗客となります。こういう姿を見るといかにクアラルンプールとその一帯の経済活動を外国人に頼っているかが実感できるのです。外国人労働者でも姿、ことば使いから筆者に容易に見分けがつくのはインドネシア人とバングラデシュ人ですが、外見だけでは判断できないパキスタン人とかスリランカ人、さらにインド人(マレーシア国籍でない)もきっと混じっていることでしょう。

フィリピン人はほとんどが家庭のお手伝いさん(メイド)として働く女性ですが、彼女たちは普段からも毎日曜日、コタラヤショッピングセンター付近に集うのです。それは近くにフィリピン人の日曜礼拝に集まるカトリック教会があることからで、礼拝の後コタラヤ付近でおしゃべりや買い物しながらうろついていくのです。その合間にフィリピン女性はコタラヤ付近で同じフィリピン女性相手にアルバイトの物売りに励みます。

各外国人には集いの場所がある

外国人労働者はそれぞれ民族毎に主として集まるところがありまして、フィリピン人は上記のコタラヤ付近、バングラデシュ人ならマスジットインディア通りやトゥアンックアブドルラーマン通り付近、インドネシア人なら伝統的にチョーキット界隈です。もちろんそれ以外にも、各種民族の混在するセントラルマーケット付近とかがありますし、コタラヤ界隈は様々な民族が集まりますから、これはあくまでも主たるということです。

店や屋台の事に触れますと、コタラヤ付近にはバングラデシュ人専用のスーパーまでありますし、チョーキットはインドネシ人相手のインドネシア料理を出す大衆食堂もあるのです。筆者の居住地区は華人地区ですが、多くのバングラデシュ人が住んでいますので、彼ら相手の屋台も数軒あります。チョキットへいけばマレー人用なのかインドネシア人用なのかわからない屋台などいくらでもあります。

こういうことはガイドブックではもちろん触れませんから、旅行者や在住者の目を捉えることはほとんどありませんし、マレーシア人に聞いても彼らはよく知りません。マレーシア人はもともと外国人労働者の文化、行動に極めて無関心ですから、詳しい事を知らなくても不思議ではありません。まあ漠然とは知っているでしょうけど。

日本人の捉える外国人労働者像とは違う

以前にも書きましたようにマレーシア人はこういう外国人労働者の現状に冷淡というよりそれが当然の事であるととらえがちなので、日本で時々見られるように、外国人労働者を援助するとか連帯する NGOはきわめてきわめて少なく、そういう存在が新聞に載って一般に知られることはほとんどありません。丹念に新聞を読んでいる筆者でも知らないくらいですから、一般マレーシア人がそういう存在を知るこ機会はないといっても過言ではないくらいです。

このように、多民族複数宗教国家であるマレーシア人の捉える外国人労働者への態度は、均質国家日本人の捉えるものと大分違いがあります。マレーシア人にとって彼らは単なる出稼ぎ者であり、その出稼ぎ労働者は珍しいどころかマレーシアの始まる前から絶えずやってくる存在なので、そのことに取りたてて感慨もなにもないのです。日本に外国人労働者が流入するようになったのは80年代以後ですし、その存在がめずらしいものであったのと対照的ですね。このため日本人は、方や彼らを拒否する人もある一方、彼らとの交流を積極的にされる人も決してめずらしくありませんね。しかしマレーシアではそれは珍しいのです。例外はインド系マレーシア人が新しくやってくるインドからの労働者に対する感情のように、自分と同民族の外国人労働者に対する場合でしょう。

外国人労働者の比率がごく一時的に高くなったクアラルンプールの中国正月のある風景でした。

金曜日の礼拝をしげしげと眺める

筆者は時々モスクの近くを通る事はあってもその中に入るのはめったにありません。又 モスク内へ入って行ってももちろん礼拝するわけではありません。ムスリムがどう行動しているかなと、ちょっと興味にかられるからです。ここでたまに書いてるように、筆者は(思想としての)絶対無宗教者ですから、遺跡としての宗教建築物は別にして、モスクであろうと仏教儒教寺院であろうと中に入る事をあまり好みません、それは嫌いだということでなく、宗教信者に敬意を払っているからです。物好きな筆者としては何にでも興味があるのですが、それをたてにとって、祈っている人又は施設を勝手に覗いたり写真に取って大丈夫かな、失礼じゃないかな、という心配があるから、つい避けてしまうのです。

宗教信者の熱気に驚く

先週見たあるモスクの金曜礼拝の様子は、そういうことをまじかで見るのは別に始めてでもないけど、あらためて観察すると、信者の熱気にすごいものだなと感心させられました。モスク内に入れないムスリムが路上にそれぞれ持参したお祈りカーぺーットを敷き、モスク内から流れるスピーカーの声とともに一斉に礼拝の儀式をします。内部には入れないのでどれくらいの信者がいるかわかりませんが、路上はざっとみても1,2千人はいるでしょう。彼らが一斉に祈る姿を見ると、宗教力のすごさを感じずにはいられません。

これはヒンヅー教徒の寺院での礼拝儀式を見ていても強く感じます。筆者の居住地の近くにあるヒンヅー寺院で先日12年に1度の宗教祭りが行われたのですが、どこにそんなにたくさんのインド人がいたかのように続続と集まって来てひたすら祈る姿を見ると、あまりのすごさに、到底筆者には理解できない人間の宗教心のすごさを感じます。

華人が毎朝毎夕、香を家や店内とドアー外に立てて祈る姿を見る時も同様ですが、ただ華人の礼拝はこのように数千人が一同に会するようなことは、葬式でもない限りありませんから、モスクやヒンヅー寺院の場合ほどのすごさを感じませんね。

モスク前の屋台と香具師のこと

さてそういう風にして礼拝していたムスリムが解散して、モスク前はまたもとの香具師の商売場所に戻ります。金曜日には多くのモスク前には、通常の数十倍も訪れる信者を期待して屋台や薬売り香具師が並ぶのですが、つい先ほど前まで神妙に祈っていたムスリムが、まことにいい加減なつまり非科学的な口上の香具師に戻るのです。その落差が面白いのです。それを眺めている観衆ももちろんムスリムですが、時に香具師の薬を買っていきます。効く効かないはその人の思い込み次第でしょうから、筆者の口を出す事ではありませんけどね。

アンワル支持者の活動

この屋台群の中には、裁判拘束中のアンワル前副首相の支持者のグループがバッジや関連雑誌、カセットテープ(全部マレーシア語のみ)を売っています。加えてイスラム原理主義政党 PASの機関紙も売られています。これらは別に隠れてとかこそこそとかでなくまったく堂々と、マスジッドジャメの前では警察官の目の前でした、売られており、彼らは熱心に通りかかるものに勧めています。何が売られているのかなと思ってのぞいた筆者にも、一生懸命勧めてくれました。がもちろん買う気はありません。

こういう風に中国正月の時期を利用して街をあらためて眺めてみると、いろいろ興味深い事を再発見できるのです。今年の中国正月にどこへも遠出しなかった筆者の街のルポでした。



客サービス精神と義務感に関する試論


店に入って行くといらっしゃいとかいって店員の方が寄ってきて、何がよろしいですか、どの種類をお望みですか、これをいかがですか、とうるさいですね。これをうるさいと感じるか、又は店のサービスの一つであるから当然と考えるかは、その方の店商売サービスに期待する考えの違いによると思います。筆者は基本的に「黙ってみさせろ」という立場です。

口うるさい店員さん

「黙って見させろ」、これがあまり通用しないのがマレーシアの店店です。もちろんデパートとかスーパーでは、ただしセールスプロモーション製品を除く、店員がいちいち客に何が欲しいと尋ねたり、これがいいですよと勧めることはありません。しかし商店街の店、ショッピングセンターの各テナントショップと、どこでもたいていが来店したお客につきまとうのです。当然ながら例外はいくらでもありますが、一般的にということです。まあつきまとうだけならいいけど、いちいち口うるさいから困るのです。何が欲しいかと聞かれても、ただ特別の目的もなくふらっと入ることも多いし、どの種類がいいのかと聞かれても、見てから決める場合も多いし、第一気に入るのがあるのかないのかそれを見極めるためだけに店に入ることもありますよね、こういうことを理解しない店員に辟易することは多いのです。

店員を責めているわけではない

もちろんこれは個々の店員だけを責めてはいけないことは、よくわかります、そうしなさいか、またはそうするべきだという暗黙の了解のなかで暮らしてきた人間にとっては、ごく当たり前のことをしているだけですからね。ちょうど日本の食べ物屋さんへ入ると店に入ってくるお客毎に従業員全員が声を合わせて、「いらっしゃいませ」というあのおかしな慣習に似てますね、一日何十回何百回とテープレコーダーみたいな挨拶をしてるのかと同情したくなりますから。お客と顔を合わせた従業員が心をこめて軽く「いらっしゃいませ」といえばそれで充分なのにね。

マレーシアの店には全員声を合わせて朝から晩まで「いらっしゃい」などというばかげた慣習がないのはたいへんありがたいですが、客にうるさくつきまとうことだけは止めにして欲しい、といつも思いますね。店の外を通りかかってふらっとその店に入っていって、シャツとか靴を手にしてみると、どの柄がいいのか、こちらがいい、とうるさいのです。今度はドラッグストアーに入って行き、なにか面白い薬でもないかなと買う気もまったくなくぶらぶら覗いていると、どこが悪いかのと聞いてくる、大きなお世話だ、悪いのはお前の顔だと言ってやりたくなることもなきにしもあらず、でも紳士たるIntraasia はそんなことは言いませんよ。にこっと笑って ”Not really”とか ”Tengo sahaja見てるだけ”とでも答えておきます。

シャンプー販売員とバス切符勧誘員はとりわけしつこい

この客にまとわりつくのが一番ひどいのはスーパーマーケットの化粧品コーナーで営業しているシャンプー販売促進員です。彼女たちはスーパーの店員でなくそれぞれ受け持ちの銘柄のシャンプーを売る個人営業ですから、たしかに仕事熱心です。でもそれが過ぎると、「先生(中国語でMrの意)又はUncle(マレーシア英語でMrの意) このシャンプーがいいですよ」 とシャンプーの並んでいる棚を客が眺めるだけで勧めてくる、私はどの銘柄がいいかみてるだけなのだ、隣の別のメーカーのシャンプー棚へ行けば又別の販売促進員が寄ってきて、「rousai nei wan mei? 何をお探し?」 「mu sai jikei wan la いいですよ、自分で見ますから」 こういう繰り返しである。

この状況は長距離バスの切符売り場のありさまによく似ています。クアラルンプールのPudu Rayaバスターミナル前の古いビルの一角は長距離バス会社のカウンターが並んでいますが、そこにはいつも切符売り込み人がたむろしており、そのビル前の歩道を通りすぎるだけで、うるさく「ペナンへ行く切符まだあるよ」とか「 シンガポール行き、いかが」 などと話しかけてくる、これがもしかばんを持ってそこを歩けば、「どこへ行くの?」と、しつこくまとわりつくことになる。別にどこへ行くのでなく、単にかばんを持っていようと彼らには関係ないのである。

スーパーのキャッシャースタイルがいい

ところがである、スーパーのキャッシャーカウンターへ物を持っていき計算してもらう段になると、キャッシャーは無愛想に、ひとことも口も利かず買った商品をレジスターに打ち込み、その数字をみて客は金を手渡す、お釣があれば彼女は横手に渡してくれる。

この状況をマレーシアに住むある西洋人が新聞で怒っていた、「キャッシャーは客の品物をレジスターに打ち込み、お金を要求する手を差し出し、しかしその一方近くの仲間と全く関係ないことをマレーシア語か中国語で話している、お客と一度も目を合わさないのだ。これはたいへんしばしば経験することだ」と。

ほー、西欧人は結構真剣にことを怒っているのだな、でも筆者はこれにはそれほどというかほとんど腹がたたない、だって一応ちゃんとことを済ませてくれるから。まあ中には無愛想すぎるのもいるが、筆者はキャッシャーが皆、客ににこっと笑って挨拶し、終わったら”terima kasih ありがとう” などといってもらうことは期待してないし、そんな必要を感じないのである。そういう国もあるであろう、見ず知らずのキャッシャーが客に”have a nice day"という米国みたいなところもあるし、日本のようにいちいち軽くお辞儀して最後にありがとうございます、という所、こういうことを几帳面にやる日本はものすごく珍しい国だ、もある。筆者はあっさりとことを済ませてくれるマレーシアみたいなところが好きだね。

これを捉えて、それは店の従業員教育がなってないからだという意見があるけど、筆者はそうは思いません。あまりにもマニュアル化したばかていねい接客スタイルになんとなく居心地悪さを感じる者にとって、極めて義務的に客扱いしてくれるスーパーはこちらも多少接客態度が悪くたっていちいち腹をたてることもない、別にこんなものさと気楽に考えておけばよいし、不必要なサービスの押し売りを味わうこともない、あっさりした塩味がいいのである。

サービス精神よりも義務感

しかしこのあっさりした塩味スーパーの味がなぜ一般商店では少ないのだろう、ゆっくり客に見させておけばいいのに客にしつこく聞いてくる、この理由を考えると、そういうことをするのが義務だと思っている節がある、つまりこれは客のためを思ってやっているのでなく義務感でやっているのだ、だから客がうるさく感じてもそれは販売員の立場からはたいして関係ないのだ。違った面ながら流れる思想が同じと見られるのが、キャッシャーが隣の人とおしゃべりしながらレジを打つ、私は義務はちゃんとやっているのよ、ですから客サービスなんていわないでくれと誇示しながらである。

だからこういう人々の頭に刻みついた思いと態度を変えることは難しいから、日系スーパーであるJaya Jasco であれIsetanスーパーであれ、日本的にっこりありがとうございますのスタイルは根づかないのである、それじゃ客も従業員も居心地がわるいのです。

同じことが長距離バス切符売りの場合にもいえる。道路上で歩行者にめったやたら各方面への切符を勧めている呼び込み販売者は、何でもいいからただ売るためだけに働いているのであり、彼らを雇っているバス会社は乗客へのサービスのつもりなどやっているわけでない。

その同じ会社のバス切符売場、例えばトレンガヌとしよう、その切符売場カウンターへ行って、「クアラルンプール行きの切符欲しいんだけど」と尋ねると、売り場の女性は面倒くさそうに「何枚?」とか、私用電話中の顔をちらっとこちらに向け、「いつ行きたいの」かと早口のマレーシア語で尋ねる、時にはその彼女の電話が終わるまで5分も待たねばならないのだ。こういう客サービス精神の無さは、義務感から切符を売ってあげるんだという態度になって現れる、このように一見まったく反対に見えるバス切符売り場勧誘員と窓口女性に共通なのは、義務からやっているから、お客はそれを受け入れるのが当然という考えですね。

発想の転換が必要

こういう精神風土を前提にすると、サービス向上を図るより、義務精神の徹底を図る方がいいことになります。つまり切符売り窓口の女性はお客が来たら私用電話は3分で切ることというように規則で決めることです。道路で無差別に切符販売する勧誘員に対しては、1社につき何人までとか名札を胸に付けてやれとかの規則を道路交通局は決めればよいのです。そしてそれを守らない者とバス会社に対してはどんどんと罰則を与えるという対処方法です。

規則が作られれば守られるのかという疑問に対しては、守られないでしょうね、と答えておきましょう。歩道を我が顔で走るバイク、違法の屋台が並ぶ商店街道路の風景を見れば納得していただけるでしょう。でも一つメリットがあります。規則を破れば取り締まりの対象にはなりますから。

これはちょうど罰金主義を奨励することになりますね。つまりいくらいってもわからないから、ゴミ捨てポイ人には見つかったら即罰金、という例の方法です。これ、そのうちポイ捨て人に社会奉仕させる案が通るかもしれません。はやくしてほしいなあ。

例えば、窓口で長電話していたり、隣の女のことベチャベチャしゃべりながら窓口で切符売りしている者には、この窓口に掲げてある規則に「電話は3分で切れ」と書いてあるではないかと文句をいえるではありませんか。サービスが悪いと文句をいっても最初からサービス精神を理解しない人間にそれは無理なのです。目には目を方式で、規則をたてにして文句を言おう。

スーパーマーケットのオーナーとかバス会社の重役さん、従業員はこういうことはしてはいけないという規則を書いた紙を窓口にはるか、掲示板を作ってお客に見えるところに掲げておいて下さいな。お願いします。



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